スーパーカー歌詞考察#5 『My Girl』2つの詩にみる、淡い願いの恋、永い誓いの愛、彼の現在地
スーパーカー『My Girl』のMVには面白い仕掛けがみられる。YouTubeの字幕設定をオンにすると、歌詞が表示されるのは勿論だが、それとは別に、そもそもMVにも縦書きの字幕が付されている。そして、この縦書きの字幕は『My Girl』の歌詞とは似ていながらも違う詩であり、歌詞には見られない心理描写など、楽曲理解に欠かせない。以下、本来の歌詞を「歌詞」、縦書きの字幕を「字幕」、歌詞と字幕における主人格を「彼」、その相手を「彼女」とする。
今回は歌詞と字幕とを合わせて解釈することで、彼の恋愛観と、彼をとりまく人びとの恋愛観、そして、彼の現在地を見ていきたい。今回は「恋愛観」を「恋愛とは何か」ではなく「恋とは何か」「愛とは何か」という「恋と愛の捉え方」として使用する。人は誰もが、それぞれの経験と年齢にふさわしい恋愛観を持っているだろう。楽曲が鋭く問うのはこの部分である。
淡い願いの恋 永い誓いの愛
太字は、歌詞・字幕それぞれに特有の箇所であり、それ以外は歌詞・字幕の双方に共通する箇所である。以下同様である。
1番Aメロでは恋と愛、それに対する彼の心情が端的に描かれる。また、弾き語りの描写は次に取り扱うため脇に置く。
歌詞・字幕に共通して、彼の心情が描かれている。彼は現在「淡い願いの恋」は叶っており「永い(長い)誓いの愛」に構えている。
彼は彼女との永遠の誓い、長い人生を共に歩む誓いである結婚を意識して気構えているのだろう。また、字幕から、淡い願いの恋の成就に至るまでの感情と記憶が風化しつつあることが分かる。
時系列でいえば、彼は「淡い願いの恋」と「永い誓いの愛」の間にいる。そして感情と記憶の風化、現在の心情を考慮すると「永い誓いの愛」の目前である。
期待を引いた分の甘いストーリー
先ほど触れなかった彼の弾き語りの箇所(1番Aメロ歌詞後半部・再掲)と、1番Bメロでは「みんな」が登場し、彼が愛の歌を歌う前提が示される。彼は、みんなが思うように「愛の歌が単純に愛を歌うだけでいい」というのなら(字幕)、期待を引いた分の甘いストーリーをギターを弾いて歌うつもり(歌詞)である。前提条件があるため、イコールでつなぐ。
彼のいう期待とは、一見すると「愛の歌は愛を歌うだけで十分」という「みんなから彼への期待」を指してるようである。しかし、彼のいう期待は「みんなから彼への期待」ではない。方向が逆である。彼のいう期待は、応えるのではなく、引かれる(無視・抑圧)ことで「甘いストーリー」の歌となるからである。
つまり「みんなから彼へ」「彼からみんなへ」の2つの期待があり、彼がいうのは「彼からみんなへ」の期待である。受け手が演者に期待をする一方、演者が受け手に期待をする。「なあ、みんな。「愛の歌は、愛を歌うだけで十分だ」なんて、思っていないよな?」
「愛の歌は、愛を歌うだけでは十分とはいえない」という自分の恋愛観を「みんな」は理解してくれるだろう、という「彼からみんなへの期待」が引かれている(無視・抑圧)。
彼は、自分の恋愛観を無視して、愛を歌うだけの愛の歌を歌う。ここで描かれるのは、受け手と、演者(主体)の、恋愛観の違いである。2番でも似た構図が描かれるが、彼とみんなの恋愛観の違いが何によるものかは、後ほど明らかになる。
愛なんて意味がないと思った
サビでは、歌詞と字幕で真逆の意味内容が展開される。歌詞は「マイガール」から始まる単純な「愛の歌」であり、現状に甘んじて蜜月を歌う。しかし、字幕において彼は、愛の意味を見失い、嘲笑の対象にもしてしまいたいという歪んだ願望を「歌った」と告白している。字幕におけるネガティブな本音は、歌詞における「今はまだそう歌えるよ」という、愛の歌がいつまで続くか分からないといった、不穏な時限に示唆されている。
恋の映画なんて見飽きてた
2番から「恋の映画」というキーワードが出てくる。「愛の歌」「恋の映画」とは何か。歌、映画は、演者と受け手に分かれており、いずれも「実態」ではなく、表現された「表象」である。表象には、その人の価値観が如実にあらわれる一方、実態は価値観に合わないことも起こりうるし、価値観に即した恋愛を貫くことは容易ではない。愛の歌、恋の映画とは、愛とは何か、恋とは何かという、各人の捉え方、すなわち「恋愛観」と、それにまつわる具体的な「恋」「愛」の在りようのことである(ありのままの実態とは違う、恋愛観に適合的な実態)。重要なことに、みんなは彼の愛の歌を聴き、彼は愛の歌を歌い、恋の映画に見飽きて、そのあと恋の映画に出演する、恋愛の主体としての彼なのだ。
彼は恋の映画に飽きている。これまで多くの恋の映画を観てきたのだろう。彼は恋の多様な実態そのものに対する、また、他人の恋に対する興味の喪失に気づかないふりをして、恋の映画に見惚れている。それは「若い世代に愛なんてない」といわれるのが悔しいからであった。
「そんな毎日を笑う」はどう捉えればよいか。毎日とは「「若い世代に愛なんてない」と言われてしまう近い未来の僕の毎日」であろう。「笑う」とは「「若い世代に愛なんてない」に対する反応としての笑いだろう。未来、他人から「愛の無意味」を指摘される際の反応としての笑いである。しかしこれでは、それが何を意味するのかよく分からない。そこで類似表現を探す。「笑う」に近い表現として、1番字幕の愛の歌の心情「愛なんて意味がないと思った。笑いとばしてしまいたいと思った」がある。
「そんな毎日」が、1番サビ字幕の「笑う対象」と同じならイコールでつなげて問題ない。1番サビ字幕の愛の歌の心情は、愛に対する無意味・嘲笑の時限的封殺であり「未来に愛の無意味を嘲笑する」ことは自然である。
いずれも「近い未来、愛の無意味に対する笑い」であるため、同じである。つまり彼は、近い未来「若い世代に愛なんてない」といわれる毎日に、「その通り。愛は無意味」と嘲笑する自分を想定している。
まとめると「若い世代に愛なんてない」といわれ、悔しい思いをして「愛は無意味」と嘲笑する自分をかばうために、「恋の映画」に見惚れているのである。「愛がない」といわれること、いわれて「愛は無意味」と嘲笑すること、この2つは彼を傷つけるのである。実は、彼は自分たちに愛はあり、「愛は無意味である」と嘲笑することを避ける気持ちがあるのだ。彼が「恋の映画」に見惚れるふりをするのは、彼と彼女の恋愛を守るための手段である。
愛の歌は、愛と歌だけで間に合うから
ここでは再び「みんな」と「愛の歌」が描かれる。しかし2番のみんなは、愛の歌に対する捉え方が1番のみんなと違うことに気づく。1番のみんなは「愛の歌は単純に愛を歌うだけでいい」と思い、彼は「期待はずれだ」ともいいつつ、結果的にその通りに単純な愛の歌を歌った。しかし2番のみんなは、彼に「愛の歌はみんなが思うより単純で、愛と歌だけで間に合う」といわせている。つまり2番では、彼よりもみんなの方が、恋愛を複雑に捉えており、彼は「恋愛の単純なこと」を2番のみんなに訴えるという、1番と矛盾したような立場になっている。
1番のみんなのいう「愛の歌は、愛を歌うだけで間に合う」とは違い、彼は2番にて「愛の歌は、愛「と」歌だけで間に合う」という。「愛の歌=愛を歌う」と「愛の歌=愛と歌である」であれば、後者は「愛」「歌」のそれぞれに多様な広がりを含ませることができ、前者より深い恋愛観といえる。そして彼は、1番のみんなよりは思慮深い恋愛観をもつが、2番のみんなよりは単純なのである。
彼は「愛の歌は、愛と歌だけで間に合う」と強がる。そして「若い世代に愛なんてない」といわれるのが悔しいから、興味の喪失に気づかないふりをして恋の映画に見惚れていることも強がりといえそうである。
彼が「愛の歌は、愛と歌」という強がりを示す相手と、彼が恋の映画に見惚れているふりを示す相手が、同じであれば、2番の彼の強がりと、恋の映画に見惚れているふりは、同じものとしてよい。
彼が近い未来にいわれるであろう言葉「若い世代に愛なんてない」と対になるのは「老いて平和なんて目指してないんだった」という彼の言葉である。「老いて平和なんて目指してない」これは、どの語句の修飾でもない、彼の独立した自然な心情の発露であると思われる。しかし、近い未来に彼は「若い世代に愛なんてない」といわれると想定している。それが悔しいということは、逆説的に、少なくとも彼は愛があると思ってるし、愛は無意味であると嘲笑する気持ちがないではないが、気が進まないのである。だからこそ悔しい。
自然に考えて「若い世代に愛なんてない」という発言をするのは、老年世代である。「老いて平和なんて目指してない」という彼の言葉もあった。つまり、この楽曲の世界には老年世代がいるのだ。
老年世代に「愛なんてない」といわれて、愛の存在を証明したい彼は「愛はある。愛と歌だけで間に合う」という。老年世代に対する強がりとは、恋の映画に見惚れるふりをする彼の強がりと同じである。
前に見た通り、彼には結婚を意識する彼女がいる。「老いて平和」とは、結婚生活の安定と老後を想起させる。恋愛観の違いが「彼と老年世代」という、世代の違いで描かれた。それは1番のみんなと彼の恋愛観の違いを、同様に世代の違いで捉えることを許可しているのではないだろうか。
1番のみんな、彼、2番のみんな、それぞれの価値観の違いと、時系列に関する恋愛観の違いをまとめると、以下となる。
淡い願いの恋は叶っており、永い誓いの愛に構えていたとは、恋愛の成熟してきたが結婚はしていないという、恋愛の段階において板挟みな彼の現状を端的に表現する言葉であった。Aでもない、Bでもない、ということは、AとBは別にある。ここでは、彼は、淡い願いの恋でもなく、永い誓いの愛でもない。AとBは、世代別の恋愛観の違いで描かれた他者である、1番のみんな、2番のみんなであろう。
長いこの旅の果てで また笑えるように
彼の老年世代に対する、自分の恋愛観の表明として「愛と歌だけの愛の歌」が歌われる。2番サビ字幕は「愛は無意味」という、彼の嘲笑の心情を描いた1番サビ字幕と、ほとんど変わらない。しかし、2番サビ歌詞は1番サビ歌詞の「愛を歌うだけの愛の歌」とは微妙に違いをみせる。1番は「今はまだそう歌えるよ」と愛の歌に時限をかけていたが、2番では「また笑えるように」と未来に希望を含ませている。
彼は1番で「愛の歌は愛を歌うだけである」という若い世代に「そう単純ではない」と、愛の無意味・嘲笑という本音をほのめかす愛の歌を歌う。
しかし「若い世代に愛なんてない」という老年世代に対しては「そうではない」という。「愛はもっと単純で、愛の歌は愛と歌だ」という。愛の無意味・嘲笑という本心は変わらずとも、彼は、彼自身の恋愛観に「愛に意味を見出す言葉と未来」を添えたのである。
愛への無意味と嘲笑を胸の奥に予感し、また、結婚に踏み切れずとも、彼女との愛に向き合いつづける。愛がないといわれると悔しがり、愛が無意味になってしまう未来を避ける彼に、愛はある。しかし、その息を長らえさせる方法は、現状に甘んじて、興味を失ったはずの恋の映画に見惚れることである。
2番サビの「長いこの旅の果てでまた笑えるように」について「長いこの旅の果て」とは、恋の映画の、恋の迷路の、その終着点であろう。また、「笑う」とは、これまでの愛の無意味・嘲笑ではない。愛の無意味・嘲笑は現在、起こりうる、秘匿すべき彼の感情である。対して2番の「また笑えるように」は現状維持と愛の存命の動機であり、現在にない「笑い」を求めているのである。いま、恋の迷路のなかで、楽しんでいない彼は、以前、笑っていた。以前とは「淡い願いの恋」を楽しんでしんでいた頃かもしれない。
恋と愛とは、時間的経過で切り替わるものではない。若い世代の恋にも、愛の側面はある。また、若い世代が「愛」と思えば、それは主観的には「愛」なのである。付き合って間もない恋人たちの「愛してる」は、老年世代にとっては「恋」として捉えられても、当人たちには「愛」なのだ。彼より若い世代(1番のみんな)が、愛についての価値観を述べているのもその証拠である。
しかし、彼は最後に「恋」の映画に歩き出すという。彼は彼女との恋愛の延命措置として、また結婚を避ける現実逃避として、また、愛に対する無意味・嘲笑の影響か、さまざまな色が混ざって、あえて「恋」の映画のなかで、現状を維持しようとする。恋の美しさに見惚れる「ふり」をしている彼に、この迷路は、難しくも、怖くもなんともないのではないか。その気になれば、すぐに抜け出せるのではないか。彼の笑顔を失わせているのは、彼の恋愛に対する不感症ではないのか。それでも彼は、彼女と共に歩くという。
彼は愛の無意味・嘲笑に振り切る方向を幸せだと感じている。彼の愛には深刻な危うさがあるのだ。しかし、その危うさのもたらす幸せよりも、彼は彼女に願う。そばにいてほしいと。
淡い願いの恋でもなく、永い誓いの愛でもない、彼の恋愛の現在が、まざまざと、生々しく、そこにある。
「My Girl」は「愛するあなた」を意味する。
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