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ライターが、「所属しないこと」を選ぶと得られないもの


webサイトの編集部で働いているらっさむです。

先日、外部のフリーランスライターさんに、修正原稿をお送りしたところ、こんな返信をもらって、少し”もやっ”としました。


”大変お手数をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。
こちらを参考にして、次回からはあまりお手数をおかけしないように頑張りたいと思います“(原文に手を加えています)


その方は、とても仕事のできる真面目な方で、私との仕事は初めてだからと、最初から念入りに骨子などを作成して、こちらの意図とすり合わせをしてくれました。いただいた原稿もすごくすてきだったのですが、媒体のカラーや時事的な事情などもあり(例えば、最近出た記事とタイトルや内容がかぶらないようにするとか、質問者と取材相手の距離感など……)、少し多めに赤字が入った経緯がありました。


ちなみにこのときの私の対応は、最初なので、社内チェックが入る前に、私が赤字修正したものを、そのまま見られる形(Wordの修正履歴あり)であえてお渡ししました。「今後のために、何かあればおっしゃってください」と言ってくださっていましたし、私が逆の立場であっても、修正履歴の残った原稿はすごく勉強になるな、と思っていたためです。(ライターさんがそれを望んでいなさそうなときは、修正履歴が残らない状態で渡しています)


「赤字」という言葉は、どこにも所属しないライターさんにとって、編集者が思う以上に重たいものなのだろうな、、とは、私自身、数年前までフリーランスライターとして働いてきたので、少しはわかります。

だからこそ、「ああ、この方の『次回からは、お手数をおかけしない』という言葉の奥には、いい原稿に仕上げるためではなく、こんな手間をかけさせやがっての対応が数多くあったのではないかな」と思いました。


人の目が入っていい原稿になっていくことより、編集者に手をかけさせない原稿を提出することの、優先順位が高くなってしまっているのは、少し悲しいし、心が痛みます。


タイトルにもある「ライターが、所属しないことを選ぶと得られないもの」ですが、私は、改めてそれが、


「失敗したら次がない」というプレッシャーから萎縮せずに書けることだろうな、と思います。

フリーランスのライターさんには、常につきまとう葛藤、、ではないでしょうか?


私自身、完全に一匹狼(←恥ずい)でライティングをしていたときには、「ここの文章、こんな入りにしたら面白いんだろうな。でも、編集者さんがなんていうかな。はずすのこわいな」と思って、なかなか冒険できないところがありました。

相談することでめんどうな仕事相手と思われるのもいやだし、編集者に手間をかけることなく、そつなくこなすライターがかっこいいし、求められていると思っていました。


これは私の完全なる主観で、編集者さんによっては「やっぱり手間かけられないことが最上。本数を稼げればいい」みたいな人もいると思うんでが、編集者になってみて思うのは、「それって本当かな?」ということです。そういう人ばかりでは、けっしてない。


私には「この編集者さんに育ててもらった」と思っている方が何人かいて、その方が言ってくれたのは、「武末さんは、読者のほうだけを見て、おもしろい文章を書いてください。それ以外の余計なことを考えるのは、編集者である私の仕事ですから」と言ってくだいました。


この安心感。心理的安全性の担保。 


これがあるから、私は自由に書けたし、モチベーションも爆上がったし、読者に喜ばれる記事が書けていたのではないか、と思っています。


編集部からの業務委託で仕事をするようになった今は、「ここは一度、人の目を通して見てもらったほうがいいものができる」みたいな、推敲のリミットが見えるようになった気がしています。それにより、かなり文章が変わったし、時短ができるようになりました。(実際、ライターさんがこだわる推敲と、編集者がこだわる推敲も微妙にずれている場合がありますしね)


ライターという職業が、今、とても人気だと聞いています。
ただ、ライターにはさまざまな働き方があります。その際、「編集部所属だと、サラリーマンと変わらない」と考える人もいるかもしれないので、参考になるかもなあ、と思い、もやったついでに書いてみました。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。








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