「あんた、自分の言葉をもってないよね」と言われたライターが返した、自分でも意外だった言葉

私は、ライターとなって約10年。編集者となって3年。言葉を人に伝える仕事をしてきた。

そんな私が、先日、唐突に姉から言われたのが、タイトルにもなっているこの言葉だ。

「あんた、自分の言葉をもっていないよね」

いい具合に酔いのまわった夜更け。四十路の女、二人(正確には、寝ている子ども達も入れて4人)。なんの話からそんなことを言われたのかは、もう、忘れた。だけど、そのとき何より驚いたのは、自分が、姉の言葉にこう返したことだった。

「だって、私の言葉なんて、誰も興味ないと思ってたから」

ライターとしても編集者としても、私の仕事には必ず、インタビューする相手(インビュイーという)がいる。私の仕事は、あるテーマを掲げて、そのテーマにおいて読者の期待に応えられるであろう識者を探し、その人の話した言葉を、読者にわかりやすく、ときにはちょっとおもしろみをプラスして、文字に翻訳することだ。

私には、エッセイやコラム、小説などを書く人などのように、自分の言葉で語る必要などないし、そんなことは誰も求めていない。識者の頭の中にある知識や情報や、ときには感情を、自分という筒を通して文字としてアウトプットすることだけが重要な、黒子でありイタコだからだ。

いつのまにか、そうした環境に慣れ切ってしまっていたのだと思う。誰も、私の言葉なんて聞きたくないのだと本気で思っていたし、私自身、「伝えたいこと」なんて何もないのだと、思い込んでいた。


私は、今年からコルクラボマンガ専科を編集者枠で受講している。小さな頃から漫画家になりたかったこと。今、原作、編集を担当しているweb漫画を爆発的にヒットさせたいこと。今後は、webサイトの記事なども、文字で読む時代ではなくなり、漫画の需要も増えると思っていることなどが、主な受講理由だ。

講義では、目から鱗のマンガのノウハウを学びつつ、クリエイターとしての在り方というか、マインドセットもみっちり叩き込まれる。そして、これにえぐられるよね。自分自身を、過去を、未来を見据えた今の在り方を。

特に強烈だったのは、「クリエイターが自分の感情に嘘をつくと、その言葉に呪われる」というある講師の言葉だ。重い。重過ぎてなんかもう、べっとりと背中に貼りついて、四六時中見張られているような気さえする。

そして、この言葉の解像度を上げ、「自分ごと」まで落としこんでくれたのが、先日のワークショップがメインの講義だった。


その時間、私は、「役割」をなにもかもとっぱらった、素の自分に気づかせてもらった。娘、次女、社会人、妻、嫁、母親、インタビュアー、読者の代表……etc。いつのまにか、あまりにも多くの役割が、私の人生に、生活に、こんなにも浸透してしまっていたのだ、とあらためて気づいた。それ自体はなんの問題もない。問題は、それらの役割として吐いた言葉を、自分自身の言葉と勘違いしてしまっていたことだ。もう、そのことに強烈に気付かされて、苦しかった。

「クリエイターが自分の感情に嘘をつくと、その言葉に呪われる」という言葉にこんなにもえぐられていたにもかかわらず、なんで、ここまでえぐられるのかを、私は説明できなかった。おそらく、「自分の感情」がどんなものかにすら、気づけていなかったのだと思う。

だけどその講義で、そうした役割をポロポロとはがしていくと、ぼんやりだけど「何か」が見てきたような気がした。うそ、です(あー呪われる!!)。まだまだ、見えてはきていないけれど、そこに何かがあるということだけは、わかったような気がしている。

それは、私には大きな大きな一歩。自分自身、役割をはがした先の自分に、期待なんてしていなかったからだ。姉の言葉は、そんな空っぽの自分を見透かしていたのだろう。さすがのすけ。やばいのは、そう言われて、反論も、腹も立たない自分だった。

講義の中で、たくさんの久しぶり〜な自分を知った。なかでも意外だったのは、「一番、自分らしくあれるときが、子ども達と一緒にいるとき」と答えていたことだ。かつての私は、「いい母親に見られたい」という気持ちで子育てをしてきて、子どもといる時間が苦しかったのにな。ここまで、変わったんだな、と思った。


講義の中で、吐露した言葉に嘘はない。だけど、どこか「うまくまとめよう」としてしまった自分もいて、剥き出しの感情を吐きだすことまではできなかったと思う。泣いても、嗚咽しても自分の言葉で語る人たちを見ていて、私はまだまだだなあ、と思い、なんだかちょっとくやしいけれど、うれしい。

この文章は、自分自身があとから読むために書いている。大丈夫、今後の自分は、今よりきっと、楽しいという確信があるのだ。









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