SNSに翻弄される私たち
ふぃぐのぼやき。
知り合いの目がある限り、本音など言えない。
これは本心を打ち明けられるような人がいない、という意味ではなく、他人の目が介入しているという意識が消えない限り、自分をどこかで良いように見せたいという欲が出てくる。あと匿名ではないサービスの場合は、自分なりの少し違った見方を投稿するのも憚られる。他人の目が第一にあるから、批判をどこかで恐れてる自分がいる。それが本音ではない、と言っているだけ。
SNSは人と人とのつながりが元にあってのサービスだから、いいねとか、コメントとかまあ当たり前についてる機能な訳だが、それが煩わしくなる時期がちょくちょく来る。有難いと思う時期と比べたら、私の場合8:2ぐらい?他人の対して為にもならない生活(全員ではない)を毎日見て、得られることってなんだろう。それよりぼーっと天井見上げて落ち着く方がよっぽど有意義に感じたりする。
SNSの在り方がよく問われる昨今だが、どこまで私の生活に根付くべきなのか未だに判っていない。
適度に楽しむことが常にできていれば、悩むことのない問題だが、ふと気づくと他人を羨ましがったり、知りたくもなかった事実を無理くり知ることになったり、文章の行間から余計なことを考えて、無駄に悔しがったりする。自分の心の醜い部分をSNSに掘り当てられて、操られてる気分になる。
こんなに自分がSNSに向いてないのに薄々気づいてるくせに辞められないのは、ダンスの情報収集が必要なのと、友人やバイト先との連絡は取らねばならないから。
スマホ開くの自体、他人との連絡がなければ、週一程度で十分。調べ物がある時だけ開くのが理想。
炎上とか誹謗中傷なんて、そもそも手軽なSNSの機能がなければ、起こらないのは当たり前。嫌いな相手にわざわざ手紙送るなんてのは相当暇人で、他人を嘲笑うことを職業にしてそう人ぐらいだから。
「コメント欄」は、送料0で、本人に届くまでの時間もほぼ0。このハイパー便利機能のせいで、隙間時間ちょっとで、サクッと本人に送れるから、ちょっと批判しとこーぐらいの意識でどんどんできちゃう。便利の副作用は必ず存在するものですね。仕方のないことと言ってしまったらそうだが、やるせなくなる。
端末に操られてる私は果たして進化してる?端末のない生活が当たり前だった少し前の人たちより、退化してる気がしてならない。
ポジティブのマントを羽織ったネガティブと、自分のことをよく自虐したものだが、こういう場ではそれが面白いぐらい顕著に出る。大丈夫です。リアルでしっかりポジティブに変換しております。お母さん、私は元気です。
こういうぼやきには勿論、結論はございません。なんならオチもないです。レッツモヤモヤ。
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