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石井公二『今年のイベント振り返り&路上観察の現在地2024』/都市のラス・メニーナス【番外】

2020年から「路上観察の現在地を探る」として、いろいろな方をお招きして、その方が見ているものの魅力、また、どうしてそういう視点に至ったかなどを、片手袋研究家の石井公二編集者・都市鑑賞者の磯部祥行がお聞きしてきたトークイベント『都市のラス・メニーナス』主としてYouTubeで配信してきた。「ラス・メニーナス」とは、17世紀にベラスケスによって描かれた、見る人によってさまざまな解釈を生じさせる絵画。街も、人によって、まったく異なる見え方をしているはずだ。

平井オープンボックスを会場として、毎月1回開催してきた。今回、その番外編として、2024年12月21日(日)に、石井公二が今年の振り返りと、とくにここ2年でいろんな方からおうかがいした話からの「路上観察の現在地」を語った。

まず、2024年の振り返りから。タイトル写真のように、8人のゲストをお招きし、さまざまなお話をうかがった。今年の特徴は、街中の「特定のものに注目する」のではない「路上観察」が多かった。簡潔に言うと、

①離島での路上観察(ジオ鹿さん)…都市住宅部ではない場所ではどうか?
②江戸川区のガードパイプ(岡元大さん)…いかにも路上観察的テーマだが、地域を絞ると?
③ネオン風景(サイバーおかんさん)…特に夜の状態。
④電気風呂文化(けんちんさん)…屋内である。路上ではない。そして電流が流れていることを体感していることを観察する。
⑤台湾の攤販(三文字昌也さん)…国外へ。
⑥捨てられた椅子に座る(スミマサノリさん)…対象物に働きかけて完成する。
⑦旧町名(102soさん)…概念の拡張。
⑧サンポーを読み解く(ヤスノリさん)…散歩がテーマの記事を分類するとどうなるのか。

といった感じだ。それぞれの回のYouTubeアーカイブやnote過去記事をご覧いただきたい。

そして「路上観察の現在地」の話に移る。我々はどこから来て、何者で、どこへ行くのか。

①我々はどこから来たのか

今年の「都市のラス・メニーナス」を通じて再認識したのが、路上観察の大きな源泉である「笑い」だ。

路上観察学会の当初の「見立て」だって、「トマソン」という言葉だって、元は「笑い」だ。多くの人に影響を与えた『VOW』だって、「笑い」を含んでいる。しかし、現在では、自分とは関係ないなにかを「笑う」という行為は、SNSでは糾弾される。「なぜ笑うのか。笑うということは、低く見ているのか」と。それだけでなく、昨今の闇バイト問題から、住宅街でキョロキョロしていたり写真を撮ったりすることも糾弾される。もはや「見ること」すら糾弾の対象となってしまったのだ。

我々は「笑い」から来た面もあるのだ。

②我々は何者なのか

関東大震災を踏まえた今和次郎の銀座の調査が1925年なので、来年で100年。路上観察学会が結成されたのが1986年なので、再来年40周年。なにか、節目な気がする。その長大な時間の中で、路上観察を取り巻くあらゆるものが、そして実践者たちが変わってきた。

路上観察者たちの出自は多様化し、対象や手法は細分化・先鋭化しつづけている。赤瀬川原平にまつわるイベントで路上観察学会関係者が一人も(表面を見る限りは)関係せず、そうした境界を横断するような交流は現象しているように感じる一方で、「まちあるコツアー」のように、横断的なイベントもいくつか開催された。

③我々はどこへ行くのか

2024年のゲストたちのように、「観察」の先に行くのではないだろうか。ネオンを背負うサイバーおかんさん、電気風呂を身体で感じるけんちんさん、捨てられた椅子に座り続けるスミマサノリさん。

概念の拡張も進むだろう。以前、石井が「片手袋があった場所から片手袋が持ち去られても、それがあった場所は片手袋」のような、禅問答を述べていたが、102soさんの「旧町名」の概念は、名付けられたものならなんでもあてはまる。

場所も、都市部の住宅地だけではなく、屋内から海外まで、さらに広がるだろう。

でも、先鋭化しなくてもいい。ただ「なんとなく、好き」「見ているだけでいい、知りたくない」に、何を尊くない部分があろうか。たくさん見て気づくほうが気づかないほうより偉いと錯覚しがちだが、そんなことは誰も言っていないのだ。

今後、路上観察のフィールドはますます拡大し、既存のジャンルで既知の部分に近づくものもあるかもしれない。例えば屋内に向かった場合、建築やインテリアが好きな人には常識すぎることを、観察者が再発見するかもしれない。そうなると、「路上観察」という言葉に、何か限定的な意味を感じてしまう。

かつて、内海慶一さんが「都市鑑賞」という語句を提唱した。たしか、とはいえ完璧に表現していない面もあるのでもっといい語句があったらそうする、というようなことを言っていたと思う。これは言葉の「境界」を考える話だが、今後、路上観察がフィールドを拡張していけば、いろいろな場面で「境界」を意識し、定義する必要が出てくるだろう。それも、路上観察の「現在地」である。

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