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いつか宇宙の藻屑になることを夢見ていた。

「宇宙の藻屑になりたい。」

そうつぶやくと、親しい人たちはきまって、何言ってるの、と笑う。
ははは、いや、本当に、と言っても、ほとんど本気にしてもらえない。

でもそれでいい。この感情はやはり、わたしだけの特別なものなのだと再認識し、そのたび、胸の中には静かな海が広がる。

幼い頃から漠然と、宇宙や星というものに心惹かれていた。

中学の天体の授業は苦手だったし、天文部に入っていたわけでもない。プラネタリウムに連れていってもらうのは大好きだったけれど、星座に特別詳しいわけでもないし、星占いにもそこまで興味がない。

ただ、宇宙のことを想像するとなぜか胸がいっぱいになった。
夜空に光る星を見ると、いつも泣きだしたくなった。

月までは約38万km。太陽までなら約1億5000万km。北極星に至っては、約4000兆km。
宇宙は……それよりもさらに大きく、広い。

途方もない距離。果てしなく広がるその圧倒的な存在と、いつかは燃え尽きて消えてしまう星の儚さに、畏敬の念を抱いていた。

もしこの世界からしゅっと消えるのなら、宇宙の一部になりたい。
その思いは、気づけばずっとずっと、わたしの頭の中に居座り続けていた。

人は死んだら星になるというけれど、それを本当に願う人はどれくらいいるのだろう。

◆ ◆ ◆

宇宙に漠然と焦がれ、読書と小説を書くこと、そして演じることがとくべつ好きだった少女は、3人兄弟の末っ子として生まれた。ふたりの兄との歳の差は、11と13。家族にとって待望の女の子だった。

名前は「晶」と書く。そしてこの一文字で、「あき」と読む。

文学的で賢く、芯のしっかりとした女性になるようにと、両親は歌人の「与謝野晶子」から漢字をとったらしい。

ふだん書き手としてひらがなで名乗っているので、この漢字を書くんですね、と驚かれることも多い。

わたしが今、「むらやまあき」とひらがなで名乗るのには理由があって、それは、小学生の頃からずっと読み方や性別を間違えられてきたからだ。

あきらくん。はじめてわたしの名前を見る人の多くが、そう呼んだ。
あきです。間違えられてしまう前に、自ら名乗るようになった。

正しく呼んでもらえないことが悲しくて、しまいには仕事やSNSで使う名前もひらがな表記にした。

「晶」の字自体かっちりと角ばって、無骨な印象。おまけに「昌」とかなりの確率で間違えられる。

毎日手書きで記名をしていた学生時代も少しずつ遠い過去になり、漢字表記の自分の名前を書くことはほとんどなくなった。

そんな中で、先月、自分の名前とひたすらに向き合う機会があった。

昨年半年間通っていた、コピーライター・阿部広太郎さんの講座「言葉の企画」だ。
当時は毎月みなとみらいに通っていたが、今年はすべてオンラインで行われており、OBOGも聴講生として参加ができる。

聴講生にも事前課題があり、そのうちのひとつに「自分の名前の由来についてA4・1枚にまとめる」というものが出されていた。

一度は卒業した講座にまた参加することに決めたのは、この課題があったからだ。

7月。わたしは悲しい出来事たちに心を強くひきずられ、調子を崩し、人生に期待することに疲れてしまった。

親しい人たちはいろんな場所に連れ出してくれたけれど、前向きな気持ちは2日ともたなかったし、お酒を飲んで一時的に気が紛れても、帰り道はいつもぼろぼろと泣いていた。しまいには、他人や社会とのズレにいちいち傷ついて、人と話すことすらも億劫になった。

とはいえ仕事はしなければならないし、ずっと腐っているわけにもいかない。この状況を打破するために、何か動かなければ。

そんなすがるような気持ちで参加を決めたのが、「言葉の企画」だった。

この世界に生まれた証として両親にもらった自分の名前と向き合うことで、「生きる」ということを手繰り寄せられるんじゃないか。

その思いで、わたしは久しぶりに漢字の名前と向き合うことにした。

名前の由来は先に述べたように、文学的で賢く、芯のしっかりとした女性になるようにという願いを込めて付けられた。

わたしの両親は、そろって本の虫だ。

実家の2階の廊下には壁一面の本棚があり、収まりきらずに積まれたおびただしい数の本で埋め尽くされている。そんな両親のおかげで、案の定、わたしは文学が好きな少女に育った。

由来とは別に、心を揺り動かされたのが「晶」の漢字の成り立ちだった。

明るく澄み切った星が3つ、輝くさま。
「星の光」を表す「日」を3つ重ねて「星々の輝き」を表現している。

静かな衝撃が走った。

無骨で可愛げがないと思っていたわたしの名前は、わたしがずっと焦がれていたもので形どられていた。

星。夜空にひときわ明るく輝く、3つの澄み切った星。

月は太陽がいないと照らされることがない。その一方で星(恒星)は、自らが燃えて光を放つ。その小さな光は、数億光年を超えてわたしたちの目に届くほどにまばゆく、美しい。

それは、わたしが在りたいと願う姿、そのものだった。

この2020年がやってきたタイミングで、わたしはひとつの覚悟を決めていた。誰かに自分の評価をゆだねるのではなく、自分で自分をしあわせにしたい。二本の足でしっかりと立てるようになりたい。

その覚悟を決めた直後、世界は目まぐるしく変化し、わたし自身の環境も大きく変わった。忙しない日々の中、目の前のことにとにかく必死で、未来はぼんやりと霞んでいった。でも。

わたしが生きる理由は、わたし自身の名前にあったのだと、今気付かされた。

苦しいとき、心が壊れそうなとき、この世界に疲れたとき、頭にふと浮かぶ「宇宙の藻屑になりたい」という思いと自分の名前とが、ひとつの線で繋がったような気がした。

その思いの裏側にあったのは、藻屑になって消えてしまいたいではなくて、星のように光り続けることで、誰かに覚えていてほしいという感情だったのかもしれない。

誰かに照らしてもらうのではなく、自分の力で燃えて輝きたい。そして、その輝きで誰かの心を震わせたい。その人の記憶に残る存在でありたい。

それが、今のわたしの生きる理由なんだと思う。

自らを燃やすぶん、傷つくことも苦しむことも多い。今思えば、幼い頃からずっと表現の場に身を置いてきて、自分の一部を削るようなひりひりとした感覚は常にあった。舞台で演じることも執筆もそうだ。

でも、ずっとそうやって生きてきたし、だからこそ人に深く伝わる喜びをたくさん感じさせてもらいながらここまで来た。

今もこうして、時に血を吐くようにむき出しの感情を文字に綴っているのも、あなたの言葉には嘘がない、だから心が動かされる。と言ってもらえることがとても多いからだ。

だからたぶん、死ぬまでそうやって生きていくんだと思う。

今はもう、日々のほとんどをひらがなのわたしで生きているけれど、漢字の自分の人生も大切にしたいと思った。

両親の願いと、新たに意味づけをした自分の意志とが詰まったこの名前は、この世界でひとつだけだから。

間違えられても、何度だって言う。
だから、何度でも呼んでほしい。

これは25歳を前にした、わたしのひとつの夢であり、覚悟だ。

小さくてもいい。でも、唯一無二の。

自分を燃やし、時にその熱で自らを滅ぼしながらも、圧倒的にまばゆくてやさしい光を放ち、見る者の心を震わせることができる星に。

そしていつか死んでもなお、人の心に小さく輝き続ける星に、わたしはなりたい。

(おしまい)

p.s. 一等星、二等星、三等星と言うけれど、それは星の明るさを表していて、数が少ないほど明るく、よく見えるのだそう。

つまりこの曲のタイトル、六等星は限られた人にしか見えないほど、光の弱い星ということ。

それでも懸命に光る星に、わたしは一等星にまさる愛おしさと、あこがれを抱いてしまうのです。

◆ ◆ ◆

昨年の「名付けの企画」の課題で書いたnote。「note編集部のおすすめ」にも選んでいただいた思い出深い記事なので、こちらもよかったらぜひ。

それではいつか、またこの場所で。

(本当におしまい)

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むらやまあき
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