誘われるうちが華

おじさんの需要はないので

有り体に言ってしまえばそうである。酔っぱらってるうちに言っておく。今年で42歳になるおじさんに、需要なんてまずない。いくら時間があっても、受動的なだけではまず何かに誘われることはない。
例えば今。休職4か月を得てはいるが、平日に予定なんかまずない。休日だってそうだ。イベントに自分から突っ込んで予定を埋めなければ、平日のように家でぼーっとしているのと何ら変わりはない。うつ病の薬を飲んでいたって、ぼーっとしているだけでは病気は良くならないのだ。
20代の頃は需要があった。PBWのオフ会のスタッフに誘われることもあったし、オフ会の企画を運営側から頼まれて主催をしたことだってある。それが次第に移り変わっていく。20代が終わる頃には、主催を降ろされた。
世代交代、と言えば聞こえはいいかもしれない。若いうちに経験値を積むことはいいことだ。だが、交代させられた方には、過去の経験だけがただぽつんと残っているだけだ。

誘われないなら誘えばいい?

自分に需要がないなら、自分から需要を作ればいい。それが今年の目標だったように思う。フラスタ企画しかり、イベントしかり。例大祭では、同人誌を作るノウハウを教えてもらうよう予定を入れた。人数が集まれば冬コミに向けてでも小原好美ファンブックを作ろうと思っているからだ。
よく考えれば後先考えない行動である。むしろ、後先を考えないようにしている。需要を作って、「みんな集まれー」が効けばいい。効かなかったらどうするのか。そこについて考えるのを停止している。考えたら負けだからだ。以前にも書いたが、はじめはみんな興味を持ってくれる。だが、それが繰り返し繰り返しになってくると、自分の手を離れたところで集団が発生する。その集団に、自分はいない。
うつ病患者だから悲観的になっている、なるほど道理は通る。しかし現実は非情である。自分から何か常に新しいものを生み出さない限り、需要は減っていく一方なのだ。誘ったところで、NOと言われてしまえばそれまでだ。過去の栄光は、常に輝きはしない。

自分にご褒美をあげよう、ツケは未来の自分で

日常では自分という存在は埋もれてしまう。ならば非日常で自分という存在を掘り起こそう。埃をかぶった自分を吹いて、埃を払ってあげよう。
それはイベントに限ったことではない。例えば、推しに夢中になっているとき。映画を見ているとき。「ラージス」という存在を表にして、「市川陽一」という存在を裏にしよう。そうすれば、自分のことを自分で認められる。表の自分に投資をして、裏の自分に払わせよう。
「推しの子」のゴローも、少なからず同じように思っていたと思う。赤坂アカという原作者は、現実を緻密に描く。それ故に、作品に観客を自己投影させることができる。現実から目を背け、推しに夢中になる最初の10分は、決して少なくない人数を自分に重ねていたに違いない。
嘘は武器だ。若さも武器だ。では老兵は消え去るのみなのか。何も持てずにただ遠くを見つめるだけなのか。答えは悲しいかな否である。ただただ足掻くだけでも、何かは通る。過去の栄光に縋り付いてでも、今の誰かに過去の自分を重ねることができるなら、それを表裏一体となった自分が教えることができる。新しい何かを見つけることができたなら、先達となって旗を振ることができる。まぁ、早い者勝ちではあるのだが。

酔っぱらいの戯言

現実は表ではない。苦しいことは表にしてはいけない。現実を裏にして、表で輝いた対価を払わせなければならない。表裏一体と言うからには、表で輝く分だけ裏で苦労しなければならない。それを突き詰めてしまえば、結局何が表かわからなくなるのだ。例えば、10円玉の表がどちらか、というように。逆を言えば、裏で苦しんだ分、表で輝くことができる。将来の自分を輝かせるために、知られない努力をしなければならない。
日常が苦痛な分、非日常は開放的な快感が味わえる。それはマゾヒズムとかではない。現実逃避している時が、人は幸せなのだと思う。そうでなければ、匿名性の高いネット社会はここまで栄えてはいないだろう。日常が幸せなのはごく一部の人間だけだ、それこそ実名を出しても楽しめるくらいには。

足掻け。足掻け。足掻け。その分、反動は楽しいものになるだろうから。

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