短編2

古びた時計の針が静かに午前零時を指した。窓の外には、闇が一面に広がり、星の光も届かないほどに黒く深い夜が支配していた。部屋の中は薄暗く、灯りは机の上に置かれた一本の蝋燭だけだった。その揺れる炎が、小さな影を壁に映し出している。

老人は静かに椅子に座り、手元の古い日記を見つめていた。その日記は、ページが黄色く変色し、端が擦り切れていたが、彼にとっては何よりも大切な宝物だった。

彼の指先が震えながら、日記のページをそっとめくる。そこには、彼が若い頃に綴った思い出が詰まっていた。過ぎ去った日々の記憶、失われた愛、そして数え切れないほどの後悔。それらすべてが、彼の人生を形作っていた。

彼はふと、ある一ページに目を留めた。そこには、彼が二十歳の時に出会った女性のことが書かれていた。彼女の名前は玲子。彼にとって、彼女は初めて愛した人だった。

玲子との出会いは、偶然だった。町の小さな図書館で、彼女が手に取っていた本が彼の興味を引き、話しかけたのがきっかけだった。彼女の笑顔、柔らかな声、そして知的でありながらもどこか謎めいた雰囲気に、彼は瞬く間に惹かれていった。

彼らは何度も会い、深い話を重ねるうちに、自然と恋に落ちていった。しかし、彼の心にはいつも一つの不安があった。彼女は決して自分の過去について語らなかったのだ。

ある日、彼は勇気を振り絞って彼女に過去のことを尋ねた。すると、彼女の表情が曇り、しばらく沈黙が続いた後、彼女は静かに口を開いた。

「私は、あなたに話すことができない過去を背負っているの。でも、それが私のすべてを知っても、あなたが私を愛してくれるなら、私はそれで十分です。」

その言葉に、彼は何も言えなかった。ただ彼女を抱きしめることで、自分の気持ちを伝えたかった。しかし、彼女の目には深い悲しみが宿っていた。

その後、彼らは二度と過去について話すことはなかった。彼は彼女を愛し続けたが、彼女の心の奥底にある闇は、彼には決して触れることができない場所だった。

そして、ある日突然、玲子は彼の前から姿を消した。何の前触れもなく、何の言葉も残さずに。彼は必死に彼女を探したが、彼女の姿を見つけることはできなかった。彼女が残したのは、彼の心にぽっかりと開いた空洞だけだった。

老人は日記を閉じ、深い溜息をついた。彼女のことを忘れようと何度も試みたが、その度に彼女の笑顔が浮かんできた。そして彼は悟った。彼女は彼の人生に深く刻まれた存在であり、その傷は一生癒えることはないのだと。

蝋燭の火が消えかけ、部屋は再び闇に包まれた。老人は静かに立ち上がり、窓の外を見つめた。遠くで、夜の静寂を破るように風が鳴いていた。その音は、彼の胸の奥で今も響き続ける未練と共鳴していた。

彼は窓を開け、冷たい風が部屋に流れ込むのを感じながら、静かに呟いた。

「玲子、君は今、どこにいるんだろうか…」

その声は、夜の闇に消えていき、再び静寂が戻った。老人は、もう二度と彼女に会うことができないことを知っていた。それでも、彼の心の中には、玲子との思い出が永遠に生き続けるのだった。


夜は、何も言わずにその深さを増していった。老人は再び椅子に座り、静かに目を閉じた。彼の心の中で、玲子の微笑みが、遠い過去の記憶と共に優しく輝いていた。

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