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御言葉の黙想 マタイによる福音書12章48節ー50節 2024年8月15日
本文:
イエスはその人にお答えになった。「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か。」
そして、弟子たちに手を差し伸べて言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。
天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」
黙想:
言うまでもなく、自分を生み育ててくれた「親」と言う存在は特別である。しかし、親も人間である。しかしながら、人間は親に対する特別な感情から、自由にものを考えることがなかなかできない。
親と子供はニュートラルにお互いを見ることが困難である。だから、親がいくら毒親であっても自由になることが難しいし、子供がどれだけ凶悪な犯罪者であっても、擁護してしまう。
イエス様は自分を訪ねてきた母と兄弟たちの前で「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か。」とおっしゃった。精神的な自由がなければできない発言である。
この自由は非倫理的な動機からのものではない。主イエスは天の父と深い結びつきを築いておられた。この精神的土台から人間の関係性を眺めるときに、私たちは本当の兄弟姉妹が誰であるのかを知ることができる。
そして、毒親と子供を自立的な存在にさせ、彼らを本当に愛することができるようになる。