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御言葉の黙想 レビ記11章45節 2024年8月1日

本文:
私はあなたがたをエジプトの地から導き上り、あなたがたの神となった主である。私が聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい。


黙想:
レビ記にはイスラエルが礼拝や生き方において守るべき事柄が記されてある。本文の11章は、食べてよい清い食べ物とそうではない食べ物について説明している。
今日、私たちはこのような規定を守ってはいない。この自由を得るためには、非常に複雑で困難な戦いがあった。

まず、ユダヤ民族主義者たちによる割礼の強要の問題があった(使徒言行録15,1-2)。そして、アンティオキア教会におけるパウロとペテロの衝突があった(ガラテヤの信徒への手紙2,11-12)。

ペテロは神から直接「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない。」というメッセージを受け取っていた(使徒言行録10,15)。それにも関わらず、ユダヤ民族主義者たちの顔色を窺い、異邦人クリスチャンたちと食事を共にしなくなった(ガラテヤの信徒への手紙2,12)。
ペテロには状況を見て人を裏切った前科がある(マタイによる福音書26,74)。ある意味、人格的な一貫性が見られる。

パウロはペテロに面と向かって言う。
「あなたは自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのですか。」。
今日の私たちにも差し迫る衝撃的な言葉である。

ペテロは後に目を覚ましたかのような演説をする。
「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖も私たちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、これは、彼ら異邦人も同じことです」(使徒言行録15,10-11)。

やがて使徒たちはこの問題について合意を見出す(使徒言行録15,19-20)。
律法の本質は神と人への愛である(マタイによる福音書22,37-40)。だから、「そこに愛はあるのか?」と常に問い続けることが大切だと思う。

私たちが神の御前で義とされ、聖と認められるのは、ひとえに主イエスの十字架の御業によるものである(ガラテヤの信徒への手紙2,16)。
自分で義となるのではない。主が義と認めてくださるのである。だから、私たちは互いに許しあい、愛し合うことができる。

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