性衝動に起因する犯罪行為をSNSによる私刑で裁くことの是非について
文春砲によって、メディア業界の大物たちが次々とリンチされている。彼らは今後一切国内メディアと関わりを持つことが許されないだけでなく、現代の日本社会において村八分にされることだろう。その際に彼らのこれまでの功績が語られることはない。
もちろん彼らは断罪されるべき立場ではあるが、人権を奪われる様な扱いを受けてもいいのだろうか。当初私は彼らを不当に扱うことに対して、否定的な立場であった。
例えば法制史の金字塔と言われるハンムラビ法典を思い出して欲しい。その中の有名な文言として「目には目を、歯には歯を」がある。これは多くの場合、日本の喧嘩両成敗の発想で議論されるが、実は罪人を保護する目的を内包している。つまり、目を奪われたからといって命を奪ってはいけないということである。その際、罪人の社会的地位は考慮しない。
勿論これは理想論である。現代の法廷を考えてもそうであるように、古代の法廷においても様々なパワーが働いていたことであろう。しかし、それは法律に関して日夜研究している専門家同士のことである。つまり、素人同然の我々は裁判が終わり、真実が確定するまでは完黙すべきであろう。
しかし現代では、週刊誌やテレビだけでなくSNSの発達によって門外漢たちの意見がまるで事実かの様に伝播されていく。メディアに晒されることで多額の報酬を得る芸能人や有名人ならば、甘んじて受け入れるべきではある。しかし、最近は一般人にまでその矛先が向いている。
実際に星野ロミ氏が、彼のSNSの投稿に対してアンチコメントにあたる書き込みをした者を訴えていたが、敗訴している。確かに彼に課せられている罪を踏まえると、星野氏による悪質な策謀を疑いたくなる気持ちも理解できる。だが、これはあくまで一般人レベルの発想と言わざるを得ないのではないか。
私が法律の専門家に求めることは、倫理性と論理性である。上記の名誉毀損裁判において判決の核となるべきなのは、SNSの投稿に対して名誉毀損が確認されているのか否かである。その点において、裁判に参加している当人たちの素行に関しては二の次ではないか。
話は変わるが、私個人は普段から素行が良いとは言えない。むしろ一般人よりも多くの愚行や間違いを犯してきた方だと思う。幸い裁判沙汰にはなっていないものの、もし法廷に引きずり出された時、法の専門家や家族、友人は最後まで私の味方でいてくれるのだろうか。