『持続可能な魂の利用』
2020年5月25日発行 松田青子作 『持続可能な魂の利用』
2024年4月29日読了
「おじさん」社会の中で生きる女性の生きにくさ、弱さを描いた小説。「おじさん」と少女。日本とカナダ。アイドルとアイドル。様々な対比が描かれている。
少女を弱い存在たらしめるもの
小説の中でおそらく主人公とされる敬子は少女、ないし女性を社会において弱い存在であるとしていた。「おじさん」社会において女性は常に自身の存在を広く周知することを許されず、息をひそめて、目立たずに生きている存在であった。
この視点に対して私は違和感を強く覚えた。なぜそこまでして女性を弱い存在として定義づけるのであろうか。カナダから帰国してすぐ、敬子は
”日本の少女が最弱”
と表現している。少女たちの姿勢・振る舞い、流行りのアイドルとの酷似などから彼女らは「核」の部分に他国の少女たちが持たない弱さを持っているらしい。
しかし、ほんとうにそうだろうか。敬子は少女たちの特徴をすべて弱さに結びつけているが、それらの特徴は単なる特徴である。髪型も服装も声の音量も、弱さを象徴するためのものではないのに、日本の少女を無理やり弱さと結び付けているように感じた。少女を弱い存在と定義づけるのは社会だけではなく、少女を経験してきた女性なのではないだろうか。
誰が「おじさん」になってしまうのか
作中で、「おじさん」とは50代で、男性で、といった区分はされていない。一つの定義なのである。誰でも「おじさん」になりえるのだ。たとえ若くとも、女性であっても。女性よりも自身が理由なく優位であり、理由なく高い地位にいるべきであると考え、理由なく不快な思いをさせても問題ないと考えている人たちを総称して「おじさん」としている。女性でもなれる一方で、「おじさん」になり、その恩恵を受けたければおじさんと同じ言動を行わなければならない。
この「おじさんになる女性」について、作中では”おじさん並みの働きをする人”とされていた。たしかにそのような側面もあるだろう。バリキャリと呼ばれる彼女たちはおじさん並みに、もしくはそれ以上の働きをし、”弱い女性”とは区別された存在であるといえる。
しかし、それは「おじさん」になることと同義ではないと私は考える。「おじさんになる女性」とは弱い女性、性的搾取をされる女性をおじさん同様に強要する女性ではないだろうか。飲み会の席などで、下ネタなどの話題に積極的に入り、それをほかの女性にも強要し、その話題を楽しめることが自身の強さであるとする女性は存在する。彼女たちはおじさんの持つ「女性観」を彼らと共有し、それを契約材料としておじさんになる。時に、その場にいる女性を「弱い存在たらしめ」て自分はおじさんの恩恵を受ける振る舞いを行うのである。
私はそのような話題が常におじさんに紐づいていると考えているわけではない。他者への強要、他者の不快感への遠慮のなさが彼ら、彼女らを「おじさん」にするのである。
「おじさん」と「少女」の安全圏
そもそもなぜ「おじさん」は少女、女性に対して彼らを「おじさんたらしめる」振る舞いを行うのか。これに関して、唯一の男性視点の描写がこの理解を勧めてくれたように思う。おそらくここに描かれている男性は敬子を退職に陥れた人物であろう。彼は男性(おじさん)のふるまいが輪を重視し、その中で日々マウント、いじり・いじめを生み出していることを知っている。その環境が息苦しくても一員でいることが楽だから、その構成員であることを選んでいるのだ。おじさんにとって「おじさん」でいることは安全なのである。しかも、男性であれば少し無遠慮になり、配慮を無くすだけで、「おじさん」になれる。彼らが社会で生きる安全な道がそれであり、母数が大きくネットワーク外部性も持つその属性に自分を当てはめているのである。
では、「少女」や女性はどこに安全圏があるのか。現状では、既存の安全圏はないのであろう。ここにいれば安全といった属性は成熟期には至っていない。「男性に守られる」という安全圏がこれまで機能していたかもしれないが、これは結局「おじさん」を受け入れた先にある守ってくれるもの以外からの攻撃に対する守りでしかない。守ってくれる男性から自分を守ることが困難である。すなわち、女性の安全圏は自分で作るものであり、自分で獲得しに行くものなのである。この安全圏について、これを作る前兆を見せていたのは敬子ではなく、彼女の元同僚の香川であったと感じた。彼女は敬子を退職に陥れた男性社員のこれまでの悪事について、周りの人を巻き込んで、暴いていった。これこそが女性の強さであり、安全の構築であると感じた。おじさんの安全が彼らの属性としての輪であるのに対して、女性の強さは有機的なつながりである。同じ属性だから仲間になるのではない。つながりがあるから仲間なのである。
日本と海外の対比について
作中ではたびたび美穂が暮らし、敬子が1か月滞在したカナダと日本が対比され、日本は劣っている、おじさんの国であるとされている。正直これに対する感想は敬子は1か月で海外にかぶれすぎではないかと感じた。彼女は海外を自由であると、神聖化しすぎているのではないか。日本人の少女の「核」についての記述の際、海外の少女は自分の軸を持っていると言っていた。日本の女子高校生は自分の意見を言わないように教育されているのだそうだ。私は自分の意見を抑圧される教育を受けたと感じたことはない。たしかに高校生までは答えのある課題を行う機会が多く、そういった発言力が低いことは広く指摘されているが、なぜ彼女がそこまで抑圧感を感じているのか、疑問であった。
アイドルの神聖化と俗物化
この小説では1つの特徴的なアイドルグループが登場人物の人生を大きく変えるきっかけとなる。これは疑いようもなく、現実のアイドルグループをモデルにしており、私もこのアイドルグループのファンの一人だった。センターのカリスマ性は言及するまでもなかった。これまでの系列グループではデビューし、ある程度ファンがつけばセンターが交代していく傾向にあったのに対し、このグループではずっとこの××がセンターだったことがこのカリスマ性と存在感を証明していたのだろう。
話の中ではこのアイドルグループの「笑顔がない」ことによるおじさんにこびない姿勢、「反抗的な歌詞」が敬子の心を引き付けた一方で、彼女らもこれまでの、「おじさんが受け入れてきた」アイドルグループを輩出してきたプロデューサーによって作られたグループだったことが敬子の葛藤につながっていた。おじさんによって作られたおじさんの社会に反抗する楽曲とグループ。作中でも述べられていたことだが、××やメンバーはどんどん社会への反抗的な歌を表現する媒体としてではなく、彼女ら自身も周りのおじさん社会に対して反抗的になっていった。ここからは作中と現実での彼女らを混合しての見解となるが、私には反抗している彼女らはつらそうに見えた。特に××は感受性や共感力が強かったのだと思う。反抗させられるうちに自身にも反抗的な気持ちが生まれてきたのだろう。しかし、彼女の反抗は反抗対象である「おじさん」によって設計されたパフォーマンスとしての反抗であった。彼女が反抗すればするほど、おじさんに従順であることを意味してしまう二律背反。そして純粋にパフォーマンスが好きだという気持ちに入り込む「反抗しなければならない」というノイズ。彼女がしたかったのはパフォーマンスなのか反抗なのか、彼女自身もわからなくなっていたのではないだろうか。
作中ではこのグループと対比して、従来の「アイドル」にも言及されていた。作中において従来のアイドルは自分から性的搾取をされている、おじさんの理想を再現している女性だった。たしかにSNS等を見れば彼女らの言動を切り取り、性的な目線をファンの中で共有しあう文化がある。これを見ると俗物として、おじさんの妄想に落とし込まれた彼女たちを見る。これが熊野まなが体験した二次創作としての女性だったのだろう。その対象に自ら”成り下が”っていると敬子の妹、美穂はアイドル達を見ていたのだ。
ただ、私は従来のアイドルは女性特有の強さであると考えている。私は彼女たちがパフォーマンスをし、バラエティで笑い、握手会でファンに対応する彼女たちのきらきらした輝きは触れてはならないような神聖さを持っている。おじさんがどうとか、弱さがどうとか考えさせない輝きが彼女たちの強さなのではないだろうか。彼女たちも前述した「おじさんの妄想」にはおそらく気付いている。しかし、きらきらしている彼女たちを見るとき、彼女たちはそれを全く感じさせない。そんなものは眼中にないとふるまうことのできることが彼女たちの強さだと私は考えている。
女性アイドルと男性アイドルの消費のされかた
女性アイドルは女性の体を持った「もの」として、おじさんの理想に当てはめられる。すなわち二次創作をされていると宇波真奈は言っていた。では男性アイドルはどのように消費されているのか。この二次創作というキーワードで当てはめたとき、もっとも近いのがBL的な消費が一番近いのではないかと感じる。特定のグループに限らず男性アイドルはこのような妄想に当てはめられる機会が多い。なかにはそれを理解し、その解釈に近い写真を公開したり、パフォーマンスを行うことがある。これは女性アイドルが「おじさんの妄想」に応えるようなパフォーマンスをおこなうことに似ている。
このBL的消費はアイドルだけではない。容姿が強みになるアイドル・俳優だけでなく、お笑い芸人にも広がっている消費の一種である。
まとめ
女性の権利や活躍といったことが広く論じられるようになった一方でまだ色濃く残る「おじさん」の力をありありと表現している小説であった。ラストでは「少女」たちは体を失っており、それによってやっと真に彼らから解放されていた。「少女」が彼らの無遠慮な視線から逃れるためには肉体を手放すしか方法はないのだろうか。この話を「おじさん」が読んだらどう感じるのだろうか。私を取り巻く環境が変われば敬子にもっと共感できるのだろうか。様々な問いを作ってくれた作品だった。
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