ドラマ 終わりに見た街 感想
昨日放送された 終わりに見た街
クドカン脚本で大泉洋主演なら見なくちゃ!と思って前知識0で観たんだけど、これ実は3回目のドラマ化だったらしい。
原作は山田太一さん。
なるほど、クドカン原作じゃなかったのかぁ。などと最初はのんびり観ていた。しかし、だんだん(これはのんびり観るような作品じゃない)と思わされ、最後はなんともいえない結末にしばし放心状態。
頭を整理するために、物語をざっとまとめてみました。
<物語>
1.タイムスリップ
売れっ子とまではいかないが、それなりにキャリアのある脚本家田宮太一(大泉洋)はとある現場でプロデューサーの寺本(勝地涼)に呼び止められ、引き受けてがいない戦争ドラマの脚本を頼まれていた。
そこに通りかかった男性から突然声をかけられ(誰だっけ?)と思い出せないでいた太一は、思わずドラマの脚本を引き受けるといってしまう。
通りすがりの男性は、父の戦友の甥っ子で昔自宅に一度だけ来たことがあり太一ともそのときに合っていた小島敏夫(堤真一)だった。
たわいも無い会話をし、家に帰るとバイク便でドラマの資料が大量に送られきた。
それに目を通していた太一。
気がつけば夜中になり、ふとカーテンをあけて窓の外を覗くと…そこにはあるはずのものはなく、うっそうと生い茂った森が広がっていた。
慌てて妻ひかり(吉田羊)を起こし、「疲れすぎて気が変になったのかもしれない」という太一。
ひかりは念のため外を覗いてみると、やはりそこは森の中。
住宅街だったはずなのに…と呆然とするひかりと太一だった。
どうなっているのか確かめようと散策して家に戻ってきたころには、娘信子と息子稔、痴呆がはじまった母清子(三田佳子)も起きてこの状況に驚いている。
みてきたことを話す太一は、我が家だけが昭和19年の6月にタイムスリップしていることにようやく気がついた。
その時なぜか家の固定電話が鳴る。おそるおそる出ると、なんと昨日あった小島だった。
小島とその息子新也も同じくタイムスリップしていたのだ。
2.昭和19年の東京
昭和19年といえば、終戦間際。物資はなくなり、戦況は悪化をたどる一方、日本本土にもB29が襲ってきているころ。
奇しくもドラマの資料にこの時代の背景が事細かく書いてあり、それをみながらなんとか生き延びようとする田宮家と小島家。
大人4人、子ども3人の7人で戦争を幼いころに体験していた母清子の記憶もたどりつつ、なるべく被害の少ない土地に移り住んでいた。
稔は小学校へ通い、信子は学徒動員で郵便局で仕事をし、ひかりも必死で働きなんとかこの時代で生き抜こうとしていた。
一方太一は戦争を肯定するこの状況にどうしても納得がいかず必死であらがおうとするものの、生きていくために、食べ物を貰うためにやむを得ず時代にあわせていこうとするが、体力もなく力仕事もできず、漫然としていた。
そんなときにあることを思い出す。東京大空襲だ。
自分はいつ、どこに、どんな風に被害がでるのか、どうすれば助かるのか全て知っている。
これをみんなに伝えて少しでも命を助ける事ができないか?と考え、敏夫やひかりと一緒にビラ配りや噂を流すことを始めた。
そんなとき、一人の男と目が合った。
(あいつだ…)
太一が何度となく目があった兵隊と同じ目、同じ顔の男。
そう2024年の時代で自分に戦争ドラマの脚本を頼んだ寺本だ。
「寺本!」と思わずその男に駆け寄り肩をつかむものの、振り返ったその顔は全くの別人だった。
3東京大空襲
そんなとき、失踪していた新也が突然友達をつれて戻ってきた。
今は工場で働いているという。
長かった髪の毛をばっさり切り落とし坊主頭で精悍な顔立ち。
話し方もしっかりしている。
そして、
「みんな必死に戦っているんだ。今は戦争中なんだぞ?それなのに父さんたちはなんだ!」
とまるで人が変わったよう。
そんな新也にあっけにとられていると、今度は信子も稔も新也と同じようにこの戦争を否定しつづける太一をまるで敵をみるかのような目でみていた。
そう、子ども達はすっかり戦時中の教育に感化されてしまっていたのだ。
変わり果てた子ども達の姿に呆然としてしまう大人達。
そんなときに、空襲がはじまった。
(いや、まて。なんで?ここで空襲があった記録などどこにも書いてなかったぞ)
と疑問に思う間もなく、なんとか稔を連れて逃げ出した太一。
他の家族とはバラバラになってしまった。
外には逃げ惑う人々。
その中を稔をつれて必死で逃げるものの、爆発に巻き込まれてしまう。
がれきの中で目を覚ますと、左腕が吹っ飛んでいた。
「稔、稔」
痛みを堪えて起き上がり稔を探す太一。
しかし何か違和感がある。
コンクリートブロックがあちこちにちらばっている。
「うう」
うめき声の方を観ると、黒焦げになった人が倒れている
「み、みず、、」
手持ちの水筒で水を飲ませる太一
「すみません、今はいつなんですか?」
息も絶え絶えのその人物に問いかけると
「にせん、にじゅう。。。」
で息絶えてしまった。
なんだって?
いぶかしげに立ち上がり、周りを見渡すと見慣れた東京の街ようなでもまるで違う風景がそこにあった。
そう、まるで爆弾が落とされたような東京の街が目の前に広がっていたのだ。
そのとき、記録用として持ち歩いていたスマホから通知音が聞こえてきた。
驚いてみると、あの寺本がいつもの調子でプライベートの様子をあげている。
そこに、幼い幼女を背負ってた新也がスマホを足で踏み砕き去って行った。
とまぁこんなお話だったんですが、いろいろ皆さんの感想や考察をよんで
最後は2024年以降の東京に戻ってきたけれど、そこも戦争で破壊されていたという話なのかな?と解釈。
私達の世代は戦争体験者の人がかろうじて身内にいて(私の場合は祖父)直で話を聞いていた最後の世代かもしれない。
いつだって、過去のことという感じだったが、実は戦争はいつ起きてもおかしくないし、いつ我が身に降りかかってもおかしくないのだ。ということを暗に伝えられている作品なんだろうと思う。
そして、どんなに戦争はダメだと頭で理解していても、実際食べるものを奪われ、生きるか死ぬかとなったとき、果たしてほんとうに私も戦争反対と声高に叫べるだろうか?とはじめて思った。
あのスマホの中でぬくぬくとしている寺本は、戦争にいかずに指令をだす上流階級の人間を表していると思う。
本当の戦争の時も実際手をくださず安全な場所でまるでゲームをみているかのような人間が多くの市民を犠牲にして戦争始めるんじゃないのか?
私達はただの駒にしか過ぎないんじゃないか?
と背筋がぞっとした。
タイトルの「まち」が「町」じゃなくて「街」の意味が最後にわかった。
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