漫画レビュー よしだもろへ「あさこ」
以前Amazonで公開していたレビューです。
【以下、全巻読んでのネタバレ感想です】
34歳独身男性が、11歳の頃に出会った初恋の人である「あさこ」の影を追う話です。
11歳の「将司」少年は、いじめられっ子でした。ある日、同級生たちから海に突き落とされて溺れかけたとき、「あさこ」というお姉さんが海に飛び込んで助けてくれます。「あさこ」は将司の両親が経営する民宿に泊まっていたのですが、将司はこの出来事をきっかけに、「あさこ」に強く惹かれていきます。美しく、優しく、頭がいい、完璧な大人のお姉さんに惹かれていくのです。将司少年の目線で、少年の性の目覚めをしっかり描きながら、同時に少年の未熟さや、「あさこ」を守ろうとする優しさが描かれているのがとても良いです。将司が、泣きながら、泥をぶつけられそうになる「あさこ」の前に立つ姿はぐっときました。
「将司」は、過去の同級生や友人たちの話を聞きながら「あさこ」の正体を探っていきます。過去と現在が交錯しながら物語は進むのですが、正体を探る中で、「あさこ」が完璧な大人を演じていたこと、それによりトランスジェンダーの少年(少女)や、いじめられていた少女が救われていたことなどがわかります。人間は完璧なものではないのですが、彼女が「完璧」であろうとしたことで救われます。ただし、この完璧とは、心優しい子供たちにとってのもので、そうでない子供たちからは「怖い人」と見られています。そこも大事です。
実際には、「あさこ(諸星深雪)」は深い闇を抱えていました。学生時代は、義理の父親に日常的な性的暴行を受けており、学校でも嫌がらせを受け、孤立していました、唯一仲良くなった初恋の少女には、義理の父親の殺害を結果的に協力させてしまいました、そして保護司をしていた探偵夫婦の下で心が回復していったのですが、その探偵夫婦を放火で失ってしまいました(原因不明とされています)。その復讐のために、かつて深雪の少年付添人をしていた弁護士に体を差し出していたのです…そして、心が耐えられなくなって探偵夫婦の後追い「自殺」をするために、探偵夫婦の故郷に来たところで、「将司」少年と会うのです。彼女の演じた「完璧な大人」は、その探偵夫婦の姿なのです。
そして、この作品を美しく優しい純愛ものにしているのは、「将司」少年の心の美しさでしょう。「将司」少年は、他人の気持ちに深く共感できる、情動的共感性の高い優しい男性です。それは彼の素質と、田舎の民宿で、皆に愛されてすくすく育ったことにあります。平成8年頃は…そういう優しさはまだあまり評価されていませんでした。将司にいじめをする子供たちも、気の弱い女子に万引きをさせる子供も出てきます。「あさこ」にストーカーをする男も出てきます。過去はそうそう綺麗なものではないのです。それを「あさこ」が救っていくわけですが、同時に「あさこ」も「将司」によって救われていくのです。
とはいえ、まだ11歳の少年なので未熟です。34歳になった将司が「""あさねえ""も完璧な人間でないならどこか生きにくさを感じていて誰にもいえずに苦しんでいたのか」「彼女の痛みに今なら寄り添えるのに」と回想するシーンは良かったです。11歳の少年の将司には、まだ「諸星深雪」の闇を受け止められるだけの度量ができていませんでした。それが7巻のジャングルジムのシーンです。そして、34歳の将司が、すっかり精神を読んで毒親になっていた元いじめっ子の少女にも優しい言葉をかけて、それが立ち直るきっかけになるエピソードには、良いなあと思いました。昔は「嫌い」と拒絶することが精いっぱいだったのですが、将司も成長しているのです。
「諸星深雪」の経歴ではなく、今、この時の「あさこ」だけを見つめて、まっすぐに愛情を向ける「将司」の姿にはぐっときます。「こんな子を騙して…」と思いながらも、「この子にふさわしい女性になろう」という「諸星深雪」の心の動きが良いです。二人は似たもの同士でした。「諸星深雪」は探偵夫婦の奥さんの名前である「あさこ」を名乗り、「あさねえ」として生まれ変わって、愛されたことで救われたのです。この物語の結末はそうなりませんでしたが、相応に年老いた「諸星深雪」を、「将司」が優しく抱きしめるエンディングもありえたと思います(もっと好みなのは、将司が「あさこ」と同じ年になった時の再開エンドですが)。もう今の諸星深雪は「将司」を必要としない人であったでしょうが、それでもなお、です。あさことの再会のシーンは、『ヘルシング』4巻の吸血鬼アーカードとエリザベス女王の邂逅シーンを彷彿とさせました。
傷ついた人は、傷ついた人の気持ちを理解することができます。傷を受けることはつらいものですが…だからこそ人に優しくもできて、それによって他の人を救えるのです。しかし、そうなるためには、傷ついた上で今を生きている自らを肯定できることが必要です。「諸星深雪」がまっすぐな「将司」少年の好意、これは、「あさこ」に向けられた強い性欲がありつつも…同時に「あさこ」を傷つけたくないという強い思いに救われたのだなあとわかりました。「諸星深雪」は「男の性欲」の暴力性に散々さらされてきたのですが、「将司」少年からは、支配しようということではなく、「僕のそばにいてほしい」という祈りにも似た思いを感じたのでしょう。諸星深雪が、自分をバイセクシャルといったのは、彼女が初めて「男性(将司)」に恋をしたことで気づいたのかなと思います。
人と人の魂の交流、それによって救われていく「ケア」の連鎖を、優しく描き上げた傑作です。時代性がありつつも、時代を超えるものがあります。いまだ十分な社会的評価を得られていませんが、この作品を求める人の下に届き、アニメ化されることを祈っています。
最終巻まで読み通した上で、改めて読み直すと「あさこ」の行動の意味がわかってあらたな感慨を受けます。つまり、最初は少年の目線で読み、次は「あさこ」の目線で読めるのです。これは最初から狙っていてきっちり物語を構成しています。
「あさこ」の年齢や、陽川夫妻の下で立ち直った経緯、将司のその後などなどいくつか語られないまま物語を終えていることも余韻を残してとてもいいです。イフストーリーも色々と妄想してしまいます。例えば、あさこが冬にこっそりと将司を見に行ったとき、もし将司が何かで落ち込んで泣いていたら(実は、あさこも内心将司が落ち込んでいることを期待しているところがあった)…あさこはたまらず近づいて声をかけていたと思います。そうなったらまた違う物語もあったでしょう。
最後に、彼には朧げな記憶で、「あさこ」のことが凄く好きだったのに、泣きながらあさこの「履歴書」を破った記憶があります。この理由も6巻で明らかになりますが…。あの、あさこが情報を得るために体を差し出した、深雪の元少年付添人である弁護士の男は、深雪が「将司」に強く惹かれていることを感じて、わざと聞こえるように深雪を無理やり襲ったのでしょう。だから「将司」に対して「あさこ」が死んだと嘘の連絡をした。「深雪」を失ってから薬物に溺れたこの弁護士も、また弱い人間だったのでしょう。だが赦される行為ではないので、彼の最後が刑務所というのは、彼への罰であり、同時に救いだったのだと思います。
センシティブなテーマを、しっかりと、リアリティーのある描写をしながら描いているからこそ、傑作となったのでしょう。何らかの漫画賞を受賞して、広く知られ、漫画史に残されるべき傑作です。私がこんな長文のレビューをしているのも、この作品の凄さ、正しさが理解されて欲しいという思いからです。本作が多くの人に届き、見知らぬ誰かの気づきになり、心を救うことを祈ります。
※性描写があるので閲覧注意です。