漫画レビュー 宮下暁「東独にいた」
以前Amazonで公開していたレビューです。少し訂正しました。
2024年現在、連載が中断しています。
以下、ネタバレ込みでの、私の勝手な考察(妄想)です。
まず、本作の基本的な構図は、甲賀忍法帖でしょう。その舞台として東独は存在します。作者が何故東独を舞台に選んだのかはわかりません。現代人に近い感性で、集団の抑圧と個人の意志というテーマを描くのに適切と考えたのかもしれません。
さて、4巻の冒頭で明かされますが、この物語のすべての始まりは、1942年、17歳のノアが「あの日」、「あの娘」に、「あのバッジ」をつけてしまったことです。その時のノアの顔と、「あの娘」の顔は、ユキロウと、アナベルにそっくりでした。「あの娘」は強制収容所に送られて命を落としたのでしょう。ノアをまっすぐ見つめる瞳は印象的でした。
その後悔から、ノアは戦後にノアゾンを造りだし(おそらくノアのクローン強化人間)、ノアに思いをよせる(明示されていませんが、私は確信しています)グローマンは政治家への道に進みます。2人が反対側を向きながら会話するシーンの完成度は白眉です。2人の進む道が違ったのは、ノアは、ナチスに従ってしまったことの後悔から個人を集団に逆らえる超人にすることを目指し、グローマンは、ナチスに逆らって弾圧されたことから、制度には勝てないと理解し、制度を支配する側に進んだのだと思います。
一方、ノアの研究を引き継いだフォンマイザー女史は、政府の一員としてアナベルの属するMSG、超人部隊を作っているのですが、実はその超人部隊はあくまでフォンマイザーに忠誠を誓っており、政府に忠誠を誓っているわけではないというのが物語の一つのポイントになっています。これ、普通に考えれば政府が見逃すはずがないので、その背後には政府高官となっているグローマンの動きがありそうですが…
また、フォンマイザーは自らを「観察者」と述べますが、国民の前でベーシックインカムの構想を述べてみたり、「観察者」としてはそぐわない行動をします。それ故に、命を狙われることにもなります。この心理は想像するしかないのですが…フォンマイザーはノアに対する憧憬の念があったのではないかと思っています。ノアが研究所を立ち去ろうとする時に声をかけたのは、引き留めたい気持ちがあったのでしょうし、ノアの研究を引き継いで超人部隊を作り出したのもノアの影を追っていたのではないかと思います。ノアに「自分を見て欲しい」という思いがあるのかもしれません。ここはほんとまだわからないところです。
作中で、周囲はフォンマイザーをやたらと持ち上げていますが、その凄みがどこにあるかということはいまなおわかりません。特別なバックグラウンドでもなければ、傲岸不遜な態度だけで人は支配できません。モラハラを使いこなすサイコパスでもなさそうです。母親のような笑顔でエリートを操るとか、何かもう少し説明が欲しいです。私の好みとしては、彼女から感じられる高い知性と、その知性にそぐわないノアへのひたむきな思い、純情さが、政治抗争に疲れている男たちを引き付けているとかそんなのがいいです。こういう女性から微笑みかけられたら、それだけで信望者になるエリートの男たちはいると思います。
そして、この物語が他と違うところは、3巻の時点で、アナベルとユキロウが駆け落ちするという終わり方を否定しているところです。そうなると、まさしく甲賀忍法帖と同じく心中エンドが見えてくるのですが…しかしそうなると、本作に通底する「生きようとする意志」とはそぐわないことになります。さらに、4巻の冒頭のシーン、本作がノアの後悔から始まっているところと矛盾してしまいます。つまり、同じ事の繰り返しをしてしまうということになります。それはそれで一つの物語になり得ますが、悲惨なだけです。甲賀忍法帖は、「相手に殺されるために生きていた」からこそ、あのエンディングが心を打つのです。
そうなると、この物語はどこに行くのか、東ドイツ崩壊により前提が崩れてしまうというのは一つの解決ですが、それもまたカタルシスがない…と思ったところに凄いキャラクターをぶち込んできます。みんな大好き「違う顔」です。同じ顔しか生まれない一族のなかに生まれた「違う顔」で、整形しても「違う顔」に戻ってしまい、最後は一族を皆殺しにして殺し屋として生きているという。そのエピソードからして「超人」の象徴です。何のイデオロギーも持たない究極的な個人、超越者。主人公が事実上交代したかのような凄みすら見せます。
なるほど、この「超人」が舞台をぶち壊しにしていくことで、アナベルとユキロウが闘う意味に変化が出てくるのかな…と思っていたら、「違う顔」が部下を使って暗殺をしようとしたり、人間味をみせたり、「超人」として似つかわしくない行動をしだします。ええっ、そうなるとこれどうなるの、というところで休載になり、そして「違う顔」のキャラクターを別の舞台に移したような「ROPPEN」が始まりました。
多分、宮下先生は「ROPPEN」を描くことを通じて「違う顔」のキャラクターを再構成しようと考えているのかなあと思っています。「ROPPEN」が完結し、「東独に『いた』」の結末が決まった時には、また連載を再開してくれるものと期待しています。超人バトルの迫力や設定が注目されがちですが、宮下先生の本当の凄みは叙情性にあると思っています。
私は、ノアゾンが、自分がしなければならなかったのは、超人を作ることではなく、あの日、あの娘に、あのバッジを「つけない」という勇気を持つことだった、と気がつく、必要なのは「超人」でも「支配者」でもなく、一人ずつの「(同調圧力に屈しない)ほんのちょっとの勇気」であった、ということに気がついた時が、ハッピーエンドに続く道ではないかと思っています。アナベルとユキロウが日本に逃げて神保町で古本屋を開くエンディングを期待しています。