『SHINOGRAPHIA』刊行記念対談その②塵浜一氏――記憶と疼き
その壱は以下のnoteをご覧ください(当企画の説明あり)。
・その弐 塵浜一氏
(紹介:関東某所在住。以下の対談でも触れるが、ミームへの鋭敏な嗅覚と豊かな感受性での独特なシャニマス解釈、またスペースでの破天荒さと理知的な面が同居した喋りにはファンがいるとかいないとか。「スマブラ切り」、「市川雛菜に監禁されるニャンちゅう」など、ネタツイにも定評がある。今回の対談ではTwitterでは見ることのできない塵浜氏の繊細な一面に肉薄することを試みた。)
(インタビュアー紹介:ツァッキ 東京都在住。サービス開始した学マスをちょこちょこ触っているが当然魂はシャニマスの形をしている。今回の対談相手である塵浜氏とは公私ともにツーカーの仲。)
ツァッキ(以下、ツ):対談企画も二回目となりました。それでは自己紹介をお願いします。
塵浜一(以下、塵):普段はぶくぶくまるまるドス小糸というふざけた名前をぶら下げてツイッタランドでくねくねしています。樹里とあさひとノクチル担当のシャニマス三年生、好きなpSSRコミュは【曲がり角のランウェイ】と【空と青とアイツ】、そして【国道沿いに、憶光年】です。本日はよろしくお願いします。
ツ:塵浜さんとは公私ともの仲ということで、散々色んなところでシャニマスの話はしていますけども、今回は作品に即してという面と、塵浜さんの創作に対する考えみたいな部分を伺えればと思っています。よろしくお願いします。
質問1. 今回塵浜氏には、市川雛菜の幼少期にノクチル以外の幼馴染との間で生じたコミュニケーションの軋轢が彼女の幼児退行によって明らかになり、そのトラウマを雛菜がノクチルとの会話を通して解消し成長する、というシャニマス二次創作の中でも異彩を放つ小説作品にチャレンジいただいた。作品全体を通して、雛菜に言及される際ありがちな「諦観」にフィクションを通じて抵抗しようとする塵浜氏の姿も看取される。このような小説を書くにあたって、塵浜氏の見る「市川雛菜」とはどういう人物であることを念頭に置いたか?
塵:雛菜のプロデューサーというわけではないので、そもそも雛菜を描こうと思ったのは個人的に挑戦的な試みだったんですが、シャニマスをやっていて、最初に自分の強烈な印象に残ったのが雛菜だったんですね。雛菜のWINGを読んだのはかなり前のことなんですが、あのときに感じた違和感がずっと心の中に残っていて。齢15の日本人の少女とは到底思えない精神性というか、欧米型の個人主義的なあり方というか。誰もが彼女に触れて注目するのってそこだと思うんですけど、とっさに話題を逸らして核心に触れないように煙に巻くみたいな会話術だったり、雛菜が「しあわせ」ならそれでいい、それ以外は知らなくていいという言葉にも、ツァッキさんの仰るような諦観の姿勢が見受けられると思います。なんですが、一見この強固な信念に思える彼女の精神性が、どうも私には当時から不完全なもののように感じまして。というのも、完全に悟った諦観というより、傷つきたくないと(雛菜が)言っているように聞こえたんですよね。「しあわせ」で自由な生き方を追求するのも、ある種その諦めの裏返しなんじゃないかと思っていて。雛菜自身が意識していないとしても、深層心理にはそういった傷つくことへの恐れみたいなものがあるんじゃないかとWINGを読んだ時点で思ったんですね。であるならば、過去に絶対何かがあったはずだと。
そういうわけで、シャニマス本編では、プロデューサーが彼女の本当の「しあわせ」を雛菜に掴ませるために、その手助けをノクチルと一緒にするという話ですが、私の中では、「彼女の中で完結する成長」も描いてみたかった。自分が原因で、自分が傷ついて、それをどんなに時間がかかってもいいので自分で乗り越えるという、そんな雛菜を私が見てみたいと思いました。心に傷がない人には魅力がないとまでは言いませんが、もがいた魂ほど最上級の輝きを放つと私は思っていて。そもそも、ノクチルの中で雛菜だけ転校してきたと作中で明言されていて、過去を描く余地が残されているキャラクターなんですよね。ノクチル全員がそういうキャラクターではあるんですけど。円香だったら浅倉の呼び方が変わったきっかけはまだ描かれていないし、透はもう描かれましたけどプロデューサーとのことだったり、小糸は中学時代の色々だったりがまだ描かれていないので。ノクチルは現状が閉鎖的で、そこから地続きの未来を描く以上、過去にフォーカスしやすい描かれ方が許されているユニットだと思います。その中で、本編で描かれてしまう前に私が書きたいと思ったのがきっかけですね。
そのうえで念頭に置いたのは、彼女もまた普通の女の子なんだということですね。プロデューサーが、あるいはシャニマスが一度至っているこの考えを雛菜にも適用しました。無駄な努力や衝突を回避して、彼女なりに合理的に行動して何かを諦めている雛菜だって、いち普通の女の子なんだから、傷つきながら、揺れ動きながら人生をこの先も歩んでいくんだという少女の人生を一冊の本だとするなら、その1頁を私が覗くという気持ちで今回執筆をしました。
ツ:いくつか伺いたいところはあるんですが、論点を絞りますね。まず、塵浜さんのnoteにも書かれてることで、傷つきとか、うしろめたさとか、後悔みたいなものとかがある人ほど輝くっていうのが(塵浜さんの根底に)あると思うんですけど、そういうところっていうのは塵浜さんの個人的な経験には関わってくるんですかね。他のコンテンツ、例えば僕は卯月コウなんかを思い浮かべるんですけど、コウにしたって「エモは幸せの中にはねえよ」と言ってるわけですよね。僕もそっち側なんですけど、すごい有り体の言葉で言えばひねくれてるわけじゃないですか。そういう屈折みたいなものって、どうしても自分の中で受け入れるのって抵抗があると思うんですよ。やっぱりまっすぐ生きるとか、過去に屈折や失敗がない方が当たり前に人生はうまく進むだろうっていうのがみんああると思うんですけど、それでもなお屈折や失敗を内に含み込んで、それが輝きを放っているさまに魅力を感じるとしたらそれはなぜなんでしょう。
塵:私自身、自分で言うのも変なんですが、今年社会人一年目で、振り返ってもめちゃくちゃ充実した学生生活を送ることができたんですよ。それでも、要所要所に誰もがそうでしょうけど後悔する点というのはありました。たくさんの選択を一個一個していって人生が成り立つと思うんですが、一個ボタンを掛け違えるだけで、全然違うルートに突入しちゃうという実感はみんな感じてると思います。現状にも満足はしてるんですけど、あのとき、違うルートを選んでたらどうなってたかなっていうのをたまに想像しちゃうんですよね。多分、この思考の動き自体が暗い情念と関わっていて。それがいわゆる「もがき」で、一時期現実と理想の乖離に悩んでいた時期もありましたけど、少しでも理想に近づくためにもがいていたし、今後ももがき続けることで私の魂も輝くと信じています。
で、人と関わる際に、共通している方が関わりやすいものと、違う方が魅力に感じるものがあると思うんですが、私は成人を迎える以前の経験、いわゆる「青春」で、ここに全く後悔がなかった人間と、もっと何かあったかなって思える人間の間では、共通していた方が仲良くなりやすいんじゃないかと個人的に思っていて。きっとシャニマスのキャラクターに対しても、同じ考えを(自分が)適用してるんだと思うんですよね。ツァッキさんと同じぐらい仲良くしているオタクの友人も過去に暗い何かを抱えていたんですが、彼は七草にちかに自分を投影して、シャニマスに向き合っていたのを見ていたっていうのもありますし。作品においても、雛菜に感じていた違和感から、実はこの子にもそういう暗い何かがあったんじゃないかっていう風に私自身が望んだんでしょうね。なんでそういう人に魅力を感じるのかっていうところは、言語化が難しいですね……。
ツ:さっきの話に関わってくるんですけど、「普通の女の子」って話があるじゃないですか。これは塵浜さんが『Wintermute, dawn』の感想で書かれてたと思うんですけど、芹沢あさひも普通の女の子だと主張されてたところで、これ完全に僕の考えと逆なんですよ。
なんでアイドルが魅力的に映るかっていうと、なんらかの仕方で卓越していなければいけないと僕は思ってるんですね。それはパフォーマンスだけじゃなくて人間性が卓越しているんだということなんですよ。好きな表現で「際立っている」と言いますけど、際立つとか卓越しているとかではなくて、ある意味での凡庸さみたいなものにキャラクターを落とし込んで解釈するという部分での読みの深みが生まれるとすればそれはなんでしょうか。
塵:偶像として人の注目を浴びる以上、仰る通り何かに卓越している一面があったりとか、飛びぬけて個性的だったりっていうのが第一に来ると思うんですけど、やっぱりアイドルとしての表面をはぎ取って、心の内面に侵入するのであればきっと普通の女の子としての一面もそこにあるんじゃないかと思ってます。そこに深みが生まれるのであれば、「私しか知らないこの子の一面」という部分でしょうね。例えば芹沢あさひは大衆から見れば天才の女の子ですが、父親や母親から見たら天才ではなくて、この世界に一人しかいない娘である芹沢あさひ、親しか知らない普通の女の子である側面が絶対あると思うんですよ。シャニマスのどこかのインタビューで高山さんかシナリオライターの方が仰ってたんですが、彼女らにもそれぞれの人生があり、それを切り取ってシナリオにしているだけで、映ってない部分の人生も存在するんだと。つまり、アイドルとしての姿がシャニマスでは描かれているだけではなく、映っていないプライベートな面にも深みが生まれるのであれば、きっと普通の日常生活を目にしたときの高ぶる気持ちもあるということなんですよね。
ツ:そこなんですけど、僕は三次元のアイドルコンテンツにずっと身を置いていたんですが、なんでオタクをやめちゃったかっていうと普通の面が見えちゃうからだったんですね。例えば韓国のアイドルって、V LIVEっていうのがあるんですよ。V LIVEっていうのは、メンバーがコンサートが終わったあととかに、宿泊先のホテルで自分たちの携帯のカメラでラーメンとかを食べて楽しくお話してる様子などをメンバー自身が撮って生配信するというコンテンツなんですが、あれが僕はやっぱりちょっと苦手なんですね。そんな面は見せないでほしいんですよ。アイドルっていうのは選ばれていなければいけないし、選ばれているからには人間性も卓越していてほしいっていうのがある。
なんで僕が冬優子が好きなのかって言ったらそこなんですよ。彼女は人間として卓越していると僕は思っているんですね。ある種の孤高さみたいなものが彼女にあって、それを僕は自分のnoteで悲劇と呼んだんですが、気高さのうちに死ぬというのが彼女の美学だと個人的には読んでいます。確かに芹沢あさひの両親から見たら、この子は世界に一人しかいないんだけども、それが故に凡庸な一人の娘であるというのは見方として説得力がありますし、それは塵浜さんの担当である樹里にしたってそうですよね。透はちょっと自分的には凡庸であるなどと言いたくないんですが(笑)。
塵:透に関してだけはちょっと自分の中でも矛盾がありますね(笑)。
ツ:もう浅倉透という人格を凡庸とするんだったら何が卓越なのか分からない(笑)。どこかで僕は選ばれた人間とか、卓越した人間とか、そうであるべきだった人間にすごく憧れがあって、だからアイドルが好きなんですけど。また例えばになるんですが、AKB48のオタクで僕のオタク人生は始まってて、まあぶっちゃけAKBの女の子なんて別にその辺にいるんですよ。でも歌番組とかライブとかで、僕の推しだった柏木由紀とかは、会場にあるモニターとカメラの数を完全に頭に叩き込んで、どこで自分が抜かれるかっていうのを全部把握してるんですね。それで完全に計算された指差しやウィンクをするんですけど、そういう嗅覚ってアイドルでしか役に立たないじゃないですか。日常生活や他の分野で、カメラがどこにどれだけあってどのカメラが自分を抜くか把握する能力なんかいらないわけですよ。でもアイドルという職能においてはそれは卓越として認められる。それがアイドルに選ばれた人の独特の嗅覚であり本能だと思っているし、その本能が彼女らにも備わっているだろうと思っているから僕はシャニマスのアイドルが好きなんですけどね。そう考えると塵浜さんがフォーカスしている面って、実はアイドルであることってそんなに重要じゃないのかなって思ったんですけどそこはどうなんですかね。
塵:言われてみればそうなのかもしれないです。多分、私は西城樹里がアイドルじゃなくて、バスケットボールが趣味の高校生だったとしても好きになってますし、芹沢あさひが習ってるわけじゃないのにダンスが好きで、電光掲示板の下でアイドルを真似て踊っている少女のまま、その先の未来を歩むのだとしても、その人生を読みたいと思うでしょうしね。
ツ:それは塵浜さんの小説から受ける印象としてもそうだなと思います。シャニマス原作に出てこないモブを登場させて雛菜の過去を描写してるわけじゃないですか。そこにあるのは雛菜も私たちと同じ人間だったんだという気づきがあって、つまり雛菜って二次元キャラクターだから自分と同じ存在のはずがないじゃないですか。でも、小説のネタバレにならない範囲で言及しますが、雛菜が過去のある地点で人間関係を諦めちゃうわけですよね。だから「アイドルに"は"なれると思う?」と聞くと。そこが塵浜さんのイデオロギーというか、信念の顕れだと思うんですよ。
シャニマスのライブがあるじゃないですか。そこに行ったら女性声優が歌って踊っていると。我々が感じている現象で面白いなと思うのは、確かに目の前で踊っているのは我々と同じ人間であるというのが前提されているにも関わらず、どこかでキャラクターと同一視することで自分たちと違う存在であるということが会場に共有されてもいる。変な二重化が起きてるんですよ。キャラクター(アイドル)と人間という二重化をまず我々は前提として共有していて、それがライブという祝祭においてご破算になる瞬間があるから、ライブはライブなんだということが言えますよね。でも、シャニマスってライブの描写ってないわけですよ。ああいうゲームだから3Dのライブ映像があるわけじゃないし、彼女らが踊っている姿が見れるわけでもない。シャニソンはありますけど、芹沢あさひがあの程度の動きなわけがないじゃないですか(笑)。芹沢あさひの動きってもっとすさまじいはずなんですよ。僕はキャラクターと現実のジレンマがご破算になる瞬間を見たいからアイドルを見ているし、そう考えると塵浜さんはアイドルがアイドルである理由にあまり執着がないような。
塵:でも、そうなると私がシーズを好きな理由が分かんなくなっちゃうんですよね。彼女らはアイドルでないといけないんですよ。だし、黛冬優子に関しても凡庸な面に魅力を感じているというわけではないですね。きっと、ノクチルだからなんだと思います。ノクチルはアイドルになった理由も理由ですし、最初からアイドルの素質を持っていた人間がアイドルになったのがアンティーカやストレイライトだとするならば、ノクチルは最初からそうだったのではなく普通の少女たちがアイドルに「なっていく」物語なのだと。彼女らは『ワールプールフールガールズ』の終盤で、ファンにどういう恩返しをするのかの指針を明確に決めたわけですし。そこでも成長が見られますよね。
ツ:なるほど。ノクチルというユニットの持つ色や独自性とかと不可分な見方として塵浜さんの視点があるというわけですね。
もっと聞きたいことはあるのですが(笑)、時間も押しているので次の質問に行きましょう。
質問2. 扱っている題材こそ雛菜の過去だが、語りは過去の回想シーンを除いて樋口円香の視点である。ノクチルにおいてある意味で「観察者」としてのポジションを樋口円香が得ているのは『SHINOGRAPHIA』掲載の他作品にせよ、ぼんやりとしたパブリックイメージにせよある程度共有されている気がするが、それはなぜだと思うか?また、優れた(二次創作)小説に共通の語りの視点があるとすれば、塵浜氏にとってそれは何か?
塵:私自身、今回がこういう場での初めての執筆なので、小説に関してはド素人ですし、分からないこともたくさんあるんですが、言えることがあるとすれば、内面に葛藤を抱えたキャラクターに語り手としての役割を持たせることで、物語にリアリティや厚みが増すというのはあると思います。あと、樋口が語り手として適性が高い理由は、矛盾があるキャラクターであるというのが一つあるでしょうね。メタ的な話にはなるんですが、どんなにプロデューサーのことを拒否して嫌悪して、悪意に満ちた罵倒を並べて突き放したとしても、シャニマスってプレイすればするほど親密度が上がっていくじゃないですか。機械的に信頼関係が向上するゲームシステムがある限り、樋口円香はプロデューサーに対してどんどん心を許してしまうんですよね。その結果、私たちシャニマスのユーザーの頭の中の樋口円香って非常にいびつで矛盾をはらんだ人格形成がなされると。私は二次創作も含めてコンテンツの大きなうねりの一部と見ているので、樋口円香という複雑な情念を抱いたキャラクターに語らせることで自然と味が生まれるのかなと思います。それである程度樋口の役割に共通認識があるんじゃないかという気はしますね。
ツ:まず、樋口がプロデューサーにいびつなんだけど特別な感情を抱いてしまうっていうところで言うと、僕が即座に思い浮かぶのはLanding Pointなんですね。「yoru ni」だったかな、プロデューサーが(樋口が)溺れようとしていたら助けるって言って、最悪って言いながら腕を取っちゃうじゃないですか。あそこ本当二次創作だなと思うんですけど(笑)、ああいうことができるのは樋口円香だけですよね。ある意味でシャニマスが地下出版的な性質を持っているとすればああいう部分だと思います。キャラクターの言っていることとやっていることが違うんだけど、その食い違いにキャラクターの情緒が発生している。あと、樋口が語り手っていうことだと『天塵』がそうですよね。最初の「ハウ・スーン・イズ・ナ→ウ」で「どこに行くの、私たち」っていうあの開始は、ノクチルの物語が始まるにあたって誰が語り部になるかという問いで樋口円香が答えだったと思うんですよ。そこに関しては僕も納得は行ってるんですけど、先ほどの塵浜さんの説明で(二次創作においても)自分の中でも腑に落ちたというか、矛盾を抱えたキャラクターに語らせることで味が生まれるというのはまさにそうだと思いますね。
塵:ノクチルの語り部というところだと樋口か雛菜なのかなと思いますね。『ワールプールフールガールズ』の最後は雛菜が語りをするんですよ。というのも、雛菜も多分樋口と一緒で、一見強固な信念のもと「市川雛菜」として生きてるんですけど、私が今回の小説で見出した側面のイメージが彼女の奥底にあるので、雛菜も語り手としての適性を含んでるんだと思います。
ツ:ぶっちゃけ僕は結構樋口好きなんですよ。ホーム画面にも常駐させるぐらい好きなんですけど(笑)、樋口ってビルドゥングスロマンなんですよね、成長譚というか。WINGの一番最初でカフェでスカウトされて、気持ち悪いって言ったところから、【カラカラカラ】、【ギンコ・ビローバ】、【ピトス・エルピス】に連なる共通コミュの行間を埋めるような形のpSSRが出てて、それが全部良くて。僕が印象に残ってるのは【ピトス・エルピス】で、「美しさ」っていうのを彼女はすごく重視すると思うんですけど、その美しさには初期衝動と精緻さが同居してないといけないという話をするじゃないですか。あれって結構ギクリとするというか、あらゆる芸術作品についてもそうかもしれないんですが、初期衝動と精緻さが同居するのって理想だけど難しいわけで、樋口が一皮剥けようとしているときに、歌という形でそれをやろうとするのが、成長譚というかビルドゥングスロマンとしての説得力があると思う。だし、GRADやLanding Pointにしてもそうで、GRADで他のアイドルの劣等感に晒されたときに、自分の持っている劣等感というものが超恵まれたボンボンの甘ったれた悩みだと分かるわけですよね。でも、結局そのアイドルの言っていることを自分の重みとして引き受けることによって問題を解決するし、LPはこういう言い方は僕は好みませんが「Pラブ」的な関係ではなく、自分の成長としてプロデューサーとの関係を受け入れるということだと思うんですけど。
塵:樋口円香は初期から現在に至るまで心情の変化や成長がかなり目覚ましいアイドルなのかなと感じますね。僕はやっぱりGRADが好きで、なんでかっていうと成長を自分の問題として捉えてるからなんですね。
ツ:GRADにおける自分の悩みとか引き裂かれみたいなものが、本当に持たざる者にとっては全然大したことなかったということを自覚するくだりって、結構ある種の人たちにとってはありがちだと思います。話しながら思ったんですけど、岡ディヴィさんとの対談でも出ましたが『絆光記』にしたって持たざる者と持つ者って話が出てきますが、シャニマスは一貫してそういうところに視線を投げかけてるなという感じがしますね。
塵:読んでいる我々が当然アイドルではないので、持たざる者への言及が刺さるというのもありああいうコミュが来ると毎回ドキッとしますね(笑)。
ツ:やっぱり僕としては、持たざる者がどこかで救われてほしいと思うわけですよ。でも『絆光記』のシビアなところってそれはないところじゃないですか。ルポライターが自分の無力さに打ちひしがれながら、それでも書かなければいけないというところですごくリアリティのある話だったと思うんですね。樋口のGRADにしても、何か状況が劇的に変わるわけじゃない。うろ覚えなんですが、あの女の子って最終的に外面的には報われてないですよね?
塵:そうですね。でも、樋口の中で意識の変化があるし、ちょっとした変化の積み重ねが人生をいずれ大きく変えることになるという意味では、私が今回書いた小説も別に状況が劇的に変化するわけではなく、ほんの少し雛菜の中に意識の変化が生まれただけという。そういう雛菜の歩みの1頁を切り取ったというものですしね。その意味では樋口のGRADに構造的に近い部分があるかもしれないですね。
ツ:ノクチルだと僕は相当浅倉に思い入れがあるんだけど、あれは共感を呼び起こすキャラクターではないのと、雛菜と小糸に関しては正直よく分かってないんですよ。彼女ら二人に関してはノクチルが今のままであることを素朴に肯定できる人たちだと思ってるんですね。『さざなみはいつも凡庸な音がする』って、寺で掃除とかしたりするのを通して「オレらってこんなんだよね」という形で日常を肯定する話だったと思うんですけど、それが僕は日常系アニメみたいでいいなと思った。ただ一方で僕は劇的なものをシャニマスに求めてしまうので、『天檻』とかもあまり合わなかった。
塵:となるとノクチル自体がユニットの色的にツァッキさんにあまり刺さらない感じなんですかね。『天塵』は例外ですけど。
ツ:やっぱストレイライトが好きなのでっていうところにはなっちゃいますね(笑)。何の回答にもなってないんですけど。やっぱり何かと闘って、自分たちの問題を着実に解決していくアイドルが好きですね。それは三次元アイドルでもそうでした。
塵:闘って成長して、自分という存在がよりよいものになっていく人間を見るのが(ツァッキさんは)好きなんでしょうね。
ツ:それが舞台裏というかバックヤードみたいなところを見るのがそんなに好きじゃないっていうのと繋がってくるのかな。自分がストレイライトを好きなことをどんどん正当化しているようで公平ではない気もしますが、お互いがお互いの目の上のたんこぶであってほしいというのがあって、確かにノクチルは全然そうじゃないですからね。だから雛菜とか小糸にポジティブな感想を抱けていないのは、彼女らがノクチルというグループを肯定するにあたって一番重要だからだと思うんですよね。小糸のコミュで一番好きなのは【おみくじ結びますか】ですね。中学生のモデルにいじめられるやつ。あれは分かりやすくこのままじゃいけないっていう意識の変化が出ていていいですね。ノクチル自体が東京のボンボンで、小糸も甘え性なところがあって、そこに安住していたけど、そうじゃない悩みを抱えた人が同じ芸能界にいるんだっていうことを自覚する話じゃないですか。
塵:私もそれが小糸のpSSRの中で一番好きかな。次が福丸っていう苗字が大好きだって言ってる豆投げてるコミュですね(多分【福はうち】)。
質問3.塵浜氏は文章以外にも、作曲、絵など、二次創作という表現の幅をめいっぱい使ってシャニマスを表現しようという貪欲さがTwitter上での活動からも見て取れる。その中でも、音楽でそのキャラクターを表現しようという試みは二次創作の中でも比較的珍しいように思う。「人格」を音楽という形式で解釈し、それを作品とする際、気を付けていることは何か?
塵:確かに珍しいですよね。カバーの動画上げたりとか、既存の曲のアレンジをされたりしてる方って結構いらっしゃると思うんですけど。
ツ:多分塵浜さん以外に「このキャラクターを曲で表しました」っていう人は見たことないかもしれないですね。
塵:これをやり始めたというか、やりたいなという構想が生まれたきっかけは月ノ美兎の「Moon!!」ですね。
あれはファンの方が作詞・作曲したものを公式が逆輸入する形だったと思うんですけど、夢のある話だなと思って。当時の彼女がめいっぱい表現されている曲なので、ああいうことができる人は本当に楽しいんだろうなと高校生当時思いましたね。私が歌詞なしのイメージインストを作るときに意識しているのは、「具体的な場面の想像」と「個性の表現」ですね。それこそシャニのソロ曲で言えば、芹沢あさひの予測不能な無邪気さを変拍子やポリリズム、BPMの微妙な変化で表現した「星をめざして」だったり、あとは雅楽の要素を取り入れた「常咲の庭」だったりとか、キャラクターソングが方法として取っているそのキャラが持つ個性の反映の仕方みたいなものを意識しています。
あとは私の作風の場合、歌詞がないので楽器の音だけでどれだけ表現できるかっていうのを考えてます。例えばですけど、雛菜のイメージインストである「しあわせのおと」は本当に少しのラッキー、茶柱が立ったとか、虹が見えたとか、いつもより電車が空いていたとか、そういう普通の人なら見逃しそうなラッキーを雛菜だったらきっと見逃さないだろうなと。そんな彼女が家に帰るまでの道のりを、普段は歩いて帰るけどその日はスキップして帰った。そういう場面を想像しながら作りました。
ツ:個人的には浅倉透のインストが非常に印象に残っています。【国道沿いに、憶光年】をモチーフにした雨の音が入ってるやつ。浅倉透って、『天塵』からそうだったんですけど、あれも(コミュのタイトル名が)The Smithsだし、浅倉の曲が来るってなったときにブリットポップとか90'sUKロックみたいな感じで来るのかなと思ったんですよ。と思ったら結構違う感じの、アンビエントっぽい手触りのものが出てきたんで驚きました。
塵:浅倉透全体として曲を一曲作れと言われたらそれにしますね。前にもツァッキさんにこの話はしたと思うんですけど、人物そのものを曲にするならそれになるんですよ。透に関しては特別大きな感情を抱いているアイドルなので、すでに楽曲を2本出してるんですけど、ツァッキさんが好きだと言ってくださった方は【憶光年】の雨の中「一緒に濡れてよ」と透が切り出す場面を曲にしたという感じですね。人物というよりその場面の音楽というか。BGMを作りたかったという意図が近いかもしれないです。それで言うと、樋口円香の【漠漠】のBGMっていうのも、樋口円香本人ではなく、コミュの中の場面を表したくて曲を作りましたし、もう一個の透の曲は、透の見ている夢をイメージして作りました。海の中に潜って、浮かんでいる透が大きなクジラに出くわすという夢ですね。キャラクター一人をそのまま表すとなると、その人物にもいろいろな日常があるので、全部をひっくるめて表現するというのはかなり難しいです。素人なものでそういうのがなかなかできないので、場面場面を具体的に切り取って曲にしたいなという感じですね。
ツ:そうなると人格というより場面を音楽で解釈するという感じなんですかね。雛菜の「しあわせのおと」とかは市川雛菜という人物から受ける印象の総体を表しているような気がしましたけど。
塵:それはきっと私たちから見えている雛菜が一貫性を持っているからだと思うんですよね。実際雛菜はそのつもりで作ったんですけど、素直に作ればそのようになったし、雛菜でしっとりした曲を作る逆張りの必要性もなかった(笑)。実は今新しく作曲してるんですが、それは3人の背中を追いかけながら、躓きながらも前に進む小糸を表現している曲で、躓きであったりとか4人の葛藤を表現しようとしている感じです。まだ全然先になるとは思うんですが。
ツ:僕は音楽理論があまり分からないんですけど、この人物や場面にはこのコードだとかこのリズムだとかっていう選択はどうやってやってるんですかね。
塵:元々ピアノをやっていたのもあり音楽の知識は多少あったんですが、本格的に勉強を始めたのは大学生になってからですね。クラシックからポップスまで和音が与える印象をいちいち調べて、キャラクターの印象と照らし合わせていく感じです。
ツ:一般的にこういう印象を与えるだろうというところからくみ上げるのは全然ありでしょうね。というのは、もちろんすごい編曲家だったら、主観的にここにはこのコードしかないっていう当てはめ方をして、それが思いもよらないそのキャラクターの特性をえぐり抜くっていうのはあると思うんですけど、共感を得るという意味であれば塵浜さんの手法は手堅いですよね。
塵:あとは既存のソロ曲に合わせたりしてましたね。「しあわせのおと」は「あおぞらサイダー」とスケールが一緒です。透も「statice」と同じスケールで作ろうと思ったんですが、そしたらありがちなイージーリスニングみたいな音作りみたいになってしまって、自分なりに変えたりとかはありました。
ツ:基本的にそのキャラクターのコードで作るっていうのは面白いですね。塵浜ワークスで行くと、芹沢あさひの「Howling」も好きです。
塵:あれはエイプリルフールコミュの芹沢あさひなんですよね。タイトルこそ「Howling」ですけど、私を置いて飛び立って、自由な姿で夜空に羽ばたいていくみたいなぼんやりしたイメージから受けた印象を曲にしました。
質問4.塵浜氏との会話や、時折Twitterでも顔をのぞかせる「自身をミーム化したい」という欲望は非常に興味深い。私は人の記憶に残りたいと積極的に思わないたちだが、塵浜氏が「自分のミーム化」という形で人々に「ウケたい」と思う時、そこに承認欲求以外の欲望があるとすればどのような欲望なのだろうか?また、シャニマスにもミーム的側面は存在するが、「シャニマスを使った自身のミーム化」をしてみたいとは思うか?
塵:なかなかない欲望ですよね。すごい突拍子もないことを言うんですが、根底にあるのは「不老不死」ですね。
ツ:なるほど。インターネットに残ることによって老いない存在になりたいということですか?
塵:大きく言うとそんな感じですね。高校生になったときぐらいからずっと抱いてる気持ちなんですけど、俺が死んでも世界が続くことが許せないんですよ。この世界の先行きを全部見たいんです。だから自分が死ぬなら世界が滅んでほしくて、世界が滅ぶのを見てから自分も死にたいんですね。でもそれって絶対不可能じゃないですか。自分が死んでも世界は続いていくし、人の歩みも紡がれていくし、そういうかなわぬ願いを受け継いでくれじゃないですけど、どんな形でも残りたい。
ツ:それってでも不本意になることもありませんか?それこそ淫夢みたいな感じで残っちゃうこともあるわけじゃないですか。
塵:そこに関しては顔は出したくないですね(笑)。声だったり着ぐるみだったりで、間接的に自分が死んだあともインターネットの海に漂いたいという。誰かに見つからなくてもいいんですよね。忘れられてもいい。ただ海にプカプカクラゲみたいに浮いていればそれでいいかなっていう願望があります。
ツ:僕には全然ない考えだから面白いなー。僕はやっぱり不本意な形で残っちゃうのが嫌なんですね。それが嫌だから何回もアカウントを変えているというのはあって。怖いじゃないですか、自分の写真がネット上に漂流してるのって。実際僕も詳細は伏せるんですけどニコニコ動画でBB素材になってたりするんで(笑)。
塵:そういう面を考えると確かに恐ろしいですね(笑)。僕がイメージしてるのは海外のミームですね。あれは顔を出さずにみんなに愛されてる感じなので理想だなと思います。シャニマスを使った自身のミーム化についてなんですけど、これはもう実際にやっちゃってますね。万バズしたのだと「果穂に悪意のあるスタッフにブチ切れる」やつとかは完全にシャニマスに乗っかってるんですが、コンテンツの威を借るのはあんまりよくないとは思いつつ界隈にいる以上受け入れてもらえるとは思っているので、笑ってくれるならやりたいなという気持ちは十分あります。実際、未だに通知が来るんですよ。「市川雛菜に監禁されるニャンちゅう」とかも今でもリツイートされますね。そういう意味で言うと昔から人を笑わせることが好きなので、その延長でやってるって感じですね。
ツ:僕は身内で盛り上がる分には全然抵抗はないのと、シャニマスっていうことで言うとこういう雑誌を立ち上げてるぐらいだし、noteに関してもそうなんですけど、自分の名前が残らなくてもいいから、シャニマスっていういちソーシャルゲームに対してこういうことをやったという事実は残ってほしいんですね。『SHINOGRAPHIA』の奥付に一応ツァッキという名前は載りますけど、「光空学派」として残ってほしい。なので、自分のやったことが自分の名前が消えて後世に残ってほしいというのはあります。
塵:クリエイター的な考え方ですね。名前じゃなくて作ったものが残ってほしいっていう。
ツ:あとは自分がアカデミアに片足突っ込んでるからですけど、自分の名前だけが残ったところであまり意味がないというか、やったことで残らないとというのは自分の研究でもしていて。この間社会学を専攻している方とお酒を飲む機会があったんですが、社会学をやっている人からすると今起こっていることが正確に把握できれば後世に残らなくていいみたいな話があって、それは全然僕のスタンスと違うなと思ったんですね。文学とか哲学だと自分の論文が100年後や200年後も読まれるべきなので。シャニマスの言説もどっちかだと思います。今シャニマスについてこういうイベントシナリオがあって、こういうモチーフや読解がありますっていうのを今シャニマスを読む人に書いてるのか、大昔にシャニマスというゲームがあり、それがソシャゲの枠を越え出て、一部の人たちにすごい影響力があったということを残す意味で自分の文章を残すのかっていう。それに関しては僕は明確に後者です。
塵:ミームって面白おかしいものだけではなく、意志という形で受け継がれてもミームになると思っているので、広く取ればツァッキさんの書いたものもミームという風に考えられるのかなと。形にしたものが受け継がれて読まれればそれはもうミームですね。音楽もそうですね。
ツ:それで言うと音楽って作家性が結構重要じゃないですか。誰が作ったか分からないけどこの音楽を聴こうっていう気分にはなかなかならないわけですよ。この人が作ってるから、この人が演奏してるから聴こうと思う。僕も塵浜さんもクラシック音楽が好きだから伝わりやすいと思って言うんですが、この指揮者が指揮するからとか、このピアニストが弾くからこの演奏会に行くという話になりますよね。だから分野ごとに色々違う気がしますね。絵だとアウトサイダーアートとかあるので作家性がどうとか一概に言えないですし。最近面白いなと思ったのは、最近映画好きの若い子2人にフォローされたんですが、彼らはゴア映画が大好きなんですね。しかもゴア映画って言っても、作り物ももちろん観るんですけど、本当に人が死んでるやつとか観るんですよ。スナッフフィルムみたいなやつ。『MDPOPE』っていうミックステープがあって、タイとかメキシコとかで人が死んでる様子を集めた9時間ぐらいのビデオなんですが、それとかを彼らは観て、喜んでるのかなと思ったら普通に気持ち悪くなって観るのやめたりしてるんですよ、意味わかんないんですけど(笑)。そういうのって誰が撮ったかとか関係ないし、でもある種のゲテモノ的な好奇心によってずっと観られ続けてるわけですよね。
塵:メンバーがショットガン自殺した顔面をジャケットにしてるアルバムとかもありますもんね。MAYHEMでしたっけ。ああいうのは曲知らなくても好奇心とかで知ってる人はいっぱいいますし。
ツ:そういう意味でミームというか、記名されずに残っていくものの影響力みたいなものを考えたりするんですよね。例えばタイで交通事故で死んだ人の映像が残っているとして、その人が誰だったかとか全然わからないし、その映像を撮った人もわからない。でもその映像が残ってしまうっていうことがどういうことなのか、という。さっきの話に戻ってくるんですが、シャニマスにおけるnote文化にしても、名前とともに文章を売っている人とそうじゃない人がいるんですよ。『SHINOGRAPHIA』だと、同人誌であれば作家性があってもいいと思うんですね。それは誰が書いたのかというときに責任が問える形にしたいというのもあるので。『SHINOGRAPHIA』の中に載った文章が誰によって書かれたかというのが「光空学派」の名前のもとに残ればいいと考えているし、それは遥か未来にその名前が指す人がいなくなったということになっても書いたものが残ればいいだろうと。だから自分が生み出したものがどういう形で残るかっていうのには個人的に関心がありますね。
塵:そういう意味で言うと私もツァッキさんも大きなくくりで言えば同じ側だと思います。クリエイターに対する憧れみたいな部分でも、自分の生みだしたものが残っていけばいいなと思っていますしね。
質問5.(共通質問)シャニマスは現在メディアミックス含め、6周年でなお盛り上がりを見せている。しかし、「未来の廃墟」としてのシャニマスを忘れることは、コンテンツへの無批判にもつながってしまうだろう。それを踏まえた上で、塵浜氏が思う、「シャニマスの最も幸福な幕引き」はどのようなものか?
塵:今まで割と転々とはしてきましたけど、そもそもソーシャルゲームの終わりってすごいヌルっとしてるんですよね。あとは続いてはいるんだけど実質的に死んでしまったというパターンもあります。ずっと追ってきたファンがあるところで見切りをつけるような出来事があったコンテンツですね。そういうのを見てきたので暗い気持ちにはなったんですけど、実際アイドルマスターシリーズ自体本当の終わりは迎えてないですよね。SideMはゲームは終わったけど、合同とかにはちゃんと出ますし。
ひとつ思うのは、ドデカい葬式をしてほしいんですよ。ツァッキさんは僕と逆の考えで、誰もシャニマスを追わなくなってから、ひっそりと消えてほしいみたいなことをおっしゃってたと思うんですけど、私はデカい葬式をしてほしいなと思います。シャニマス自体既存のアイドルマスターシリーズに対するアンチテーゼ的な性格があると思ってるんですが、例えば放課後クライマックスガールズって絶対に終わりが来るじゃないですか。ノクチルだって浅倉と樋口が高校か大学を卒業するタイミングで終わりが来るし。明確に最近のコミュで「永遠」がテーマになっていたりとか、あとは雛菜の過去を描くっていうときに雛菜のSTEPを読まなかったんですよ。執筆上で同じテーマの他の要素を入れたくなかった。で、今日読んだんです(笑)。そしたら、「アイドル 寿命」って雛菜が検索してたんですよね。やはりここでも終わりが明示されている。パラコレも最近発表されましたけどね。
ツ:あれはどうなんだろうなあ(笑)。冬優子が出たら当然引きますよ(注:引きました)。でもやっぱりちょっと微妙な気持ちにはなりましたよね。
塵:いや、それこそ「アイドルじゃない黛冬優子」ってツァッキさん的にはNGじゃないですか?
ツ:地雷とまでは言わないですけど、アイドルという選択肢を選んだ冬優子だから好きになったという感じですよね。アイドルだったけどアイドルじゃなくなった冬優子なら興味あるんですけど。一回ステージを降りたっていうのがコミュの中に描き込まれてるならアリだと思います。
塵:パラコレは今後どうなるか分からないですが、幸せな幕引きっていうことで言うと、私の心に傷をつけてくれる盛大な葬式、それぞれのアイドルの終わりを描いてほしいですね。
ツ:岡ディヴィさんも言ってましたけど、皆さん心の傷を残してほしいっておっしゃいますね。
塵:シャニマスのオタクはみんなドMなんですかね(笑)。終わりと言っても、アイドルの人生が終わるわけではないですし。日常はシャニマスがサ終しても続くんですよね。
ツ:僕も自分でこの質問を書きながらシャニマスの最も幸福な幕引きを考えたときに、いつか僕も自分の部屋にある冬優子のタペストリーを下ろすときが来るのかなと思うんですよ。その選択をしたときに、自分の中でシャニマスが終わるのかなと。で、そのあとにシャニマスがサ終してほしいんですよね。シャニマスにハマってる最中にシャニマスが終わったら嫌で、死ぬところは見たくない。「VOY@GER」あったじゃないですか。あれの動画コメントで印象に残ってるのが、「20年間菊地真を応援してきました」っていう人がいて、すごいなあと思ったんですよね。俺も20年間黛冬優子を応援してきましたって言うのかなあと考えたんですよ、それを見たとき。今のところ全然飽きる様子はないし、降りるつもりもないし、シャニマスこれからもバリバリ楽しみますよって感じなんですけど。
塵:私の場合は今みたいな熱量の時でも構わないと言いますか、終わりを見たいんですよね、やっぱり。シャニマスが終わって、それぞれのアイドルの終着点が描かれて、これからもきっと続いていく彼女達の日々を追えないことに少し気持ちが沈んだとしても、依然としてタペストリーを飾り続けるんですよ。確かに観測した光を、忘れないように。フィギュアも飾って、音楽も聴き続けて、コミュを録画したものも観る。過去の思い出に思いを馳せて、引きずりたいんでしょうね。
ツ:それで思い出したんですけど、僕は大学1年生から2年生にかけて『Fate/Grand Order』にめちゃめちゃハマってて。本当にハマってて、素材集めで2徹とかしてたんですよ。グッズ集めとかはしなかったけど、FGOもシナリオがあるゲームですね。1部の6章だったかな、円卓の騎士の話なんですけど、あれの「レプリカ」って話があって、それを始めて読んだときにマジで泣きはらしちゃって。この間今読んでも泣けるのかなと思って、Youtubeに上がってたやつを見たんですね。で、今読んでもありえないぐらい泣いた(笑)。だからまあそう考えると僕の中で本当にシャニマスが死ぬことってあるのかなっていうのは正直怪しいんですよね。
塵:そういうことなら、シャニマスをもしツァッキさんがプレイしなくなっても、冬優子のWINGを読み返して泣けますもんね。
ツ:そうなんですよ。だからそこに自己矛盾はあるんですけどね。
塵:あと思ったんですけど、私そういえば経験してますね。バーチャルYoutuberなんですが、2017年は四天王もいて、当時あのコンテンツが一番好きだった。実質的な死を経験してしまった今でも、彼女たちの曲を聴いているということはそういうことなんですよ。
ツ:そうだなあ~、そういうことを考えると僕の言ってることが若干怪しくなってくるな(笑)。そんなこと(シャニマスを忘れること)が果たして可能なのかという。いや、だって冬優子のタペストリーを壁から下ろしたとしても冬優子を忘れることはないもん。そういう意味では僕もすでに心の傷を負ってるのかもしれないです。
塵:私未だにピンキーポップヘップバーンの生放送のアーカイブよなよな観てますしね(笑)。
ツ:僕は推してるVtuberが引退したのは……あー、久遠千歳とかかな。今でも「ヤンキーボーイ・ヤンキーガール」は聴いてますね。
塵:「盛大な葬式」っていうのは、実は人の言葉を借りていて。一番推してるVtuberは月ノ美兎なんですが、6年ほど前に彼女が「私が引退するときは、盛大な葬式を挙げるから」って言ってたんですよね。雑誌のインタビューだったかな。多分そこから私のシャニマスへの望みは生まれてます。
ツ:(シャニマスは)作品である以上残っちゃうんですよね。それはどうしても不可逆的だし、僕もシャニマスに出会っていない人生っていうのが正直想像できないので。思うのは、この間柏木由紀がAKB48を卒業したじゃないですか。彼女は15年ぐらいAKBにいて、僕はゆきりんのオタクだったんですけど、彼女がAKBを卒業したっていうニュースを見て、やっと俺の三次元アイドルオタク人生が終わったんだって感じがしたんですね。正直ずっと柏木由紀を追っかけてたわけではないんですよ。でも最初に握手会に行ったアイドルは柏木由紀だし、そういう意味で最初は変えられないんですよね。ゆきりんのオタクだった中学1年生当時は、ゆきりんが卒業するなんてことがあったら俺はどうなってしまうんだろうと思ったんですね。もう死んでしまうかもしれないと思ったんですけど、そこから十数年経ってついに卒業したっていうのを見たときに、色々なものが終わっていくのを感じました。それが自分の運命的なものから降りる瞬間じゃないですけど、そういうことをそのとき考えましたし、ゆきりんのオタクじゃなかった人ってこの気持ちはないと思うんですよ。柏木由紀ってAKBに一番長くいた人なので。運命から降りるということを強く自覚はしたけど、懐かしい気持ちにはなってしまったので、本当の意味で忘れるってことはできないのかもしれないですね。
塵:そんな簡単に忘れられるわけないですよ。ちょっと脱線しますけど、きっと私は田中有紀さんのことを忘れられないので(笑)。
ツ:それもひっくるめて岡ディヴィさんの言葉で言うならダメージですよね。シャニマスにしても、すべてのコンテンツがインスタントかつファストになっていく中で、こういう気持ちになるテキストを提供するっていうのはそれだけで意味があると思いますけどね。
塵:稀有だしありがたいなと思いますね。それこそ商業音楽ってどんどんインスタント化が進んでいて、一応若者のはしくれではあるのでTikTokとかYoutubeShortとかで話を合わせるために聴くんですが、(音楽シーンの)移り変わりっていうのがとんでもなく早い。音楽だけじゃなくコンテンツがそうなっていく中でシャニマスはこういうことをやってくれているので、ついていきたいなって思いますね。
質問6.(共通質問)「あなただけのシャニマス」を一言で言い表すとしたら、何になるか?
塵:今の私からすると「いつか心の中で静かに語りかけてくれる、確かに刻まれた少女達との記憶」とでも言いましょうか。序盤の質問でも回答した通り、恐らく私はシャニマスのアイドルがアイドルであることに対する執着が薄いんですよね。一人の女の子として見ているというのがあるのと、一つ前の質問にも関わるんですけど、「あなただけのシャニマス」に思いを馳せるのって、シャニマスが終わってからかなと思います。もちろんプロデューサーが見えていない部分まで神視点で彼女らを観測していることになるので共に歩んだ記憶として語るのは少し違う部分あるかもしれませんが、樹里と初めてWINGを優勝した瞬間や、一応ネタバレを控えるために伏せますが『天塵』、『天檻』、『ワールプールフールガールズ』における象徴的なシーンも、実際にライブでノクチルにサイリウムを振って、泣きながら共に歌った思い出(6th大阪)も、芹沢あさひを通して自身が知らず知らずのうちに手放してしまった無邪気と向き合った瞬間も、黛冬優子の泥臭くも気高い精神を目の当たりにした瞬間も、変な話それら全てがいち二次元キャラクターではなく、一人のそういう少女との記憶として残る。そしていつかまた、語りかけてくる。決して現実とフィクションの区別がつかない〜とかそういう話ではなく、それくらい完全に没入してシャニマスの世界観を楽しめているので、それが私にとってのシャニマスになっていくのかなって思いますね。これは恋愛感情ではなくて、例えば冬優子とか円香ってバディストーリーじゃないですか。輝きに向かって羽ばたいていく彼女らとページが重なっていた時間が確かに存在したというか、自分がくすぶっていたり目標を立てて頑張ったりする時期をまたがって、その時に自分とアイドルと同期していたんですよ。
ツ:僕は全然冬優子に対して恋愛的な感情はありますけどね。というか冬優子に関しては他のアイドルと抱いてる感情の重さが違うかな。当然樋口も浅倉も霧子も美琴もはるきも好きですけど、それこそ僕が冬優子とデートするnote書きましたけど、ああいう記事を書いちゃうぐらいには「冬優子と僕」っていう、キャラクターと自分の二者関係に落とし込んで解釈する感じにはなりますね。それはアイドルである黛冬優子もそのうちに含み込んではいるのですが。
最後に言いたいことがあればどうぞ。
塵:まず、主宰のツァッキ氏、そして執筆者の皆さまに心より感謝申し上げます。皆さまの尽力と情熱によって我々の思いが一つの形となり、『SHINOGRAPHIA』が生まれました。執筆者それぞれの表現がまるで宝石のようにきらめくこの本は、沢山の人々の気持ちと気合いが詰まった珠玉の一冊です。たった一文、あるいはたった一つの表現でもいいので、この本を手に取ってくださった方々の心に響き、何かのきっかけになればと願っています。一文に込められた想いの深さが、些細な瞬間を“特別”に変える力を持つと信じていますので。あ、SSF07当日はツァッキ氏と頒布に同行する予定なので皆さん会場ではよろしくお願いします!!!にちか~~~ポップの書き方教えてくれ~~~!!!ついでにつむじも吸わせてくr
ツ:この辺で塵浜さんには黙っていただきましょう。『SHINOGRAPHIA』ブースのポップは塵浜さんにお願いしてありますので、当日現地にいらっしゃる方はお楽しみに。本日はありがとうございました。
塵:ありがとうございました!
(取材・文:ツァッキ)