未発表小説『壊走哀歌』(本文:49003字)
まえがき
以下に掲載するのは私が2020年夏に新人賞用に執筆した中編小説である『壊走悲歌』の自身による校訂の最終バージョンである。思えば、「書いてすぐ出し」がモットー(最近は同人活動をするようになって「あっためる」期間の大切さを身に沁みているわけだが)の自分が4年間もこの作品を有料公開以外の場所では公開していなかったのは不思議な気持ちである。というのも、この小説は長らく私の「恥部」なのだった。自分の未練や我執を煮詰めたようなこの作品を公にするのは、道路の真ん中でマスターベーションをするより恥ずかしいことだという思いがずっとあったのである。が、最近これを読み返し、そして文学研究を始めて、また小説を書いてみようという気持ちも湧き始めた。いつになるかは分からないが。ともかく、当時から4年間抱えていた個人的な問題がある程度解決でき、公開に踏み切った次第である。
当時の私の状況を注に付すこともできなくはないが、いわゆる非常に卑俗な意味での「作家論」を非常に卑俗な意味での「テクスト論」よりも嫌う私なので、あえてどういう状況でこの作品が書かれたかは記さないことにする。プロット作成に二か月、執筆に一か月をかけ、本気で賞を狙ったのだが、あえなく一次選考で落ちた。ひとつだけ作者の言い訳を許してもらえるのであれば、当時の私は「ライティング・ジャンキー」であり、とにかく創作に精力的だった。これ以外に小説も数本書いたし、初めて同人に批評を書いたし、初めて(そして恐らく最後に)文章でお金をもらっていたのもこの時期だった。コロナで行き場を失ったリビドーと20代前半の自意識の集大成がこの作品であり、今はこの作品のことを剥がれかけのかさぶたのようにかわいく思っている。
簡単ではあるが、まえがきは以上としたい。若書きで慣れていないながら一生懸命に書いた私の生傷を笑ってくれる人がいることが、当時の私への最大の餞である。
『壊走悲歌』
Chapter.(null)
大人と呼ばれる人たちは若い人はたいていのことは失敗してもいいという。後で「取り返しがつくから」だそうだ。多分そうなんだと思う。
学校で宿題を忘れたとか、受験に失敗してしまったとか、会社で比較的大きいミスをやらかしてしまったとか。大人になればなるほど失敗の責任は大きく、重圧はどんどん負荷を増す。かかる負荷は大人になってからの方が社会的生命の維持、存続に関わってくる。だから、「若い頃の失敗は取り返しがつく」。
なんで俺はこんなことを書いているのだろう。やってしまったことへの言い訳が無限後退し、取り返しがつく、取り返しがつく、取り返しがつく、の、「はず」と言い聞かせてここまでやってきた。「生き延びる」とか、もっと言うと「サヴァイブする」みたいな、高尚な理念のもとに俺はこの命を長らえさせてきたわけではない。いや、もう十分サヴァイブしてきたと、個人的には思っているのだが。なんというか、あれだ、延々と覚めない悪夢というか、自分の意志では抜け出ることのできない無意識が気づいたらその辺にボロン、と落ちていて、あたりを見渡すとボロンボロンボロンボロンと自分の無意識が寄る辺なさそうに転がっている。抱えている分にはよい。一回吐き出してボロンとしたものがその辺に散らばっていると気味が悪い。ああ、本当に気味が悪い。うすら寒い。せめて家の中に入ってこれる限度はチャバネゴキブリで、自意識が見えるのは本当に気味が悪い。気味が悪いまま俺はこの文章を書いているし、背後にあるボロンとした自意識がぺたぺたと後ろの首筋を這い回っていて、逃げるために俺は文章を書いている。これじゃあクローネンバーグ(バロウズではなく)の裸のランチに出てくるタイプライターのオバケと同じだよなあ、気持ち悪い、と思う。
「愛は願いだ。僕は祈る。」うろ覚えでいつ読んだか覚えていない小説の一節だが、愛も願いも祈りも俺から言わせてもらえば呪いである。なあ、なんで俺はこうなっている?こんなはずではなかっただろ?もっとなんとかなると思ってただろ?なあ?自分が要領の良い人間だといつから思っていた?いや、そうは言っても諦めも折り合いもつかない。正直まだなんとかなると思っているし、要領の良い人間ではあったと思う。だから、外に雪が降っていて桜が満開の今は四季のいつで、今は何月何日で、朝なのか昼なのか夜なのかが指数的には一〇〇でピントが合うとして「四十二」ぐらいだ。前頭葉が宙に浮いて高速旋回するし、言葉を発しなくなってからはどうやって話し言葉を発話するのかが分からなくなってしまった。唖の気分というものはこういう感じなのだろうか。俺は唖でも聾でもないが、自分の思考に分別がつかなくなって、時間感覚もなくなって、喋る言葉は意味不明、っつったって立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花みたいにリズミカルに口ずさんでみても何かが変わったり美化されたりするわけではない。
意識が遠のいていく。向こう側からやってくるものがある。それが何なのかは分からない。今日が何年何月何日かも分からない。飯の味も、昨日観た映画も、読んだ本も、覚えていない。ただただ、脳味噌の神経がはんだごてで一つずつ押しつぶされていくような感覚だけが日増しに増して、俺が思い出したくないことばかりを俺に思い出させる。昨日食った飯どころかさっき食った飯さえ覚えてないよ。確認するためにシンクに行ったら自意識がボロンボロンしてたら嫌だしな。それでも飯を食ったんだと思う、多分。「食ったことになっているだろう」し「食っただろう」だ。別にフランス語の話をしているわけではないが。
海辺に一生懸命建てた砂の塔はさざ波(大きな津波でもない。大きな津波でもない!)にぬるりと呑まれていくような感じと言ってもいいし、蜃気楼と幻覚の区別がつかないままに大きな砂漠の上に投げ出され、「歩け」とどこかから声が響いて、ハイ今から歩きます、これまで俺はこの道を歩いてきた自信はとてもないのだが、などと思いながら蹴った砂の上の足跡は蹴った瞬間からこれまたするすると消え去っていく。脱力感などという言葉では言い表すことはできない。絶望というには俺はなまぬるい。まだ希望があると、どこかに必ずあるのだと、自分に言い聞かせる。でも、やはり駄目なものは駄目だと思ったりもする。「歩け」という声はどこから聞こえてくる声だろう?父親のような気がする。「歩け」「死ぬまで歩け」「倒れるまで歩け」と。知ってるよそんなこと、と思ってはいる。実はあんまり知らない。知らないから、とりあえず歩いているだけの話だ。もしかしたら、崩れ去った砂の塔の中に美しい真珠がある「かもしれない」。もしかしたら、ずっと歩いた砂漠の先にオアシスがあって、太陽に輝いて戯れる水に口をつけて乾いた喉を潤すことができる「かもしれない」。だが、そのイフは、いつまで経ってもイフで留保されるから、「かもしれない」なしに人は砂の塔を海辺に建てることもないし、砂漠をさまようこともない。
人生のアレゴリーはいくつかのパターンがあり、そしてそれは俺にとっては書き留めることが生きることのアレゴリーである。人生と書くことの最も大きな違いは後に綴ることにしよう。似ているのは、書くことも読むことも「時間的」な営みであるということである。当たり前だが、こうして自分が言ったことをねじまげたり、話し言葉とは違う形でものを言ったり、他人から言われたことが内側で変容して出力される場合がある。それを書くことで明晰になることもあれば、書くことで台無しになる事実がある。なお、決定的に禁忌となる場合は、書くことより言うことの場合の方が多いとだけ言っておこう。「書き留める」ことの重要さは、何より、自らの中で俺、私、僕、それらのひらがななど、といった一人称(IやIchやJeの場合はどうなるのか謎だが。日本語は自己同一性を担保する人称の種類が多いことは親切な言語のように思える)の価値とは、名指すことが可能であった何かを不可能にするための経緯が文字という形によって見えるようになることに存する(存するとか言うと嫌な表現だが)。俺は、もう俺ではないので、俺という一人称を使うことに大変な違和感があるが、とりあえず俺と言うようにしている。だから、机の引き出しの下から二番目、鍵のかかった棚にしまわれているA4の大学ノート(キャンパスのやつではなく、分厚くてやや高いもの。冒頭には初等文法で挫折したヘブライ語の文字が一~二頁書いてあって、それをひっちゃぶった)に、嫌な夢を見て汗びっしょりになりながら起きた午前四時にノートいっぱいに夢の内容を書いて、初めて恋人ができたとき、人を愛せない不能を知ったとき、そして今、「出口なし」で両手を上げて、いつもはかならず書いている日付さえも分からなくなってしまったとき、に、ああ、まだ生きなければならないのだろうか、と首を絞める真綿が締め付けを増す。
俺にとって書くことは生きることの寓意だ。だったのかもしれない。また「かもしれない」などと留保してしまったが、「だった」のだ。書くことが生きることにオーヴァーラップする問題系は時間に関わっている。それぞれにおいて独自の時間がある。読む時間、書く時間、そして生きる時間。それぞれにすべて同じ時間が流れているわけではない。
しかしその一方で、書くことと生きることが必ずしもアレゴリーであるとは限らない。それは「途中で投げ出す」とか「取り返しがつく」ことが文章の方が簡単という「だけ」の違いだが、これが一番やっかいだとも思う。生きることが簡単に投げ出せたり、過去に戻ってあのときの大失敗をやり直せたりしたら、こうやっていらないことを無益に書き綴る意味もない。相対的な時間は過去に巻き戻ったり未来にスッ飛んでいったりするが、時計の長針と短針は無情にも、本当に無情にも進んでいく。相対的な時間が渦を巻くのに対して、絶対的な時間において現在と呼べる現在はない(哲学的な話をしているのではなく、当たり前の話である)。あるのはただ進みゆく直線的でのっぺりとした流れだけ。どしゃぶりの中ぬるいウォータースライダーでゆるゆる運ばれるというような表現が比喩として正しいのだろう。ウォータースライダーも人生と同じく途中離脱が「難しい」。不可能だということではない。可能だが「やってられん」と絶叫して人生をシャットダウンさせるのは相当体力と根気がいる話というだけである。
文字を綴る救いは、常に中断が目の前にあることだ。「やめられる可能性」がポジでもネガでも同時に存在することは、書いてよいということである(思いこみ?)。苦しみながら、悲しみながらでも文章を綴らなければならないのであれば、わき道の「落ちても死なない崖」にハンドルを切って一回落下すればよい。もう一回同じ地点から始めることは無理であっても、緩やかな坂、曲がり道、迂回路、そういったものを辿っていって、気がついたら当初とは違う道のりで、違う形でひとまとまりが出来上がっていることもある。そのひとまとまりこそ、絶対性なき時間の言祝ぐべき滞留、とでも言うべきものだろう。「停止」ではなく「滞留」だ。読み返すことも含めて。
生きることの救われなさは、常に中断が見えないことだ。あるにはある。見えないまま走り抜けて「ひとまとまり」の生を生きられるラッキーな人々もいる。だが、一回ドブ板を踏めば踏み抜いたままドブと板まみれでラフロードを爆走、無論タイヤはガタガタ言うしサスペンションも奇音を鳴らして、おかしい!おかしい!違う!この道絶対違う!「こんなはずじゃなかった!」と絶叫し、しかも明確なゴールラインは明らかに遠くて、ドブまみれのイカれた車で走りきることは困難だ、崖はないのか、と思っていたら見あたらなかったり、思ってもいないところで落っこちたりする。肝心なことは、もう落ちてしまうと「取り返しがつかない」ことである。最初のゆるやかなストレートコースからやり直すことができない。ドブのぬかるみは脱輪すればずっと付きまとう。片足も両足もドブまみれなら、そいつは一生ドブ野郎で、洗っても洗ってもドブは落ちない。俺のドブも落ちない。しかし、こうして自分でも読めないような悪筆で原稿用紙でもなくノートの最後のページに書き綴っているドブ野郎、即ち俺のような人間には、残された道が二つある。裏ルートは一つある。
ドブを啜って上から下からものを出して死に損ないになること。
ドブを抱え込んで「それでもよし」とすること(肯定ではなく)。
これが今時軽油で走って事故を起こすような人間の最善の二つである。「ドブを啜って死に損ないが最善?」そう、最善。なぜなら生きていることは不正確な意味においてそれだけで倫理的だからだ。では、裏ルートとは何か。
ドブで這い回ることを拒否して適当な崖から飛び降りてしまうこと。
つまりこのルートは人生をゲームとして捉えた場合のルートである。ゲームとして「捉えざるを得なくなった」と言った方が正しいのかもしれない。例えば麻雀のベタオリ。例えばブラックジャックのサレンダー。放銃すると分かっていてもここで押し勝てばまくれる、手元の少ないチップを全ベットしてダブルを引く、ここではそのような事態は何も屈辱的なことではない。むしろ輝かしいものであるとすら言える。ドブに溺れて死ぬことほど誇り高いことはないのだ。そうではなくて、自分の這い回っているドブの臭いが染み着いていることに自分自身が耐えきれず、両手を挙げて「降参」と言って崖から飛び降りてしまうこと。「降参」の宣言ほど屈辱的なものがあるだろうか。ゲームの結果として負けているのではない。強いて言えば小さいプレイングミスの積み重ね。「今のはレイズでよかったけど、まあいっか」「リャンメン待ちだけどドラ欲しさにローピン切ったら裏目やっちゃったけど、まあいっか」まあいっか、まあいっか、まあいっか……どんどん日々はなあなあになっていき、「まあいっか」が気づいたら全然よくないことになっている、なんていうことはざらにある話だが、ゲームに「負ける」とかドブで「溺死する」のは戦った結果であり、かっこいいことである。誇りあることである。しかし「まあいっか」「やっぱりよくないわ」でゲームから降りてしまうことは、成し遂げようともしなかったドブにも満たないカス野郎のやり口であり、宙づりで進行するゲームを、ただただ眺めているだけである。そして俺は、「負けると分かった瞬間人生ゲームをひっくり返す子ども」のようにして、「ゲーム」から屈辱的な撤退をしようとしている。
兄の「撤退戦」を間違っていた、と言える人間では元々なかった。しかし、パソコンのハードディスクの処分もしないまま、フラッと蒸発して近所の汚い川で土左衛門になっていた兄の姿を見る度に、悲しみや怒りよりやるせなさや寄る辺なさを感じたのを覚えている。兄には俺がいて、俺には兄がいた。喧嘩もしなかったがよく喋る間柄でもなかった。それでも「ゲームから降りる」ことの、ある種の卑怯な感じみたいなものを、俺は思春期ながらに悟っていたのだろう。兄だって、こんな盤外戦術みたいなことをしたくなかったのだとは思う。それは恐らく間違っていない。俺だってしたくない。しかし、ボードゲームをひっくり返すガキがボードのコマをひっくり返したくてゲームに負けているのではないように、負けを認めたくないが勝ち筋がないのでゲームを破綻させているだけである。誇りも矜持もない。意地はある。今ここで、すべて、すべてではないが、「俺」を「俺」たらしめているものを自らの意志で終わらせようとする、ドブが喉に詰まったような意地が。そしてその意地を張った結果がこれであることが、たまらなく情けないと思う。
ブーッという不愉快なバイブレーションが鳴った。このバイブレーションがもう一度鳴るのは正確にあと一時間後である。時間の感覚を失って光や音に敏感になり、ラブホテルのようになっていた。次のバイブレーションで俺はくそまずい液状の睡眠薬を四パック飲み、ふらふらになったところで包丁を手にとって服を着たまま風呂に入って、縦の切り込みを左手首に入れて(リストカットやアームカットは横に切るが、静脈に対して垂直に切ってどうする)あーいてぇなーとか思っているうちに睡眠薬で寝る。もう目覚めることはない。次の日(日って何?)にはユニットバスが真っ赤になっているだろう。成就なく中断されたゲームは永久に始まらず、事実上の終了にホイッスルが鳴らされることはない。勝者なきゲームで荒らされたグラウンドは整備されない。誰も遊びに賭け金を賭けることはない。それはいい、もういい。昨日だか今日だか分からんが、とりあえず次のブザーでタイムアップだ。このノートの表紙には何も書かれていないし、とりあえず何か表題をつけておきたいという気もする。遺品整理をするオオムラもこのノートがなんなのか分かった方がよいだろう。あと残された時間は五十分程度、しかしこれも自信がない。すべてを書ききれるわけではないが、まだ書かなければならないのに書いていないことがある。これより前のページには、書いてあることだが。
しどけない女の話である。
一人目の女の名前はアンリと言った。俺が成人にならなんとするときに出会った。アンリと俺の具体的な関係を、俺ら以外誰も知らなかった。マッチングアプリとかいうやつが馴れ初めだったからである。哲学者のアラン・バディウは、ある本で当時(具体的には覚えていない。もっと言うと覚えていたのだが忘れた)からヨーロッパで爆発的に広まっていたあるマッチングアプリは、事故のような出来事である恋愛に至るプロセスをよりインスタントに即・配達、偶然性を排した「必然」として捉えることに疑義を呈していた。言いたいことは分かる。しかし欲望のインスタントな充足から逃れるのは難しい話である。それはアンリも俺もそうだった。打てそうな球が来たらとりあえず振ってしまうのが同じだった。決定的に違っていたのは、「モテる」と言うか「モテない」と言うかでしかなかった、だが繰り返しになるが、それこそが最も大きな違いだった。実際に当時二人がモテていたかどうか、という客観的な尺度、即ち何人とセックスしたことがあるか、何人ステディが過去にいたか、というような闘争領域においては二人ともはっきりと勝者だったと言える。アンリはいともたやすく「私モテるんだよね」と言っていた。俺は同じたやすさで「俺はモテないからさ」と言っていた。他人から欲望されているとかされていないとかで、二人の間で言い合うことは全く無意味とも言い切れなくて、「そんな俺/私はお互いに好き合ってるよね」という確認の意味合いもあった。確認しなければならなかったのは、バディウよろしく出会いがインスタントだったからで、それに対する価値判断に善し悪しはない。インスタントであることの弊害を強いて言うなら、自分の気持ちを自分だけで確かめる手段がないことだ。
人を愛したことがなかった。なんとなくセックスができていた。新宿の鏡張りの安いラブホテルでアンリを犯している俺の姿を鏡で見るたびに、なんて滑稽だろう、と思った。俺の思い描くセックスではないことは確かだった。仮にセックスがなおざりであっても、二人が愛し合う術はあったのではないか?あった。それはすべて俺次第だった。愛せなかったのではなく、人を愛する努力をしてこなかった俺が、どうしようもなく悪い。こうしていまわのきわにおいても、俺はアンリへの不義理を恥じている。恥じたところで、後悔も反省もしていない。ただただ人を愛そうとする努力をしなかった自分が恨めしくて、人間としてだらしなかった、ただそれだけのことだ。アンリは別れ際に「愛してる」と言った。俺は何も言えなかった。最初から愛してなんかいなかった、というむごい言葉を口にする勇気がなかった。セックスの最中は無限に言えたのに、最後は言えなかった。『風の歌を聴け』かよ、と思った。だから、宙ぶらりんのままだ。俺の方で勝手にケリがついている。もうその後、膨大な時間が流れた。浜松町から歩いて埠頭まで行って、ベンチから眺めた軍艦色の空とパタパタと落ちる雨、真っ黒い東京湾を眺めながら身を寄せ合ったとき、アンリは何を考えていたのだろう。何も分からなかった。少なくとも素朴に美しい瞬間ではなかった。隣にいる人が愛する人ではなかったから。初めての人が殺したくも幸せになってほしくもないというのは、それだけで純粋に不幸である。
最後の女の名前はミタライと言う。俺は彼女のことをルイという下の名前で呼ぶことは一度としてなく、ミタライさんと呼んでいた。俺は服に興味がなかったが、服の好きな友人がいたというのもあるし、母親が買ってきた服をいい年こいて着ていても不自然ではない程度には「人並みのファッション」だった。大学を出て俺は無職となり、別に当分バイト暮らしでもいいなと思って服好きの友人の伝手で古着屋を紹介してもらった。同い年の正規雇用の人がミタライさんだった。俺の知っている服のブランドなんかたかが知れているが、彼女は全身ヴィヴィアン・ウエストウッド、耳には安全ピンのピアスという、それはいくらなんでもパンクスの中でもオールドスタイルに過ぎるんじゃないのかという疑問は抱いた。ファーストインプレッションをもはや一週間の時間感覚さえ希薄な俺がここまで覚えているのは、恐らく、彼女を愛することができたからだ。だから今の俺は、「こんなはずじゃなかった」のだ。じゃあ、「こんなはずじゃなかった」のであれば、どうなっていたと思う?という考えは当然浮かぶ。浮かんで然るべきだ。これは留保せずに、絶対今と同じことになっていたのだ。
アンリに対する不能が、ミタライさんで挫折して成就する。その間にいくばくかの女たち。顔のない女たち。その過程は、ドブまみれでやけくそでもなく泣きじゃくって震えながら「降参です」と言って崖から飛び降りる過程。愛が俺に教えてくれたことは、その過程である。不思議と幸せな記憶というものは呼び起こされないものだ。「人生の過失は人生の過失であるのに、人々はそれを愛の責任にする」というアンドレ・ブルトンの言葉の前で、俺はなすすべもない。ミタライさんと過ごした美しかったはずの記憶も、この部屋も、ミタライさんも、俺も、いつかはなくなる。それでも、俺の目の前のミタライさん、白目を剥いてかよわい力で首にかかった俺の指を愛おしそうに撫でながら剥がそうとしたミタライさんは、俺が死ぬ次のバイブレーションまでは生き続ける。俺が生き続けるのはミタライさんへの罰であり償いだが、俺はそんなことはしていない。贖うとしたらこの生きること全てである。太宰が女と心中するほどの性的倒錯は俺にはないし、しかし俺がただ一人殺すとしたらミタライさんしかいないのである。しかしその場合、俺も死ななければならない。
愛することと生きることは天秤にかからない。
もう時間がない。そのときが来ている。
「恋はゲームじゃなく 生きることね」と歌う歌がある。ミタライさんが好きな歌だった。「俺は一人でもう死にたい まだ死んでいないのなら その理由はお前が知っている」と歌う歌がある。これもミタライさんが好きな歌だった。昔の人が書いた歌の歌詞というのは本当に説得力があるなあなどという完全に馬鹿丸出しの感想が出てしまうが、今椅子にぐったりともたれかかって、俺の(?)家の照明の光だけがミタライさんの姿をライトアップしている様を見ると、意味がよく分かる、ような気がするけれども部分的には違うよなあ、と思う。俺は人生はゲームだと思っている。しかし、愛することはそうではない。だから恋はゲームではない。だからといって恋と生きることは結び付かない。ゲームでも人生でもない、「言葉より大事なこと」という「あっち側」がある。愛していると言われているのに俺が愛せなかったアンリのこと。セックスの最中も、普段も絶対に言わなくて、俺が気道を押しつぶして「頼むから愛していると言ってくれ」と情けなく俺が懇願して、軽蔑した目で、かすれた声で愛しているよと言って息絶えた、世界で一番愛しているミタライさんのこと。殺人を犯した俺と犯さなかった俺、「あっち」と「こっち」では正しさの尺度が違う。確かに俺は人生を間違えてしまったかもしれない。人を殺さずに罪を一つ一つ、河原の石ころを数えるように数える生き方もあるのかもしれない。だがゲームは祝祭であるべきだし、というか俺が間違いなく耐えられない。知らない知らない知らない。知ったことではない。ミッションを与えられた通りにクリアすればいいゲームでミッションをクリアできなかったのだ。そして俺にとって恋愛とはバグだ。だから「俺が死ぬ理由はお前が知っている」という形で、あとの人たちに俺の死ぬ理由とやらを知ってもらえばいい。心中などという陳腐な考え方をしてほしくなさは、まあ、ある。このノートを見たオオムラには分かってほしいが。なあ、オオムラ、俺の死んだ理由って、何かなあ?俺分かんないよ。お前、欲を言えばもう一人ぐらいに分かってもらえればいいんだけど。
さて、バイブレーションが鳴らない。いざ死ぬとなると怖いから時計は見ない。もう本当によく分かんなくなっているので、永遠に鳴らない気がする。そういえばノートの名前を決めていない。大学時代から無職の今までつけていたノートだ。本当は日雇いライター時代のネタ集めのつもりだったのだが、アンリと出会ってから思ったことをいっぱいいっぱい書くことが習慣になっていた。俺は森鷗外の『ヰタ・セクスアリス』の最後に主人公がノートにラテン語で「VITA SEXUALIS」と書きなぐって終わるラストが好きで憧れていた。しかし大卒無職がラテン語を使うのもなんだか嫌味だし、どうせなら漢字がよい。特に意図はないが、「壊走哀歌」と名付けよう。壊れてしまったアクセルとブレーキで走る機械へのエレジー、あまりにも惨めなエレジーを、ここに残しておこう。これを書き終わったら汚い字でまっさらなのに使い込んだノートの表紙にこの四文字を刻む。
ブーッと二度目のバイブレーションが唸った。俺はここまでらしい。バスタブの温度は丁度よいだろう。手元に睡眠薬は正確に四パック。すべて完璧だ。
ああ、生きていて本当に良かった!
Main Chapter.
ムラカミが死んでから一年が経とうとしていた。
流行り病の根絶を諦め、「後遺症のあるインフルエンザ」のような形が確立されて予防接種が行きわたるようになったのが今の二〇二五年。東京オリンピックはお流れになったし、「オリンピックそのものを否定する気はないが、間違った形の祝祭だ」と人の金で酒を飲んで言っていたムラカミは流行り病の予防接種が確立される前の二〇二四年四月一日に死亡していたらしい。「らしい」というのは、季節柄寒い時期で、電気代を同棲していたために吝嗇していたムラカミのおかげというべきか、絞殺されていたミタライさんは死体が比較的綺麗な状態で発見された。とはいえ発見は五月の半ばであって、髪の毛が抜けていたり死斑で肌の色はほぼ全身変わってしまっていたりした。肉がついている部分は腐敗が進んでいたものの、死斑の状態から逆算して四月の頭に残されているムラカミのノートから判断してムラカミに絞殺されたというのが割と簡単に特定された。
問題はムラカミだった。わざと血を多く出すような手首の切り方で本人が予想していたよりも出血は激しかったと見え、さらにムラカミ本人が意識を麻痺させるために飲んでいたのは睡眠薬ではなく向精神薬だったため既定の血中濃度を著しく超えてしまい、薬に無知でありながら無謀だったムラカミは「オーバードーズ」というよりも「中毒」になってしまい発見された際は血で水が赤く染まっていることもさることながら、吐瀉物や糞便、さらには湿気と水分を死体が吸ってバスタブには「服とかつて人間だったような何か」が浮いていたとは警察の弁である。ムラカミが「壊走哀歌」と題したボロボロのノートを読んでいくと、ムラカミは人間が好きすぎた。と同時に、ムラカミ自身がムラカミのことを誰よりも愛せなかったことも、このノートから分かることだ。ムラカミはおれの一個下だが、孔子で言えば而立も超えていない歳である。未来は長く続く。ムラカミの口癖だったが、長く続かなかったじゃん、バカじゃんお前、と思う。結局、ムラカミの死体(のようなもの)から死亡の詳細な日時は割り出せず、ノートの最後の文章だけ日付がないことから、ミタライさんを殺してから自死したと考えるのが科学的ではないが妥当、というところだった。死体が水を吸って膨れ上がることを土左衛門と言うが、激しい精神薬の中毒で上からも下からも水分が出て脱水・ショック・大量出血のいずれかで体内のあらゆるものを出し切った後で普通の入水自殺には見られないような形で死亡していた(死体を病院に運んで検死する際、「ムラカミ」はバケツで溶けた部分を回収されていたと聞いて少し面白いなと思った)。二〇二五年四月一日、流行り病の解決法をえらい人が出した年。ムラカミが死んでちょうど一年(ということになっている)の日。はっきりとおれたちにムラカミの訃報が行きわたったのは、死んでから二か月を要した。二か月前に友人が死んだという事実は不愉快ではあるが現実味もなかった。
今日はバイト先でミタライさんとムラカミを出会わせた、悪意ある言い方をすれば「仲人」であるモリヤマと、大学時代に贔屓していた居酒屋に集まった。集まったと言っても、おれとモリヤマだけだが。彼女との同棲で電気代を吝嗇するムラカミは吝嗇家なのではない。人間性にかなり問題があるだけだ。おれは本物の吝嗇家なので、缶で酒を買うならビールではなく発泡酒だし、しかもプライベートブランドのやつしか買わない。居酒屋にも入りたくない。歩きながら買って飲めばよい。しかしこの店は月曜日ならプレミアムモルツが五十円で飲める。滅多に飲めない生ビールは五十円という破格の値段抜きにしても最高にうまい。
いや、今日は酒を飲みに来ているのではなかったのだった。
ムラカミの一周忌をどう弔うかである。
生中二つと適当なつまみを注文し、おれはハイライトメンソール、モリヤマはクールの八ミリを一本取り出し、同じタイミングで火をつける。人生はなんでやっているのかが分からなくなってからが本番みたいなことを言う人がいるが、煙草も酒もなんで吸って飲んでるのか分からなくなってからが本番、というかそもそも嗜好品に理由をつけている奴は頭が悪い。死ぬまで吸うし死ぬまで飲む、ただそれだけのことだ。パチスロ屋で働いていたとき、ショートピースを四箱空にするまで海物語に座っているジジイがいた。ハンドルに十円を挟んで呆然とショートピースを吸っているだけである。当然不正行為だが、地元の小さい老人ホームのようなパチスロ屋で家から出て煙草を吸いたい老人をわざわざ咎めるのは良心の呵責がある。当然ジジイは暇なので、カード管理で出玉を交換して一回左打ちをやめると店員を呼び出して缶コーヒーを注文し、おれなどはなぜか小さいコーラを奢られたりしていた。ある日、ショートピースではなくなってメビウスの一ミリを吸って呆然としていた。缶コーヒーを頼まれ、持っていくときに「ショッピ、やめたんですか」と聞いたら「喉から血が出ちゃってねえ。一ミリって健康に良いでしょ。今日はクギが渋いねえ。コーラ持っていきな」と言われた。もうここまで来ると喫煙者は馬鹿というか痴呆か何かだろう。その論理だと俺もモリヤマも、そしてムラカミも痴呆ということになるのだが。じりじりと灰になるハイライトメンソールの煙を吸いながら、もう一本をお互い吸い終えそうなのに、まだ現地集合してから一言も喋っていない。
「うーん」と何か考えている風に唸ってみる。とりあえず声を出すと何かが言えるかもしれない。
「どうした」とモリヤマ。
「おれらって、ムラカミが死んで一年経つけど、悲しいのかな。最後に会ったの随分前だし」
「悲しいで済ませていいわけねえんだけどな」
「おれはムラカミに過去で酒を飲むなって言われたから死んだムラカミを肴に酒は飲まんよ。涙も出ないし。問題は、やつの命日に何するかってことだよ。酒飲んで歌って、は駄目だと思うんだよ」
死人に口なしとは大抵悪いケースで用いられるが、死んだムラカミに悪意を向けてもしょうがないし、逆に「あいつ良い奴だったよな」と言って肩組んで泣くのは、気持ち悪い。気持ち悪いというか、キモい。別におれらがムラカミを貶そうが持ち上げようが、向こうのムラカミには関係のないことだろう。問題はおれたちのけじめのつけ方だ。
「まあ、墓前参りとミタライさんのところにあいさつとかが妥当じゃないかな。すすきのまで行くのはかなり面倒だけど」「墓荒らすの?」「骨も溶けてるとは聞いた」「おえー。まじか。まあ北海道旅行毎年するたびに簡単な供え物する感じでいいだろ。毎年四月一日の前後は空けとけよ」
簡単な話だった。沈黙は重さとは関係ないただの引っかかりだった。お互いにもし自分だけ悲しんでいなかったらどうしようという杞憂だった。友人の死に際して悲しむことができない人間と一緒に適当こいてたムラカミが一番悪い。別に俺が逆の立場で悲しまれても困る。あと、供え物に困らないのはかなり助かった。煙草と酒を持っていけばいい。
そんなわけで、最初の一周忌だった。供え物のバッグにはジタンのカートンとブラックニッカの小瓶。ムラカミは丁寧な酒の飲み方は知っていたが、バカ舌を自認するぐらいのおれでさえ分かるような飯や酒の味が分からなかった。一緒に高いバーに行ったときの注文の手練れぶりには驚いたが、「分かってるふりをしているだけ」で「違いは全然分からない」らしい。ジタンは味の濃い煙草で、これもバカでも分かる香りの強い煙草だが、「吸ってるうちにラッキーストライクとの違いが分からなくなってきた」などと言っていた。じゃあラッキーストライクを吸えばいいだろうが。二十五が没年であるのでもうその二年前は「晩年」ということになるのだろうが、その時点ではバージニアを吸っていた(メンソールが主張しないのがいいとかなんとか)。二〇二五年三月三十一日朝、羽田空港から新千歳空港まで二時間かからんぞと出発の際モリヤマに言ったのだが、離陸後三十分で爆睡、着陸のアナウンスで起こそうとしたら口を開けたまま「んぉぁ」などと発していた。もうおれ以外全員馬鹿。馬鹿たれどもが。
タラップで降りていくと、まずは雪景色が見え、続いて冷たい寒さが頬を刺した。決して嫌な寒さではない。去年の四月、つまりムラカミがミタライさんを殺し、ムラカミが自死した(恐らく一緒に死んだと思われることをムラカミは嫌うだろう)とき、列島全体が異常な暖冬だったのに加え気温の大きい変動で、特に北海道の桜は五月に咲くはずなのに四月にはほぼ満開になっていた。
あの雪桜がムラカミにはどう映っただろう。
おれと面識のないアンリが脳裏をかすめただろうか。
あるいは女ではない何かか。
分からない。ムラカミにしか分からないことがある。それは、分からないままでいいのだ。その「分からなさ」は、友達とは引ける一線であっても、恋人には引けない一線でもある。「分かってほしい」と。「受け入れてくれ」と。「縋らせてくれ」と。「分からないものは分からないよ」という表明がムラカミにとっていたたまれないものとなってしまい、ムラカミは恋人のことを分かる気がない。だからそうはならない。つくづく馬鹿だよなあ、と思う。これはおれやモリヤマにはない。「女嫌いの女好き」とはよく言ったものだ。おれたちは女より自分のことの方が好きだし、ムラカミは自分が嫌いで他人が好き、な自分が好き。誇大妄想癖のあったムラカミのナルシストぶりはナルシストなりに歪んでいて、ナルシストが必ずしも自分を愛しているのかどうかはナルシストの全てではない。ムラカミは卑屈だった。自分に欠落する何かを取り戻すために恋愛をするような、ひどい恋愛だった。まあ、おれもモリヤマも全くそんなことを言えるほど人に感情を向けることができないのだが。
新千歳空港に着いて、計画を立てる。
「空港からバス出てるし、宿もすすきのだから一日目はミタライさんのところの古着屋行って……西の……まあいいや。そんで飲み食いする。二日目は電車で札幌行って墓参りする。ムラカミは勘当されてるからまあないとは思うが、親族がいるかどうか確認して、そんで墓の前で飲む。札幌で寿司食ってすすきのに戻って遊ぶ。三日目は帰る。よろしいか?」
「文句なし」
死者を弔うということの実感はない。人を殺して死ぬ間際に、ムラカミは雪桜を見たのかどうかだけが、おれの気にかかっていることである。
「人生における救いとは何か、みたいな陳腐な問いがあるだろ。あれ俺おかしいと思うよ。救いって、まあ、要するにカタルシスだと思うんだけど、カタルシスって点じゃん。でも人生は面なんだよ。線じゃなくて。救済みたいなことを望んでる時点で、生き方を間違えてるんだよな」
ムラカミは酒に酔うといつも人生だの生き方だのの話をした。ムラカミは粗暴だった割に酔うとデリケートな話をした。しかもワインやウイスキーを飲んで、斜に構えて人生訓を垂れるならまあナルシーな感じではあるが格好はつくのに対して、ムラカミは小岩の居酒屋でジタンの臭い煙をぷかぷかさせ、芋焼酎のお湯割りをズズズッっと汚い音を立てて人生を語り、時折ゲップをかました。やってられねえとはおれも思うが、類は友を呼ぶという話が本当であるのなら、俺もムラカミにとってやってられねえと思われる人種なのかもしれない。ジタンと芋焼酎という馬鹿が考えるダメ人間セットみたいな組み合わせでも、ムラカミにとっては「温かい酒」か「冷たい酒」の区別しかないらしく、要するに味が分かっていなかった、らしい。
「そもそも救済を人間に求めてる時点でおかしいんだよ。黙示録のラッパを聴くやつ、聴こえないやつっていう二分は必ずあるわけだから。いや、別にキリスト教徒って訳じゃないんだけどな。というか無宗教だけどな。救われる方法が愛しかないっていうのは言葉の外の意味を大切にしているように見えて実は詭弁なんだが、どうやらそう信じたい人間もいるらしい。阿呆だとまでは言わないが、コケたときのダメージがすごく大きいと思う。コケても痛みを感じずにまた愛で救われようとするのは、それは阿呆というか馬鹿だな」
そうだな。お前の言う通りお前は阿呆にもなれん馬鹿だな。
すすきののルートイン、モリヤマとツインの部屋で窓の外の雪景色を眺めながらホテルに備え付けのコーヒーを飲む、手元には「壊走哀歌」の「二〇二二年十一月一日 午後五時二十五分」の頁が開かれていた。三十を前に老いた母親一人を残して東京から北海道に恋人と一緒に飛んで行ったムラカミ、すなわち北海道で殺人、自死したムラカミの発見らしい発見はミタライさんの死体と芋づるで判明した。女性の家にスープと化した人間のようなものがユニットバスに浮かんでいたら、そしてこのノートがあったら、という形で検死不可能である以上状況や筆跡から判断してムラカミだということにして警察も匙を投げたのである。かろうじて男性であることは分かった程度のものだ。だから実際のところ、ミタライさんの死亡日時とムラカミの死亡日時が適合しているかは分からない。ムラカミの厳密な死亡日時は分からないのだ。便宜的に一日は切りもいいので、というだけである。
ムラカミは酷い悪筆だったことを、俺は知っているし、死ぬ一年前の二十四のとき一緒に東京で酒を飲んだときは「いやあ、なんかね、薬だか煙草だか酒だか頭がおかしいんだかどれか分かんないというか全部心当たりはあるんだけど、手の震えが止まらんのよ」などと言いながら震えているというより激しく振動する手で煙草を口元に持っていっては取り落として「あつ!あつ!」などと叫んでいた。十九でムラカミと知り合ったとき、つまりアンリと付き合う前だが、その当時はそういうのはなかった。チック症が後天的に発症することはまれなので、頭がおかしいやつが薬と煙草と酒をやったら当然そうなるだろう。何も不思議なことはない。このノートは「二〇一九年」と「二〇二二年」の「ある一日」についての膨大な量の記述と、死の寸前に書かれたと思われる「日付なし」がある。そこまで手の震えがひどくない「二〇二二年」までででさえ、あまり綺麗な字とはとても言えないのだが、ムラカミは字の幅が統一されていない上アルファベットの筆記体のように日本語の文字を繋げて書く癖が晩年の手の震えと共に悪化して、最終的にロシア語の筆記体の出来損ないみたいな文字になっていた。ロシア語の筆記体で悪名高い単語の一例として「魔術師」を意味する「ヴォルシェーブニク」などがあるが、キリル文字の筆記体は一定の法則で文字が繋がるので規則さえ分かれば読めるのに対しムラカミの字は単に読みづらいだけだった。
まず遺体の引き取り(引き取れるレベルの状態にあった)に来たのはミタライさんの親族だったが、ムラカミはバスタブで溶けてスープになっていたのでスープに向かって痛罵するのは構わないのだが、ムラカミのやつはノートにおれの名前を書いていたせいでおれにまでとばっちりが来た。ムラカミはプー太郎をやって土左衛門になった兄貴を超えてプーをこいた上女と北海道に行ってのんべんだらりと南五条で酒を飲んだり女を抱いたりしていたものなのでついに実家から勘当を食らい、挙句の果てには惚れた女を殺して風呂場でトマトスープになっていた訳だから普通に考えて無責任もいいところだが、こういう遺品とやらを生きている人間に呪いのように押しつけるのはやめてもらいたい。「オオムラ」のような潰れた記号からおれの名前を察知したミタライさんの親族は、おれがその「オオムラ」だと認めると電話越しに半狂乱になっていた。紆余曲折あり、「壊走哀歌」と題されたノートは果たして俺の手元にあるというわけだ。
しかし、よくもまあ、死んだ人間が生きている人間に対して遺した感情について、みんなそんなにいっぱいいっぱいになれるものだと感心するし、嫌でもある。
おれやモリヤマはいつだって自分の考える自分にしか興味がない。
ムラカミは他人を通した自分で頭がいっぱいだった。
もう遅いが、人生の救いやカタルシスが点である以上絶対的なものではないとするのは、ムラカミは自分という面に投げ込まれる点が人任せで投げ込まれていないことが救われないことだったからだ。おれたちはいつも救われている。気づくか気づかないかの問題で、幸不幸の問題と同じく、そう思うかどうかである。
「生きててよかった」という言葉はこのノートに二回出てくる。どちらにせよ、ムラカミ、お前にそんなことを言う資格はない。
「なあ、飯どうする」
「だるまでいいんじゃねえの。ミタライさんのところに義理立てしてからだな」
おれたちは何も考えず死んだ人間の関係者に挨拶した足でジンギスカンを食うことになった。臭い肉が食いたい気分だった。かつて肉だった友人の肉を食うつもりで、羊肉を食べようと思った。
東京で五十円のプレミアムモルツを数日前に飲んだからか、メニューで約十倍の値段がする生ビールを飲むのは何やら屈辱的というか、名状しがたい感情が沸き上がってきた。割引で喜んで何杯もビールを飲んで吐く方がよっぽど屈辱的だ、という人の方が多いのは、機序としては、分かる。しかし世界は分からないことの方が多い。おれなりの吝嗇や酒飲みのプライドというものがある。いや、プライドは確実にない。なんだろうか。意地?こういうことを考えるのはムラカミの得意分野なので、なんとなくむかつくのだが、生きることと死ぬことを能動的に選び取ることと、一杯目に五百円の生ビール中ジョッキと三百八十円のウーロンハイのどちらを能動的に選び取るかは似ているようだし、全く違うとも言える。似ているのは、「最初の一杯目」であることにおいてかけがえのないところだ。するべきことをひとまず終え、喉に流し込む飲み物で「どちらを積極的に選ぶか」という問題は、「最初であること」に関わる。理性的に、能動的に選択された生ビールやウーロンハイの選択は、入ったジンギスカン屋でどちらを選ぶのかどうかでさえ、当人の矜持と誇りの選択の結果である。違いとは何か。人生には「二杯目の違う選択肢」がないことである。生ビールを頼めば、途中で苦くて飲みたくなくてもやっぱりカルピスサワーで、ということができないし、ウーロンハイの焼酎が薄すぎて「濃いめにしておけばよかった」と後悔することもあるだろう。クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の冒頭のドイツの諺、「アインマル・イスト・カインマル」とは直訳すれば「一回とは一回もないこと」となる。つまり、二回目が存在すれば一回目は「なかったこと」になる。それでは、この一回の人生は、おれやモリヤマ、そしてムラカミとミタライさんの生きたことは、「なかったこと」なのだろうか。だとすれば、生ビールとウーロンハイの後のハイボールでさえも取り返しがつかないわけだが、しかし……。
「オオムラ、お前決まった?」
「ああ、うん、レモンサワーで」
結局こういうだらしない段取りで酒を飲むことになる。なんで酒を飲んでいるのかも分からない。なんで生きているのかも分からない。その場の思い付きが決定的になるかもしれないとも思わずに、反射的になんとなく安牌を切ってその場の緊張感がなんとなく緩んで、飲みたくもなかったレモンサワーを自分で自分に飲ませている。それでも酒を飲むことの「正解」、うまかったり楽しかったりを見つけ出そうとして無闇に飲みまくる。飲んで飲んで飲みまくって、最終的には「なんでこんなことに」などと思いながら茂みに食べたものを吐いて、まあそれでも「なんとなく」楽しかった(「はず」だし)のでよし!と無理矢理自分を納得させる。意地もあるが、生きることにおいてこういう思い込みによるノン・ナイーブな気持ちの持っていき方というのはとても大事だ。ムラカミにはそれができなかった。「ドブの中で死ぬ」という意地に見せかけた卑屈な自尊心のもとに、まずい一杯目のウーロンハイのジョッキをぶち割ってしまった。おれとモリヤマはそれぞれレモンサワーと生ビールを飲みながら「肉まだこねーかなー」などと阿呆丸出しの脊髄反射で会話し、ジンギスカン特有の鉄板にモリヤマが丁寧に脂を塗っていった。一応故人となった友人の一周忌で北の大地を踏んでいるはずなのだが。
しこうして肉と野菜が目の前に運ばれてきた。ジンギスカンは周りに野菜を敷き詰めて肉を焼く。この店は観光客向けなので、周りを見渡すとあんまり分かっている人が少ないように見える。こうやってやれと一応書いてはあるのだが、肉を焼いたり酒を飲んだりするに当たってあれやこれやと指図されたくないというのも分かる。我々はムラカミとミタライさん、おれとモリヤマで来た時と同じく周りに野菜を敷き詰めて肉を焼くのを見て以来そうしている。
「バンダノンスの店長見覚えなかったな。知ってる?」
「いや、知らん。元々ミタライさんは大学の同期でもないし、よく行きはするけど見るだけ見て帰っちゃう古着屋の店員がミタライさんだったってだけだから、ミタライさんの人脈は本当に分からんね。まあ、突っ返されなかったしよかったじゃん」
すすきのの一角にある小さいブティック「バンダノンス」は、パンクスファッションが中心のミタライさんらしい古着屋だった。東京の土産品を渡しながら「我々が謝るのも違いますが、ムラカミの元友人としてお邪魔致しました。周忌の際は毎年二人かどちらか一人がご挨拶しに来るので、その折はよろしくお願いします」とモリヤマが言うと、二代目店長は「ありがとうございます」とだけ言って受け取った。
「あれって突っ返されてないって言えるか?」
「受け入れてはくれなかったけどな。目の前で受け取ってくれたらいいんだよ、ああいうのは。廃棄処分されても渡すのが大事なんだよ」
「東京ばなななんて通販でも買えるらしいしな。なんでもいいのか」
しかし、ムラカミが通るわけがないと思ってミタライさんに提案したブティックの名前「バンダノンス」は、喜劇的なまでに彼ら彼女ら二人にとって滑稽だ。バンダノンスは、フランス語で「予告編」を意味する単語で、アルファベで綴ればbande-annonceとなる。ムラカミは「服ってやっぱり自分が着ないと意味ないじゃない?店頭に並んでる状態の服とか試着っていうのは言っちゃえば自分がその服を着ることによって新しい人生の「本編」にたいする「予告編」なわけよ。練習だよね。だから、俺が履修してたフランス語の「予告編」で、バンダノンス。どう?いや、ぶっちゃけ今の全部適当なんだけど」と言っていた。人生を居酒屋で最初に頼む一杯で迷うことに例えるのと同じように、ムラカミは親の買ってきたユニクロのセックス・ピストルズの似非バンドTシャツを着てのたまっていた。正直何の説得力もなかったので多分本当に適当をこいただけだったのだろうが、こうなってしまった今、「バンダノンス」でさえもフィルムが焼き切れリールが故障して、彼らは「上映不可能」になってしまった。せめて予告編ぐらいは完成させろよ、と思う。本編がどういう内容なのかも、ずっと分からないまま。
「羊肉の臭いってさ、なんかムラムラするよな」
「はあ?」
「セックスする前に焼肉食うとかいうのあるだろ。羊肉食ったらどうなるんだろうな」
「オレら、相手もいないのにオナニーでめちゃめちゃ量出してどうするんだよ」
「エロ漫画読んでて、『いっぱい射精(で)たね』みたいな台詞なのにショボショボの量のとき、めっちゃつらくない?あと健康の証だし」
「じゃあまあ、いっぱい食えばいいんじゃないかな……」
性欲は肉欲とも言われる。ルーベンスの絵がときとして卑猥に見えるのは、ルーベンスの描く裸婦が巨大な肉塊に見えるからだと思う。ボードレールもルーベンスの女のことを「肉の枕」と呼んでいる。だから(だからなのか?)肉、しかも牛や羊といった臭い肉を焼いてタレをつけて喰らうという行為自体が、まぐわいのようでもあり、自らの歯や手で生き物を殺すようでもある。セックスも肉も臭い方がよい。自分だけはシャワーを浴びたいが。
ジンギスカン二人前、生ビールとその他のチューハイ合わせて十二杯(モリヤマはそんなに飲んでいない)、シメにスープなどを頼み、会計は七千円程度だった。割高ではなかった。べろべろではないが適度に酩酊していた。部屋に戻ってモリヤマとペイチャンネルを見て爆笑し、更に缶ビールを一本空けて、眠った。
すすきのから霊園のある札幌へ向かう南北線の中で、モリヤマは思いついたように言った。
「殺人者の墓って、どうなるんだろうな。名前とか墓石に彫られるのはやっぱりタブーなのかな」
「さあ、分からん。ミタライさんとムラカミって結婚してないし、あいつは勘当食らってるから、戒名も墓碑銘もないかもな。ミタライさんの墓の場所は分かるから、その辺を見ればあるだろ」
先ほどから全くもって無責任な我々だが、知らないものは知らない。というか、骨でさえもが血や糞便、その他の体液、放置された水の中で腐食が進んでいれば火葬で骨を焼けもしないわけで、となると遺体と呼べない遺体を流し込むとしたら土葬ぐらいしかない。日本の仏教での葬式で土葬の文化はないが、北海道は奈良などと並んで土葬が可能な地域の一つである(北海道はよく知らないが、奈良は宗教上の理由で可能とか、そういうのはあったと思う)。こう考えてみると、死ぬということは死ぬ前、死ぬ瞬間しか当事者においてはなかったとしても、死んだ後の落とし前は誰かがつけないといけない訳で、おちおち死ぬこともできないなと思う。まあ、そんなに簡単な話でもないような気がするのだが。死んでからも宗教の面倒な手続きを、ある意味死んだ人間もツケを払わされている。土に埋まるということは土の中のバクテリアで分解されて五十年後や百年後には跡形もなくなっていることに価値がある。火で肉を焼かれて残った太い骨や砕けた骨を遺族が拾い集めて骨壺に入れ、保管しておいて死者の証が残ることにも意味がある。死んだ後に意味だの価値だのが見いだされるのであれば、生きていることにあらかじめ意味だの価値だのがあることと等価であると断言できるだろうか?できない。絶対に。というか生きていることは既に無意味であって、臆見や思いこみによって事後的に人生をヴァリュアブルとするか否かの話である。
幸福についても同様でありうる。
おれら三人は大学生時代、よく大学近くの喫茶店で煙草を吸ってコーヒーを飲みながらスノッブを気取って高尚に見える話をして、実際のところ大した議論はできていないという文学部の人間のステレオタイプのようなことをすることがよくあった。その中でも、というか今でもおれとモリヤマの中で話題に上がることは「幸福であること」だ。ムラカミは幸福になろうとした。状態として「であること」を求めて、しかしそれは常に失敗していて(これはムラカミに幸せになる資格があらかじめなかったということでもある。残酷な話だが)、おれはムラカミは最期は悲惨ではあったが客観的に見れば幸せな男だったと思う。ただ、幸せは二次関数によって表すことができない。第一象限のみにおいて(xとyが常に正であるとは限らない)幸福のグラフを描くことができるのならば「死を受け入れる」という耐え難い事態について多くの哲学者たちがカンカンガクガクしないのである。
ムラカミは幸福を生きることにおける正しい方面のうねりとして捉えていた。正しい方面にうねることがあれば悪い方面にうねることもある。だから、人生は全体において幸福ではない。幸福な「瞬間」があるときはある。ムラカミはキリシタンではなかったが、「黙示録のラッパ」で救済されることを望むこと自体がおかしい、というあいつの発言は、別に間違ってはいない。がっつり浄土真宗の霊園に葬られているのだから結局仏教としてなあなあに葬られているので、あいつは特に宗教にこだわりはなかったのだろう。ただムラカミは勝手に自分の人生を生きづらくしただけだが、そんなことをもってしてあいつの人生が間違っていて不幸だったとは思わない、むしろ生き延びてしまったおれやモリヤマ、「バンダノンス」の店員の方がよっぽど業を背負ってしまっているような気さえする。贖える罪を可能な限り数え上げても、ムラカミとおれを比較してムラカミの方が罪が多いとかいう話ではない。ただ、ムラカミには贖罪ができなかった。生きることがあらかじめ罰であり、それを赦してもらう(誰に?他者に。)行程がこの流れていく時間だとすれば、ムラカミは赦されようともしなかったのだ。
霊園が近づく。雪が止んで晴れていて、青い空が高い。北海道はヨーロッパ人観光客からはウケが悪いと聞く。空の高さ、建物の低さ、気温、だいたい代わり映えがしないからだそうだ。とはいえモリヤマは名古屋、おれは東京出身だし、ムラカミは幼少期は大分で過ごし小学校から東京に来たという次第で、高い空に澄んだ空気を吸い込むだけで煙草で真っ黒になっている肺が浄化されていくような気がする。気がするだけでそんなことがあるわけないのだが。
「モリヤマ、缶コーラ好きだったっけ」
「いや、供え物とオレの分。一回あいつと連絡取らなかったとき掴みかかられてさ。泣きながら怒られたんだけど、コーラ二本あげたんだよね。あいつコーラ好きだったし」
「おれは自分が飲む用で買おうかな」
札幌は中央区こそすすきのがあったりして栄えているが、郊外、しかも霊園のだだっ広いスペースを確保できるとなると相当離れたところになる。おれもモリヤマも免許を持っていなかったから、肌寒くて雪が積もりに積もった四月の北海道の道を三十分以上かけて歩いた。北海道に限らないが車を持っていないと交通手段がない田舎だと、道路がだだっぴろい。寒いにも関わらず、よく自販機で冷えた缶コーラのプルトップを開け、ごくごくと飲んだ。煙草に歩きながら火をつけて、吸っては飲み、を繰り返した。
おれはなんとなくムラカミと出会った十九の頃を思い出した。
おれは彫刻家になりたかった。ミケランジェロやロダン、ベルニーニの彫刻の写真を見ては、いずれこんな偉大な作品を作れるようになりたいと思った。高村光太郎はいかつすぎる。まるで四角い石からそのまま出てきたようで、美しい肌の質感や筋肉の流れを生命力に満ちた形で立体化できる彼らの才能が、おれにもあると思っていた。しかし、美術のアカデミアでおれは評価されなかった。ゴッホが油絵の教育を受けたからあんなに素晴らしい絵が描けたとでも?ダ・ヴィンチはそうだったのか?全く違うだろう。でも、やはりアカデミアで自分の才能を認めてほしかった。後世で評価されたかった。リヴィング・レジェンド。おれはウィーンの美大に落ちた「水彩画家もどき」ヒットラーのように、「敗者」のレッテルを貼られた「彫刻家もどき」になった。ヒットラーもおれも「敗者」と決めつけているのは自分であるところが、また滑稽でもある。浪人して四年制の総合大学の文学部に入ったおれは、今度は泥臭くてアウトローな文学青年崩れを気取って日雇いや人足で小遣いを稼ぐようになった。缶コーラは、電気工事の日雇いの夜勤が終わってから、トラックで最寄りから若干離れたところで降ろしてもらうとき、その日の給料を崩すために毎回買っていた。朝五時、荒川の土手に座ってクタクタになったハイライトメンソールのパックから一本取り出して火をつけて香りのいい煙を肺いっぱいに入れ、吐き出す。朝焼けがくすんで見えるのが煙草の煙なのか、朝靄なのかは分からない。けぶる光線を一身に浴びて、缶コーラを一気に喉を鳴らして飲み干し、でかいゲップを一発。もう一本吸う。帰りに二十四時間営業の牛丼屋で特盛りを平らげ、帰る。
小さいサイズの缶コーラとメンソールの煙草の味は、おれを六年前に引き戻す。ベルクソンやプルーストを引かなくとも、過去へと遡行する現象は自明なのだ。
「俺が彫刻のモデルになるとしたら何かなあ。ジャコメッティみたいになりそうだな。ミタライさんにもっと食えっていっぱい言われてるんだけど食えないんだよね。風が吹いたら飛びそうとか、地元の友達とチャリ二ケツしてたら前乗せた女より軽いとか言われるし、でももうジャコメッティじゃ飯を食ってないというより全身の血が抜けたみたいだな。俺の胸像とかウケるな」
へらへら笑って煙草を吸いながら無理を言ってきた数年前のムラカミを思い出す。あのときはエコーを吸っていた。「高校時代の小遣いの中だと安くて早く吸えるから」らしい。
過去に生かされることは仕方のないことだ。
しかし人間は過去に生きることはあってはならない。
「バンダノンス」の店員から聞いていた霊園に着いた。葬られ方は火葬や土葬、さすがに日本ではあまり聞くことはないが鳥葬など。ここは火葬、つまり骨が残っていて骨壺が墓の中にある、しっかり墓碑銘が刻まれている墓のエリアと様々な事情で墓碑銘が刻まれていなかったり刻まれていたりする土葬の墓のエリアと二つに区切られている。よくもまあこんな思い切った霊園を多少郊外とはいえ札幌に作ったものだ。釧路とかあの辺であれば納得はしないでもないが、しかしそうなるとお参りするにもできないのだろう。土葬の墓のエリアはそんなに広いわけではなかった。火葬のきちんとした墓、即ちミタライさんの墓の方はこの四月一日が親族の命日であろうという人たちがぱらぱらといて、ミタライさんの親族がどんな顔かもおれとモリヤマは知らないし、面倒なことになったら面倒なので、とりあえずムラカミの墓の前で一つ景気よく酒盛りといこうという次第になった。当然と言うのはおかしいが勘当息子の墓参りをするほどムラカミのご親族も暇ではないのだろう。我々ぐらいしか弔ってやれる友人もムラカミにはいなかった。ならば盛大に死者を侮辱してやろうという魂胆だった。
しかしここで問題が発生する。
名前の書いていない墓が四つであとの二十個ぐらいの墓は墓碑銘が刻まれている。そして名前がある方の二十のうちにムラカミの姓はなかった。これではどれが本物のムラカミの墓か分からない。
「いや、知らん人の墓の前で酒盛りするのはまずくないか」
「逆にそれもありなんじゃないかな」
「何の逆だよ」
おれとモリヤマはしばし考えを巡らせ、適切にムラカミの墓を当てるにはどうすればいいかと策を練った。墓荒らしはスピリチュアルなものを信じていないおれでもそれは人間の尊厳に関わることだと思うし、万が一ビンゴでムラカミの腐乱死体を掘り当てても今度は我々に堪える。と、思っていると、モリヤマが「あっ」と声を出した。
「この墓だけ焼香がないわ。オレら以外に来てないとしたらこれがムラカミだろ」
他の墓を見てみると確かに焼香を炊いたあとがある。言われてみれば当たり前なのだが、木を見て森を見ず森を見て木を見ず、という視野の狭さはモリヤマにはなかった。もう亡くなった人間を含めると、この三人の中で一番頭が冴えていて自分の考えを持っていたのはモリヤマである。ムラカミは喜ばれるとか悲しませるとかという、「誰か」のもとに生きていたから「女を殺して自分も死ぬ」という他人任せの自分勝手が可能だった。モリヤマはそれをしないロジックを自分の中で持っていた。「パクられるからしない」とか「殺すのが怖い」というファジーでゆるい感覚で人を殺さないのではなく、自分の中の信念と道徳で人を殺さなかった。だから、モリヤマは倫理が反転すれば「人を殺してよい」という判断が可能になる。もちろんというか、おれは非常にファジーなので「殺すと怖いから殺さない」とか、そういうものだ。何が怖いのかは分からない。死体を前にするからとか、パクられるからとか、親が悲しむからとか、そういうのがなんとなく混ざってるだけである。じゃあ、自分が死ぬのはどうなのかと聞かれると、なんとも言えないが。
「じゃあ、焼香上げて、一杯行こうや」
「おう」
四月ド頭の北海道の冷たくて高い青空に、二本の煙の筋が上って、消えていった。煙草は紙と葉が燃えているので臭いに決まっているのだが、焼香の香りも久々に嗅ぐとつんと来るものがある。青空に消えた煙はムラカミだったのだろうか。違うかもしれない。俺はこれがムラカミを本当に弔っていることになっているのだろうか、となんとなく不安になる。なんだか間違っている気もする。俺は持ってきた供え物の中からブラックニッカの小瓶を取り出して栓を開けた。
「お前、何してんだよ」
「いいから見てろ」
名もなき墓に埋まったムラカミに飲ませるつもりで、普通の大きい墓ではなくて自分の身長より三十センチほど低い墓に頭から安ウイスキーを注いだ。墓石は琥珀色に塗れて酒の滴はムラカミの眠る土に染み込んでいった。わざと少しだけ残して、「ほい」と小瓶をモリヤマに手渡した。
「正気か?」
「おれの分は残しといてくれ。酒盛りとはいえたかだか発泡酒とチューハイをなんとなく飲むのはムラカミにとってよくない。ムラカミの記念日みたいなもんなんだから、きつくて安い酒を回し飲みするんだよ」
分かったよ、と言いながらモリヤマは少しだけウイスキーを飲んだ。かーっと言って、口直しに先ほど買ってまだ開けていなかった缶コーラを飲んだ。おれもウイスキーで喉が焼けた。おれは口直しに発泡酒を開けて飲んだ。全然口直しにならない。まずい。酒でびちゃびちゃに塗れたつるっとした墓石を眺め、土葬エリアに人がいないことをいいことに禁煙にも関わらず煙草を吸い、まあまあ酔っぱらった。このあとはやらなければならないことがある。
モリヤマはあまり飲まないたちなのでおれほど酔っぱらってはいなかった。霊園入り口の水汲み場でおれは井戸から引き上げた水をごくごく飲みまくり、井戸の水ってやっぱりうまいな!と阿呆丸出しで絶叫、しまいには顔を洗っていた。墓を洗わなければならないのだが、あまり見ない光景に浮かれていたというのもある。弔いで浮かれるのは何事かと思うかもしれないが、なんとなく分かってきた。喪服でけじめがつかないような死に方をした人間の弔いにおいては死んだ人間の前で浮かれなければならない。浮かれるとはお祭りである。墓に酒をぶっかけてその前でまた酒を飲み、墓を洗う水を飲んで浴びる。これでよい。
いい加減モリヤマが呆れてきたので、バケツに水を汲み、借りたブラシでごしごしと墓を洗う。よく見ると下の方に泥がついていたりして、なんとなくみっともない。時間が経って安酒の臭いがぷんぷんして、これもしょうもないがまあムラカミらしいと言えばらしいのだろう。おれが勝手に酒を浴びせておいてなんだが、別に臭いままでもいいような気がしてきた。今回は一周忌だから特別に洗ってやるが。最後に、ムラカミが冗談で「俺が死んだらこれをしてくれ」と言ったことをする。ジタンのカートンから一箱だけ取り出し、さらに一本だけ取り出す。くわえて火をつけて、焼香のところに差しておく。煙草は吸わないと燃焼しないので燃え尽きるかどうかは知らないが、やってくれと言われたからやった。二周忌、三周忌とジタンが増えていく。供え物の箇所にカートンと缶コーラを置いておく。おしまい。
「ミタライさんのところ行く?」
「おれの酔っぱらってる状態でご親族に出会っちゃかなわん。それとなく探して、いなさそうだったら焼香上げて宿に戻ろう。うう、さむ。こっからまた何十分も歩いて電車乗るのかあ。ムラカミもよくこんなところ住んでたな」
「道産子にタコられるぞ」
ミタライさんの墓は火葬エリアに入ってすぐ見つかった。ミタライは漢字にすれば要するに「おてあらい」な訳で、彼女はよく「変な名字だよね」と笑っていた。墓の前に人はいなかった。ミタライ家の死没した人々の中に、「類」の文字が刻まれていた。二人で焼香を上げ、そそくさと退散した。
ムラカミはミタライさんのことをルイと呼び捨てにすることは、少なくともおれたちの前ではなかった。女に不慣れな童貞ならまだしも、アンリは下の名前で呼んでいたし、それ以前や以後も種馬とまでは言わないもののそれなりに鳴らしていたものだった。しかしミタライさんだけは名字にさん付けだった。ムラカミが気後れするものがあったのだろう。そこまで重要な問題でもないのかもしれないが。
「帰るか」
「帰ろう」
「寿司食いたいね」
「札幌は回転寿司でもうまいしな。小樽とかはぼったくられるらしいぞ」
その日我々は食間に煙草も吸わず一人五十貫をそれぞれ食べ、撃沈した。南五条で遊ぶ余裕はなく、酒で吐くよりも食べ過ぎで吐く方がつらいと思った。
ホテルに着き、モリヤマは苦しい、苦しい、調子に乗って大トロ二皿も頼むんじゃなかった、などとベッドでうなっていたが、すぐ静かになった。一瞬食ったものが逆流して喉に詰まったのかと心配になって横向きに寝かせたが、次の瞬間にはいびきをかいて爆睡していた。おれももう腹に酒が入る余地がないなあと思ったが、冷蔵庫を開けたら昨日買ったグレープフルーツのチューハイが一缶残っていた。まあ喉も乾いてるしちょっと飲んで捨ててしまおうとプルトップを開け、一口飲んだ。
やってしまった、と思った。酒を飲み下した途端いつもは気にならない柑橘系の苦みが不愉快に鼻に抜け、胃まで落ちた液体は消化されきっていない食べたものを猛然とかき回して口までせり上がってくる。口を押さえてトイレに駆け込むが、間に合わない。ぶっという音と共に指の隙間から吐いたものがこぼれるのが分かる。手はぬちゃぬちゃして、一層不快感を増幅させる。なんとかユニットバスにたどり着いて、トイレの中にぶちまけた。
吐いたものをよく見ると、さっきまで口に運んでいた寿司のネタが散り散りになって雑炊みたいになった米と一緒に浮かんでいた。だめ押しでもう一回吐くと、今度は酸っぱくて熱い液体が粘膜を焼いた。胃液が出てきた。なんと滑稽だろう、と思う。ふと左側を見ると、小さいバスタブとシャワーが見えた。ムラカミは、こんな感じのバスタブの中で、悶え苦しんで息絶え、おれのように鼻からだけではなく穴という穴から液体を吹き出して、最後は自分がほとんど液体のようになった。ちょうど今おれの目の前にある吐瀉物のように。それは、とても滑稽で、喜劇的ですらある。小さいバスタブでトマトスープのようになったムラカミがおれには見えない。既に弔いは終わった。明日は飛行機の時間まで、喫茶店巡りでもしようか。
人生はゲームではない。祝祭でもない。ただただ苦しい。なんでやっているのか分からない。
なんでやっているのか分からなくなってから、人生が始まる。
おれの人生が始まろうとしている。
Chapter.φ
世界の終わりのサウンドトラックに相応しい音楽とは何か。いや、そもそも世界の終わりはどのようにして訪れるのが最も美しいのか。世界のみならず、すべての終わりに「正しい」とか「誤っている」と言及することは、何かが終わることに過程が存在するという認識に基づいている。私から言わせてもらうならば、終わることに過程は存在しない。緩慢な死はあってもゆるやかな終焉は存在しない。終わるということはオペレーション・システムの誤作動によって一挙にプログラムが落ちてしまうことである。反動的でもなければ革命的でもない、たった一匙の偶然で世界は終わる。その終わる一瞬を私たちは認識できないからこそ、私たちは一瞬の手前に立ち止まる。あらかじめ語られない滅亡を手前にして、私たちはどんなサウンドトラックを選びうるだろうか?
例えば、これから私が語るような景色。その景色は、何色か。どんな音楽が聞こえてくるのか。その手の内を今からさらそう。
バタバタとどこかから飛び立つ鳥の羽音の方向に目を向けると、抜けるような青空が広がっていて、地球が丸いということをこの天球のもとに思い知らされるような気がする。鳥が止まっていたであろう場所は、荘厳なカテドラルだった。鐘の音は大聖堂以外まったく建物がないにも関わらず反響しており、壮麗な響きが今私が立っている草原の地面を伝って私に響いてくるようにも感じられる。
今、私が感じている至福を、どう言葉にすればよいだろう。至福、つまり幸福である。一瞬が永遠になり永遠が一瞬になる。その修辞は嘘八百だ。一瞬は感じる間もなく過去の点の連続となり、永遠は原理的に存在しない。時間についてあるとかないとか、そういう問いの立て方自体がおかしいのだ。しかしこの至福、鐘の音を浴びて大聖堂を前に草原に立ち尽くす私のこの「とき」は、替えが効かないものである。取り返しのつかないものである。取り返しのつかない幸福というものがあるのだとしたら、まさに法悦のさなかにいる私のよろこびそれそのものであるという確信がある。
鐘の音が止まった。と同時に、鐘の内側から色とりどりのハートの風船が飛んでいく、果てしなく飛んでいく、雲一つない高い空の青みへと、赤、黄色、緑、そして青、ハート、つまり心臓、つまり愛の象徴が、ただただ上っていく。その色味の美しさに陶然としていると、大聖堂のてっぺんから、大きいスピーカーが生えてくる。リヒャルト・シュトラウスの楽劇「ばらの騎士」の最後の三重唱が鐘の音とバトンタッチして流れ出る。ああ、もうよかったのだ。よかった。何もかも元通りになった。私は愛する女性と幸福な結末を迎えることができる。「喜劇はことが成就したそのときに幕が下りなければならない」。その箴言は正しい。愛が成就する瞬間は予感なしに突如訪れる。シュトラウスのオーケストラと女性三重唱の甘ったるい響きは、愛の成就による終末であり、希求されるべきものは何もない。それは一つの世界の終わりでもある。愛の成就の後は何も起こらない。世界が終わるのと同じように、終わった後の世界はない。「願い」や「祈り」が予感される愛を言祝ぐならば、法悦と甘美なオペラ・ブッファの幕切れは世界の終わり、即ち愛の成就を言祝ぐものだ。だから私はあえてこう言おう。「愛はひとりでに成った」、と。
ハートの風船が飛んでいくのを見ながら、私は大聖堂へと歩みを進めていく。シュトラウスの楽劇が大きなうねりを成してどこか遠くの彼岸へと飛んでいくのを感じながら、草原をかきわけていく。入り口には私の家族がいる。父、母、兄、そして子供の頃から今までの友人が拍手をして私を出迎えてくれる。門にたどり着いて、私は何を祝われているのかがはっきりとは分からない、しかし祝われるべき人間であることを私自身が既に知っている。この門の先には愛する人がいる。根拠のない確信がある。全てを擲って愛したあの人、やり直したくてもやり直せなかったあの人と、もう一度やり直せる。取り返しのつくことなんて山ほどあったんだ。私がそれに気づいていないだけで、ずっとずっと前からチャンスを与えられていたのだ。それに気づかずていたらくだった私は、なんと無礼なことをあの人にしてしまったのだろう。あの人は、私に会ったらまずなんと言うだろう?「あの言葉」を言ってくれるだろうか?ずっとずっと、私があの人に言われたくて、言われたくて、言われなかったあの言葉を、何も働きかけずに言ってくれるだろうか?久々に見る両親の顔はぼやけてよく見えない。「おめでとう」。兄は手を取って「よかったな」。友人たちは「今度はうまくやれよ」。
そうか、私は恐らく前に失敗していたのだな。だとすれば、今回が最後のチャンスだ。既に私の努力の範疇の外で、何かが賭けられている。密やかなものが、言葉にされないままに門の向こう側で私を待ちかまえている。
「久しぶり、だね」
「そうだね。俺は、ずっと、ずっとね、あなただけ……」
「もういいよ。わたしも、きみだけだから」
彼女の体を引き寄せて、弱々しく抱いた。私と十五センチの身長の差があるにも関わらず、彼女はつま先立ちになって私が抱きとめやすい姿勢にしてくれた。彼女の首筋に顔をうずめて、私はぐしゃぐしゃに泣いた。ああ、これで良かった、これで良かったんだと、私はこのどこかも分からない場所で愛がひとりでに成ったこと、成就そのものを受け止めることで胸がいっぱいになった。
無意識とは、「落とし穴」である。落とし穴にも上手い落ち方と下手な落ち方がある。私は下手だった。成就の先を見ようとした。愛の成就の先には世界の終わりと同じように何もない。宇宙の終わりではなく、世界の終わりなのだから。
「ねえ、わたしの部屋に来てくれないかな」
彼女はそう言って大聖堂の中の自分の部屋に私を案内した。雑然とはしているが質素という感じで、不潔な印象は抱かなかった。ベッドに二人並んで座った。
「わたしね、きみと結婚したいって、ずっと思ってた」
彼女はそう言いながら、机の上の簡易的な神棚を指さした。阿修羅像のように見える。顔が三つか四つある。奇妙なのは、蓮の座に座っているにも関わらず十字を切っている腕、イエス・キリストやムハンマド、ブッダなどの予言者たちの顔がくっつけられており、神々への冒涜とでも言うべきものがそこに鎮座していた。
「あれね、ラダ・ヴァハティ大神様って言うんだよ。ヴァハティ大神様のもとで、ラダ式の結婚式をきみと挙げるの。それでね、ご加護の下にきみと一緒に幸せに暮らすのが、わたしの夢。だめかな」
私は胸の中を急激にぐるぐるとかき回されたような気持ちになって、うわーっ、うわーっと叫んだ。暴れ回った。愛する人がやめてと叫んだ。本棚にはノートがぎっしり詰まっていた。一冊を取り出すと、ラダ・ヴァハティの教えによるマントラの筆記練習とヴァハティ大神の絵が一日も欠かさず日付通りに書かれていたのである。「偽神」という概念はそう珍しいものではない。愛する人は偽神に信仰を捧げていた。私は冷静さを失い、思わず部屋の外へ、門の外へ、「今のこの状況」の外へ、とにかく走った。
外は雪景色で、愛する人が待ちかまえていた。
「ねえ、キャッチボールしない?」
「ああ、いいよ」
俺と彼女は雪の中、キャッチボールをした。硬球で。グローブもないのに硬球でキャッチボールというのもなんともおかしな話である。彼女は強肩だった。そこそこの速球を鳩尾に食らって悶絶し、彼女は爆笑していた。立ち上がって後ろを振り返ると、大聖堂は放火で全焼したかのように燃えつき、骨組みから煉瓦がゴトゴトと崩れ落ちていた。
「きみってさ、本当に人のこと愛したことって、ある?」
「あるよ。あなたのことが本当に大好きだよ」
「ふうん。どうでもいいけどきみキャッチボール下手だね。食らえ!」
内角低めの速球スライダーに対してしっかりと反応し、ゆるい球を投げ返した。
「そんなこと言うけど、あなただって大概じゃないか。俺のこと、本当に好きだった?」
「うるさーい」
得てして無益極まりない会話であったことは間違いない。「愛してる」などという言葉は、本当の意味であるのならば、人生において一度しか使うことを赦されない「捧げ」の言葉だ。自分の全てを他人に捧げる覚悟の表明だ。剛速球のストレートをまたしてもお見舞いされ、私はもんどりうちながら「あなたは何が目的なの」と掠れた声で言った。
「目的なんかないよ。だってきみがここに呼んだんでしょ。どう?ことはひとりでに成るって、今でも思える?」
「分からない。分からないけど、俺だって無責任にあなたをここに呼んだんじゃない。償いたいんだよ。自分のやってしまったことを、せめてあなたに対しては償わせてほしいんだ」
「あなたが私にしたことは、償うことによって、取り返しがつくようなものなの?」
うわっ!と叫んで飛び起きる。硬いマットレスの上に私は横たわっていた。特徴的な煙草の匂いがする。ハイライトか。ここはどこだろう。少なくともいつも寝ているベッドではない。傍らに男がいた。
「どうだった」
「どうだったって、何が」
「会えたのか」
「ああ、まあ……よく覚えてないけど、そうだった気がする。でも、あんまり良くなかった」
そうか、と男は言うと、ハイライトを一本くれた。重い煙草は苦手だが、ハイライトは一時期吸っていた。牛乳との相性がいいとか、なんとか。火をつけて深呼吸し、煙を深く吸い込んで吐き出す。心なしか落ち着く。
「なあ、世界が終わるときって、どんな音楽が流れてると思う?美しいメロディなのかな?それともホワイトノイズかな?」
「知らんけど、世界が終わるとき、音楽が終わらない保証はないよな。終わる保証もないけど。それでも流れているとしたら、宗教音楽なんじゃないかな。復活の可能性が希望として残ってるんだったら、ミサだと思う。レクイエムではなくて」
私はハイライトをふかしながら、その希望を持つ誰かとは一体誰なんだろう、と思わないでもなかった。例えば、人が死んだときに家族や友人が悲しむのは、復活の原理に基づいている。不可逆性に悲しんでいるのではなく、肉体という物質がある以上魂の器として見た際に、「イレモノ」であるのならば、もはや物となった「それ」がもう一度動き出す「かもしれない」のにそれが「ほぼ」絶望的であるという、ほぼ不可能な賭けとして悲しんでいるのだ。対して世界が終わるときは、人類の絶滅である。絶滅する前にドナ・ノビス・パーチェムが流れ出したところで、それが持つ意味というのは悲劇的なものでしかない。人生にアレゴリーがいくつかあるように、世界の終わりにもアレゴリーがある。例えば愛の成就。例えばオペラ・ブッファ。例えば宗教音楽。私はマットレス横の灰皿に吸い終えたハイライトを揉み消し、立ち上がって部屋を出ようとした。男が言った。
「ドアを開けると、もうお前はおしまいだ。不可逆性の原理に従うことになる。宗教音楽もオペラ・ブッファも聴けなくなる。世界の終わりを見届けることもできない。それはお前が単に死ぬということではなくて、失敗も成就も不能も法悦もないどこかへぶっ飛ぶということだ。それでもいいなら、ドアを開けてもいい。そこに広がるのは、絶え間ない苦痛と、どうしようもない無力さに従うことを諦めるまでの、流れることのない時間だけだ。おれはここに残るよ。お前は人生に意味を求め過ぎた。なんのためでもなく人生をやり過ごせなかったお前に人生を始める資格はない、とだけ言っておこう。それだけだ。じゃあな」
私はドアを開け、苦痛と無力の先にある絶対的な無へと歩み出した。
世界の終わりのサウンドトラックも、愛の成就のサウンドトラックも、厳密に言えば本来は存在しない。世界の終わりを想定するのはメランコリーだし、愛の成就はロマンチシズムとして陳腐すぎる。しかし、なぜ私はここまで一つの「終わり」においてサウンドトラックを必要とするのか。せめて、美しくありたいのだ。ドブまみれでゲームから降りる私にとって、その降りる寸前に口ずさむ歌が、これまで私が生きてきた意地と美学であることを、それでもって証明したかった。目に映る愛した人、友人、親族、ああ、なんということだろう、私は何もできなかった。頭が痛い。眠くなるはずなのに目が冴えている。左手首は痛くて血が止まらない。吐き気がする。こんなはずじゃなかったのになあ。これもいっそのこと、大聖堂の鐘の音で、はたと目が覚めないだろうか。
ずっと、ずっと、誰かを愛してみたかった。愛せたかな?知らない。
Chapter.1 二〇一九年五月二十五日午前十一時一分
恋愛において加害者と被害者という不均衡な関係性が成り立つのか、という問い。ケーススタディにおいては成り立つ、と言ってしまえばそれまでで、無限に存在する例外というものを一つ一つ取り上げていけばキリがない。近似曲線における外れ値の話をしてもしょうがないのだ。優位と劣位は存在する。ゲオルク・ジンメルはエッセイの中で「愛するものが常に劣位である」のようなことを言っていた。さすがに言い過ぎなのではないかとも思うし、かと思えばアリストテレスは「能動的に愛することは愛されることよりも倫理として優位である」、これもまた「のような」といううろ覚えを宣言しなければならないが、ともかくそういうことを言っていた。正直優位も劣位もない。しかし恋愛において均等な交換関係というものが常に成り立つのかと問われればそれもまたない。加害者と被害者の関係性は、「外れ値」において成り立つ。恋人同士がフィフティフィフティで関係性を維持し続けることは、俺にとってあまり現実的な出来事ではなかった。傷つき傷つけること、その生傷に口をつけて流れ出る血液や深く刃が刺さった皮膚の下の肉を味わうこと。そういった加虐と被虐の快楽が、即ち恋愛の悦びであると刷り込まれてしまうと、文字通り皮肉というべきか、そういう恋愛しかできなくなってしまう。俺は彼女が人生で初めて向こうから好意を寄せてきた女性だったが故に、ひとつの不能、ひとつの敗北を自らが審判せねばならなくなったのである。
俺はアンリを愛せなかった。いや、愛する努力をしなかった。来週で俺は二十歳になる。アンリは俺の一つ上だった。しかし、お互いに愛し合うには、やはりあまりにも若すぎたのだ。
悔恨という言葉がある。文字通り悔やんで恨むことだが、悔やむのは分かる。しかし恨むということはどういうことなのか。俺は今自分のことを激しく恨んでいる。自責の思いもある。しかし自分のことが、自責というより途方もなく恨めしいのだ。器用なふりをするのが得意だった。弁が立つから思ってもいないことをすらすらと喋れた。その割に嘘をつくことが下手だった。その自分の道化じみた性質が、どうしようもなく、どうしようもなく恨めしい。アンリが本当に俺という人間を愛していたのかどうか、分からない。アンリは道化の俺が好きだったのかもしれない。「正直に」「本音を」言ってほしい、と何度も俺はアンリに言った。俺はアンリに正直な本音を言ったことがただ一つとしてなかった。俺がこう言えば彼女が喜んでくれるだろう、ということを自分の会話の数パターンの中から引き出して言っておけばアンリはそれで満足していた。端的に言おう。舐めていた。アンリだけではなく、かつてセックスのみの関係で終わった過去の数人の女からそれとなく見いだせる規則性のもとに、自分のことを愛する努力をしてくれたアンリのことを、一つのカテゴリーに還元して舐め腐っていた。俺はセックスにありつくことが困難ではなく、またアンリは俺より一層セックスが手軽なものだった。困難であることが愛の行為の価値を高めることはなく、またインスタントであるからといってその価値が下がるわけではない。そしてセックスの持つ意味が二人の間で一致していることを確かめる術などどこにもない。そう、どこにも。
初めてが行きずりの女だった俺が、ほぼ行きずりのようにしてある女と恋人の関係性を結んだ。その時点で間違えていた。生きることは間違いという迂回路から正解にたどり着けるかどうかのゲームだ。しかし恋愛はゲームでも生きることでもない。その究極的な瞬間の輝きを目にすることができるかどうか、という話だ。俺はアンリにそれを見出すことはできないまま、一年間の爛れた関係が終わった。
最初がみっともないことは正しくて情けないことである。こと人を愛することにおいては。
異性から欲望されることと欲望の視線が可視化されることは延長線上にあるようで全く異なる。例えば、大学の語学クラス、さらに言えば中高生のクラス分けでもいい、そういうときにある男(ないし女)が「筆記用具忘れちゃったから、貸して」など隣の席の異性に言うとき、そこに下心が含まれているかどうかはその文だけからは分からない。大学生にもなれば「飲みに行こうよ」とかいうのもその典型例かもしれない。本当に筆記用具を忘れているのかもしれない。本当に仲が良くて二人で飲みに行きたいのかもしれない(俺は酒を飲みに行くということについては、そんなことが詭弁以外で成り立つのか、大いに疑問であるところではあるのだが)。しかし、特定の人物との特殊な接点、俺/私だけが「この人」と持っている接点の契機としてもこれらの文言は十分通用する。肝心なのは、言い方のニュアンスやシチュエーションである。「ひっ、ひひひふふっひ、筆記用具、かかっか貸してくれないかな」と隣の席の憧れの女の子に言おうものなら、その女の子が性格が良ければどうしたのかな、で終わりだが、悪意のある見方をされれば貸した筆記用具で何をされるか分かったものではないと思われ、気持ち悪いと口に出さないまでもその先同じ女の子に筆記用具を借りることなど不可能になるだろう。ましてや酒を飲みに行くともなれば雰囲気次第で肉体関係に、場合によっては合意なしでもつれこむことさえあるだろう。
しかし肝心なのは単なる「視線」が温まっていくことである。会話の中で、それとない仕草で、少しずつ私はあなたに好意があるんですよ、あなたは私に好意があるのでしょうか、的なことを汲み取っていき、最終的には言葉でどちらかが付き合ってください、と明言することで関係の成立の是非が決まる。その是非は大して重要ではない、と言ってしまったら言い過ぎだろうか。その過程にこそ、二人が培ってきた人間関係の深みや苦み(コーヒーみたいな例えだ)というものが出るのだろう。多分。
多分というのは俺はそれを面倒くさがったので分からないからである。
俺は中高と、明確な形で異性から好意を向けられたことはなかった。思い返せば「筆記用具を貸してくれ」の背後の文脈に何かを感じ取らないでもなかった。俺はクラシック音楽を中学生のうちからよく聴いていたのだが、他のクラスのあんまりパッとしない女子から「あ、あの、私ショパンが好きなんだけどね、ピアノやってるし、プレリュードって誰のがいいかな、ムラカミ君のおすすめが知りたくて」などと言われ、ああ「二十四の前奏曲」のことだろうか、あんまりショパンは聴かないんだけどな、と思いつつ「とりあえずポリーニとフランソワを聴いて好きな方選べばいいと思うよ」的な三味線を弾き、後日メールで長文の感想が送られてくる、などということがあった。中学生当時の俺は部活でそれどころではなかったのでなんとなく俺のせいでそれが終わってしまった記憶がある。もしかしたら、今のこの状況も似たようなものかもしれない。
大学では入学してすぐマッチングアプリに入れ込んだ。欲望の可視化などと言えば聞こえはいいが、要するにやりたいやりたいの大合唱がぎちぎちに詰まっているようなもので、こんなものに真っ当に取り組んでステディができるわけがない。とはいえ当時十八だった俺にそんな分別ができる訳もなかった。マッチングアプリで童貞を散らし、マッチングアプリで人の金で寿司などを食ってセックスし、マッチングアプリでディズニーシーに行ってトイレでセックスした。ウォルト・ディズニーも天国で泣いているだろう。パレードのイルミネーションで人がわらわら集まる時間帯に人影のない場所で青姦も可能だった。
ところで、異性から欲望されることを「モテる」といい、それを助動詞で「モテない」と反転させることは正確に逆の意味だろうか?多分、それはノーだ。というか、これを「自分はモテる/モテない」という風に使うことは、主観認識と客観認識が混ざっている可能性がある。そしてまた、「モテる」こと、「モテない」ことに、それが主客の認識と事実が入り乱れ食い違っていようとも、恐らく何の価値もない。中高で彼女(反吐が出そうな表現だが、意図している概念も俗っぽいので、これでいいだろう)がいたことがない俺が、大学に入って割と好き放題セックスにありつけることが、自分が「モテている」ことの証左にはなり得なかった。
セックスとは、それ自体としては無内容の営みである。なんとなく「いいね」を押した女の子がかわいくて、トークも弾み、流れるように終電を逃して、「いや、あの、俺童貞なんだけど」と言ったのにも関わらずいいからそういうの、と言われて即尺、何が起こっているのかも分からず気づいたらモノは入っていた。この箸にも棒にもかからぬ営みに、果たして何の意味がある?人肌恋しさを埋めるためだろうか。激烈なドーパミンの分泌だろうか。俺がセックスという行為を軽んじたツケは、アンリとの関係で一気に払わされることになる。しかしパチンコ依存症の人間が場内に設置されているATMから金を生活費やさらには交通費まで下ろしてしまうのと同様に、俺はなぜ複数の女と性的な関係を持っているのか分からなくなってきた。ディズニーシーでアオカンなど、別にミラコスタと言わないまでも千葉のどこかのホテルにしけ込めばいいものを無闇にエキセントリックにして刺激を求めたどうしようもない例である。
結果的に、アンリと出会うまでの経験人数(回数ではない)は三人となった。いつものようにマッチングアプリを見て、俺は「あ」とだけ名前が表示されている、金髪ショートボブのモデルのような女性に駄目で元々で「いいね」を押した。マッチの通知が出た。さて、どんなセックスをしようか、と思った。
「金ないんだって」
「ここまで来てそれ言う?
「あんなにアンリが飲むなんて知らなかったんだって」
「多めに払ったじゃん」
「バイト始めて一ヶ月の人間には酷だよ」
渋谷は道玄坂円山町、ライブハウス、コンビニの隣に清潔すぎてかえって周りの雑然としたアングラな景観をぶち壊しているラブホテルのロビーで俺は「あ」、即ちアンリその本人と押し問答をしていた。彼女はスタイルがよくて背も高く、その服のブランドはなんなんだと言わんばかりのH・R・ギーガーがデザインしたと見まごう近未来的な銀色のブラウスで俺の前に現れた。全身ファストファッションの俺からすると一緒にいるだけで恥ずかしい。俺が。
大体こういう場合、俺は二つのパターンを経験している。一つはいきなりホテルに行くパターン。もう一つはデートをしてからホテルに行くパターン。リピートの場合は除くとして、俺を筆下ろしした女の子、寿司を奢った年上の女性(あれはママ活とかそういうやつだろうか)は基本的にホテルに直行だった(寿司は特上を出前で頼んだ)。しかし、アンリは「お腹減ったしなんも食べてないから、ご飯食べたいかも」と言い、「ホテルでよくねえ?」と口から出そうになったがこちらから言うのも不作法という謎の矜持というか品性が働き、酒が飲みたいとのことでもあったので働いていたバーの店長が薦めてきた韓国料理屋に行くことにした。アンリは健啖で、よく食い、よく飲んだ。イイダコ炒めやらチョレギサラダ、ケランチム(韓国風茶碗蒸し)、サムギョプサルを食い、レモンサワーを次々と空けては平然としていた。俺は元から胃が小さい上、高校時代に無茶苦茶な酒の飲み方を先輩にさせられていた弊害でこういうチェーンのような居酒屋で出てくるチューハイに抵抗感もあり、ビールは腹がいっぱいになるし、カルピスマッコリとかいう女子供が好きそうな酒を飲んでいた。瓶マッコリを頼みたいとかアンリが言い出したら飲んでもいいけど帰ろうと思った。グダグダに酔っぱらって介抱されるのでは何をしに夜の渋谷に繰り出しているのか分からない。
アンリがゲホゲホと咳をしだした。あ、煙草だろうか。全く気を遣っていなかった。
「ムラカミ君ってさ」
「何」
「短い煙草吸ってるね」
「ああ、まあ煙草をのんびり吸うのが好きじゃなくて。パッと吸って終わるのがいいから。喘息持ちとかならやめるよ」
「いいよ。それにしても綺麗な煙草の吸い方するね。年不相応だよ」
などと言ってアンリはけらけら鈴の音のように笑っていた。俺が高校時代から吸ってるエコーはエコーシガーとかいうのになり、特有のねっとりした甘苦さが後退した上土っぽさが強くなっていたが、大学に入ってバイトを始めたばかりで煙草の値上がりがきつい層にとってはまだましな値段だった。
「今店にいるから大きい声では言えないけど、なんでその歳で煙草吸ってるの?」
「映画の影響で吸い始めたんだけど、高校にも卒業論文があって。徹夜で文章書くときに集中できるし、いいかなって。父親にバレたとき死ぬほど怒られたけど」
そうなんだ、とアンリはこともなげに答えた。右耳のヘリックスが光るのが見えた。会計の札が伏せられていた。
土日の夜の円山町を歩いたことがない人は歩いてみるとよい。満室、満室、満室……どいつもこいつもやりたい盛りだ。そのやりたい盛りの中に自分も入っているというのがまあなんというか情けない話である。結果的に高級ラブホテルしか空いていない。しかもそういった場所でさえ、最低ランクの部屋は空いておらず、かろうじて「スイート」(たかがラブホテルで何が「スイート」だと思うが)の一つ下のランクが一部屋空いていた。宿泊で一万四千円だった。前精算を部屋で済ませ、部屋に入った。とりあえず部屋の換気扇を全開で回し、その下にテーブルを持ってきて安い煙草でこれからかかることに向けて一服することにした。アンリの方を見ず、勝手に煙草に火をつけて臭い煙を吐いていると、アンリはギーガーのブラウスとスカートを脱いでキャミソールとパンティだけの格好になっていて、机で煙草を吸っている俺ににじりよってきた。
「そこまでやる気満々になられても困るわ。服に臭いつくから遠くで休みなよ」
「一万も貸してるのに冷たくない?」
「それとこれとは……」
別だ、と言おうとしたがまあ実際金は借りている。安いホテルは満室だ。ラブホテルなど多くの場合やれればいいのでこういう高級ラブホしかなかった。そこそこ酔っぱらってうつ伏せで転がっているアンリの金髪は、よく見るとただの金髪ではない。少しくすんでいて、下品ではなく彼女のファッションとしっかり調和が取れている髪の色だった。俺は一服を終え、アンリのすぐそばに腰を下ろした。アンリは俺の腕に腰を回してきた。気になっていたアンリの髪を触ると、二回ブリーチ、ムラサキシャンプーに弱めの青を入れている、というのがおおよそ正しいだろう。自分で勝手にカラーリンスで遊んでいる人間でもだいたいの察しはつく。
「ねえ」
「何」
「しないの?」
「するよ。シャワー浴びてきなよ」
「浴びなきゃだめかな」
「俺はいいけど、アンリが嫌がるでしょ」
「嫌がらないよ、私」
机の上の灰皿に一本だけある吸い殻の火が、じりじりと消えないままだった。
さて、俺はここで、もうとうにいない彼女と初めてまぐわったときのことを思い返し、そして書き留めることに、いくばくかの躊躇を覚えないでもない。というのは、先ほど俺が書いた「セックスは根本的には無意味」という前提をちゃぶ台返しする可能性が思い返すことによってまだあるからだ。つまり、アンリとのセックスを、「意味がある」とすること、あるいは観念づけること。「愛していなかったのでは?」確かに、愛してはいなかった。留保するまでもなくそれは自明の事実だ。しかし愛していなかったとしてすべてが無意味になるわけではない。それは恋人同士として一緒に見たいつかの東京タワーだったかもしれない。それは海だったかもしれない。それは、初めてのセックスだったかもしれない。ここで「かもしれない」というのは、それら一つ一つが「すべて」に還元されるわけではないからでもある。最も恐ろしいことには、セックスを「アンリ」において特別なものとすることで、執着以下の未練を「愛してもいなかったのに」抱くことだ。しかし俺は蛮勇を奮ってみるとしよう。しかし、意味を持とうと無意味だろうと、セックスほど滑稽なことはない。言葉にもできず、観念的でもなく、ただ還元できない記憶としてそこに居座り続けるだけなのだから。
セックスは面倒だ。官能、つまり感官の能力によって快楽を受け取り、それを絶えず交換しつづける行為である、とひとまずは言えるのであれば、本能が理性を越えなければならない。
俺はセックスで理性を失ったことがただ一つとしてない。射精はすれども絶頂に達したことがないと言った方がいいだろうか。だから、とても頭を使う。言語を介さないコミュニケーションにおいても、言語を介するのと同じように相手を尊重したやりとりを目指さなければならない。童貞を失ってからアンリを含めて四人の女性と褥を共にした。全員から、俺は「セックスが上手い」と言われてきた。しかし、俺はブラジャーの外し方が未だに分かっていない。運動神経が優れているわけでもない。何を持って上手いとするか、それは駆け引きである。体の位置の変え方とか、タイミングの感覚とか、そういうものである。つまみ食いのようなことをしておいてなんだが、セックスで試し打ちのようなことはできない以上、かなりセンスによる部分もまた、あるだろう。回数だけを重ねた勘違いのズベ太郎やズベ公のセックスが必ずしもうまいとは限らないように、努力が実を結ばないことだってあるのだ。
アンリは自分のことを「セックスが下手」と言っていた。半分本当で半分合っている。経験人数が三人と言った俺に私も同じと言っていた。これはかなりの確率で嘘である。アンリは「自分が気持ちよくなること」においてはほとんど動物的なセンスを持っていた。人によってヴァギナの内部の快感のポイントは違うわけだが、俺が挿入しているペニスの角度に対して自分の腰の角度を微妙に変えて擦っていた。結局俺とアンリは関係性の終わりに際してセックスをすることはなかったが、最終的には体の相性がよかったと言える。経験人数が三人は確実に嘘だ。三人の人数であんな腰の動かし方を覚えられるはずがない。
アンリは初めてセックスしたときから最後のセックスまで同じ言葉を行為の最中に繰り返した。
「好き」「大好き」「愛してる」「ずっと愛してる」「ムラカミ君、本当に愛してる」
言われるたびに、腹の底がぐるぐると冷えた。人の粘膜に自分の粘膜を挿入しておきながら、好意を伝えられることが、こんなにも痛々しいことだったのだろうか。分からない。アンリ以外とインスタントではない関係を結んだことがないから、分からないのだ。でも多分違う。これでは、多分、ない。オウム返しのように愛してると言っても、愛している気がしない。鏡の前でセックスしてる最中ふと横を見ると、ガリガリにやせ細った男がけむくじゃらの汚い体を晒して金髪の美女をめちゃくちゃに犯している。あまりに滑稽なので、思わず吹き出してしまう。「モテる」って、こんなことだったっけ。多分違う、と思う。ランナーを進塁させなきゃいけない局面でバントの指示が出てるのに打ち頃の球が来たらなんとなく振ってしまうという、ただそれだけのような話なような気もする。だから、俺は言葉の本当の意味において「モテない」。アンリ、今俺が後ろから犯しているアンリは、俺とは違った真理のもとで、「モテる」と言うことが可能だ。互いを欲望する領域のステージに食い違いがあった、ただそれだけのことである。
「ムラカミ君?」
「うぇっ。ああ、一瞬寝てたわ。何?」
「折角いいところ泊まってるんだし映画観ながらお酒飲んだりしようよ。明日は海に行こうね」
「うん。雨降らないといいね」
いつかの記憶は、薄れるにしても、ずっと俺の中で反復され続ける。それを人は未練と言うならばそうなのだろうし、傷でも、執着でもなんでもいいが、俺のアンリへの向き合い方の負い目が、ずっとこの後も残り続けるだろうという思いだけがある。例えアンリが真摯ではなかったとしても、だ。
取り返しのつかないことがある。一定の人間関係は、その中の一つだ。本当はあと十分で待ち合わせ場所の新宿の喫茶店に行かなければならなかった。俺がアンリとけじめをつけるための邂逅であるはずだった。しかし、今俺は家にいて、新宿までは一時間弱を要する。とても間に合わないし、今から行く気にもなれない。取り返しのつかないことを取り返してしまうことは、関係の復縁にせよなんにせよ、あまりよくない。例えば昨日定食屋でチキン南蛮定食を食べたけど本当は鯖味噌定食にすればよかった、からと行って次の日にチキン南蛮定食を食べても何かが違うように、人生における選択は取り返しがつかないということによって成り立っていて、そしてアンリの顔を見てしまえば、もうそこで終わりなのだ。けじめを明確にしたくなかった。けじめなんてわざわざつけなくても、俺とアンリはとうの昔に終わっていた。初めてセックスした次の週に金を返すために喫茶店で話してたら付き合うことになった時点で、何も成就しないまま、何もかもが終わっていた。俺のせいで、始まってもいないものが終わったのである。
「ごめん。俺今日行かない。アンリに会いたくない」
「最後ぐらい会いたかった」
「ごめん」
「私がムラカミ君にしてきたことって、あんまり意味なかったのかな」
「ごめん」
「でも、それも私の思いこみなのかもしれないね」
「そうとは言ってないよ」
「本当は、少し、少しだけね、会えばまだ元に戻れるかなって、最後のチャンスかなって思ったんだよ。でも、ムラカミ君がチャンスを与えてくれなかったし、本当に終わりだね」
「そうだね」
「私今待ち合わせだったはずの喫茶店にいて、こんなこと言うの恥ずかしいし、信じてくれないかもしれないけど、ムラカミ君のこと、本当に大好きだったし愛してたよ」
「ありがとう。今日は行けなくてごめん。元気でいてね」
「うん。ありがとう」
電話越しの会話はあまり覚えていない。アンリの言葉の一つ一つが、自分の罪業が棘になって刺さってくるようだった。俺はアンリに一度として本音を言ったことがなかった。男友達には本音を言えるのに、マッチングアプリの女性たち、そしてアンリには核心的なことについていつも俺は適当をこく癖があった。完全に間違っているわけではないが本音を言っているわけでもない。だから、最後の電話で「愛していた」と嘘でも言えなかった。「愛していなかった」と突き放すこともできなかった。「どちらも合っていて、どちらも間違っている」のではなく、俺とアンリはどちらも間違っていた。アンリの俺の捉え方も、俺自身も。しかも、アンリを愛することは不可能ではなかったはずなのだ。ただ単に、誰かに献身する努力をしなかっただけ。「やり方が分からなかった」は無能の言い訳でしかない。ほんの一工夫で、俺はアンリを愛せたはずなのだ。「愛しすぎていなければ愛していることにはならない」、と偉い人。「現実から理想へと向かう過程に人間の栄光がある」、と偉い人。偉い人が言うならそうなのだろう。それを言えるだけの積み重ねがあるのだろう。俺もアンリも若すぎた。過程が云々以前に理想もまだ見えていなかった。
煙草が一箱なくなってしまった。俺は同じ銘柄を買って、前と同じ生活をする。自分の人生が人のためではないのならば、この人生などどうでもよいという気分になる。人生はどうでもよい、興味のないスポーツチームの勝敗のように。
Chapter.2 二〇二二年十一月一日 午後五時二十五分
永すぎる悪夢を見ているような人生だった。
光の見えないトンネルのぬかるみを一歩一歩前進して、というか前進しているのかも分からなくて、何にも分からなくて、苦しい、苦しい、いっそのことこのぬかるみの水位が上がってきて溺れ死んでしまいたいと願いながら、どうにも楽にしてくれないこの緩慢な死に損ないから、誰か助け出してほしかった。「誰か」というところが、俺の一番だらしないところではあるのだが。誰も俺を救えないことなんて、分かりきってるじゃないか。本当は救ってほしくないのでは?救われない俺、みたいなものにすがりついてるだけなのでは?そう言われてみれば、そうなんだよな。救われたその先に何があるかなんて分からないから。幸福に生きている俺などというものが、想像すらできないから。幸福に生きながらえる資格なんて持ち合わせてなかったから。そういうよく分からない言い訳をして、トンネルのぬかるみでぬちゃぬちゃとやっている苦しみに安住していたことは、否定できない。幸せに向かっていくことの方が、遥かにつらいことであると知っているから。ぬかるみで足踏みしている方が、甘えでもあり、楽でもある。苦しみが楽である場合もあるのだ。
今、というか今日、俺はトンネルから出た。出てしまったと言う方が適切かもしれない。俺にも幸福になる権利があったのだ、と。永すぎる悪夢は終わって、夢は目の前の現実より遥かに酷薄だった。つらかった。苦しかった。この苦しみは何にもならないと思いながらぬかるみを踏んできた。でも、しかし、だが、本当に光はあったのだ。この人生が価値あるものだと思える瞬間が、今日到来した。人生にはいくつかのアレゴリーがあって、それは俺にとってはこのノートに書き留めることだ。二年前のアンリのことも、読み返すことによって俺はアンリとの記憶を生きる。今俺が書いているこの時間と、ノートを読み返す時間と、人生に流れる時間、それぞれ違う時間が流れているけれども、書くことも読むことも途中で投げ出せる。しかし最も決定的な違いは、人生が途中で投げ出せないものであるということだ。「未来は長く続く」。俺の好きな言葉だ。どうあろうと、未来は長く続くし、どうでもよかろうがよくなかろうが人生の未来は長く続くのだ。これをポジティブなフレーズと捉えるか、ネガティブなフレーズと捉えるかは、人によるだろう。状況にもよるだろう。しかしいかような場合でも、どちらにしろ続くものは続く。崖や障害物があるかもしれないし、思わぬ出会いがあるかもしれない。だから、俺としては「どうでもよい」。全ては成り行きであって、そして、今、俺は、最も愛する人のものになり、最も愛する人は俺のものになったのだ。「愛はひとりでになった」。
ミタライさんは渋谷のかつて宮下公園だった場所の近くの雑居ビル、二階にある古着屋で働いていた。大学を四年で卒業したが特に就職する気もなく、オオムラやモリヤマに「なんか良いバイトねーかな。俺実家だし稼ぎ少なくていいから、働きやすいところ」とかなんとか、自分でバイトも探さずに減らず口を叩いていたら、「バイト募集してるかどうか分からんけど、心当たりはあるよ。服屋」「え?ファストファッション?結構大変って聞くけど」「小さい古着屋だからそんな忙しくないって」などとモリヤマの口車に乗せられ、あれよあれよとモリヤマと見学に向かうことになった。正直、親のお仕着せ程度で服は満足していたし、そもそも知識がない。モリヤマが冬になるといつも着ている高そうな服のブランド名も覚えられない。オランダ人の名前とかなんとか。
モリヤマと一緒についた古着屋は、雑居ビルの中で異質の清潔感で逆に場違いな感じがした。「オレは基本的にシーズンが終わって売れ残った新品を買うから古着は買わないんだけど、ここの店センスいいのよ。ほら、このマルジェラのセーターとか普通なら三十万のところが五万だぜ」「服に三十万ポンと出す層の方が訳分からんわ」という全く無知な俺からすれば口が開いてしまうような値段の服がずらりと並んでいた。確かに、言われてみればファストファッションばかり着ている俺は意識していなかったがものにもよるがシルエットがタイトで、体の線がはっきり出て着る人が着れば見栄えがするのだろうなという感じがした。サイズさえ合えば誰でも違和感なく「お手軽に」着れるから「ファスト」なのだろうか、と身分不相応にファッションのことを考える。
ああそうそう、本題のバイトの件ね、と言いながらモリヤマは近くにいた店員に「ミタライさんいますか?ちょっとバイト探してるやつ連れてきたんですけど」と話しかけて店員は即座に了承、「ミタライさん」を呼び出しに裏に行った。バイトなんかしたことないし、怖い人出てきたらどうしよう、と考えていたら、当人と思しき人物が出てきた。
「モリヤマさんじゃないですか。いつも服買っていかないのに。セールもやってないですよ」
「いや、大学の同期で、就職しない奴がいるんでバイト枠あったらってことで紹介しに来たんですよ」
「あ、はじめまして、ムラカミです。あんまり服詳しくないんですけど、モリヤマに連れて来られて」
ああそういうことですか!と服を買いもしない二人に快く接してきたその人こそ、ミタライさんだった。唯一俺が分かるハイブランドのヴィヴィアン・ウエストウッドのパンクスファッションに身を包み、右耳のヘリックスには安全ピンが三つ並んでいた。黒いベリーショートの髪と革ジャンが首元や手の肌の白さを際立たせていた。俺とモリヤマを見る目はぱっちりというかぎょろぎょろしていて、先ほどの少しの会話だけでも表情が変わる面白い人だった。
「ミタライルイって言います。わたしは正社員なので、別にバイトを雇う人事みたいなものもいないんですけど、一応面接しますか?履歴書を持ってきていらっしゃれば一発でオッケーできますよ。繁忙期だと正社員だけだと回らないので人が欲しかったんです。あんまり服に興味ないって言われてましたけど、勉強していけば大丈夫です。扱ってるブランドもそんな多くないんで」
「あ、履歴書は一応書いてきました。あとミタライさんの服、ヴィヴィアンですよね」
「あれ、服に興味ないのに知ってるんですか?」
「好きなバンドがヴィヴィアンのブティックで結成したみたいな話があって、少し見たりはしてました。かっこいいですね」
ありがとうございます、じゃあ形だけ裏の方で面接しますね、と言われて、そのままミタライさんについていった。後ろのモリヤマを見やると無言でサムズアップしていた。
「恋に落ちる」という言葉がある。考えてみれば不思議な日本語である。「恋」は概念であるはずなのに、さも崖か穴のように「落ちる」と言われるわけだ。英語でもfall in loveと言うわけだから、恋とは落ちるものなのだろう。落ちるということには、偶然であることが含意されている。アンリにおけるマッチングアプリのように、取捨選択によって必然的に「選び取られる」訳ではない。訳ではないというか、「選び取りえない」。なぜなら自分の思っている通りの人生の中に突如外から知らない誰かが入ってきて、進行方向を捻じ曲げてしまうことが恋に落ちることの本意であるからだ。そこには全くの偶然がある。自分としては意図しない形で血の繋がっていない誰かに自分だけではなし得ない幸せを成し得ること、そしてそれを希望すること。あるいは破滅を予感しながらもその破滅さえも恋という偶然によって肯定してしまうこと。幸不幸の尺度では測れない何らかの力動が働いて、すべての成就や失敗の認識を歪める、それこそが「落ちる」ことの意味であるだろう。
俺はヴィヴィアンに身を包んだミタライさんを見た瞬間、かつてアンリでさえも、アンリの前や後でも、感じたことのない不思議な感覚に陥った。そう、「陥る」ものだ、俺は間違いなく「落ちて」しまったのである。何が俺をそうさせたのだろう。「ムラカミさん、わたしと同い年だ」と面接でけらけら笑う彼女の表情の豊かさとか、同い年なはずなのにすごく礼儀正しいとか(というか向こうは社会人なので当たり前なのだが)、そもそも俺自身パンクスファッションが好きとか、そういう問題ではない。「この人は、多分俺にとってとても面白い人だ」ということは確実に言えた。表情がぐるぐる変わるところも、仕事がテキパキとしているところも、ミタライさんがやっていることや言うことは全て眩しく見えた。レジの計算を間違えて(古着屋とはいえハイブランドなので間違えると大変なことになる)、怒られているときもミタライさん以外の社員だと「うるせえなあ。五万の商品で千円二千円間違えたところで大して変わんねえだろ」などと思っていたがミタライさんに怒られると嫌われたのではないかと思って次の出勤では異常にキビキビ動くため、おっ今日はムラカミ君の接客冴えてるねなどと褒められるという感じで俺はバイト先で好感度がミタライさん次第で乱高下していた。もちろん仕事ができればミタライさんは褒めてくれるので、モチベーションも上がった。シフトでクローズが二人で被った日などは内心小躍りし、一緒に飲みに行くという大変喜ばしいことも一回や二回ではなかった。
問題はその後だった。恋に恋して浮かれる季節を過ぎると、あんまり楽しくなくなる。
まずは男性客や俺以外の男性店員と仲良く話しているミタライさんを見ると俺は人相が変わっていたらしい。「ムラカミ君どうした?具合悪い?」と他の社員から話しかけられると、「死ね」と言いたいところをこらえて「いやあ、昨日友達と飲みすぎまして二日酔いなんです。気持ち悪い」と言いながら裏で飲みたくもない水を飲んだりした。気持ち悪いのは事実なので間違っていないが。ミタライさんが男と二人で飯を食いにいった、大学時代からの彼氏がいる、という何の証拠もない噂を耳にするたびに嫉妬の炎で発狂、帰りの渋谷駅前のスクランブル交差点でマシンガンを二丁構えて道行く人々を射殺したのちにピンを抜いた手榴弾を抱えて俺も死にたいという気分に駆られ、しかしそんなことはできないので帰宅するなり走って二階まで上がると自分の部屋の本棚に掴みかかって引き倒すような始末になっていた。組み立て式の本棚だったので本棚自体も崩壊し、また一から組み立てて本を殊勝にしまっていると本当に情けない気分になった。やつらが憎いというよりは、俺の情けなさが悔しいと思った。考えてみれば(彼氏がいるかどうかの真偽は別として)、ミタライさんと喋っている男たちは何もミタライさんに迷惑や害をかけているわけではない。というか迷惑なのは俺かもしれない。そう思うとまた泣きたくなった。考えてみれば、俺は数年間こういう形で人への好意を募らせたことがなかった。セックスをしようと思えば本名も知らない女とセックスが可能だったし、俺はセックスに没入できないのにセックスが好きだったから、つまり人に没入できなかったわけだ。
俺は決意した。
ミタライさんをちゃんと口説く。
「あ、もしもし、すいません、ミタライさん。ムラカミですけど。今週の水曜クローズでシフト被ってるじゃないですか。飲みに行きましょうよ」
「いいよ。予定もないし。お店任せるね」
手筈は整った。
俺は焦っていた。
既にスマートフォンに表示されている時刻が二十三時を回っている。艶っぽい話も一切出てこなくて好きなロックバンドの話を延々と二人でしていた。セックスを前提とせずに好意を伝えることがこんなに難しかっただろうか。当たり前と言えば当たり前なのだが、マッチングアプリで出会う女は大抵セックス目当てだ。一度出会い系サイトで横綱級の女に二万払わされた上騎乗位で腰の骨が砕けそうになったこと以外は、マッチングアプリで出会って適当に喋って「ホテル行こうか」でおしまいだ。アンリ以外の女とは一回出会ってセックスした以外は連絡も取っていない。多分、俺は怖い。今の「同い年の社員とバイト」のゆるい関係が終わって俺があの古着屋に居づらくなってやめるとかが一番怖い。トイレでアルコールを排出しながら考える。いいのか?それで。人生で初めて本当に好きになった女を職場がどうとかで諦めるのか?ここで踏み出したらもう終わりだぞ。うわああああああああああああ。どうしよう。本当にどうしよう。これ以上トイレにいたら体調を心配される。そろそろ手を洗って出よう。俺は覚悟を決めた。
「ムラカミ君、トイレ長かったね。具合大丈夫?」
「あ、大丈夫です。ところで終電大丈夫ですか」
馬鹿か俺は。ここでミタライさんを帰してどうする。
「大丈夫だよ。明日休みだし。なんで?」
カエルよろしく胃が口から出そうになるのを抑えて、言うべきことを言う。
「あのー、ミタライさんには僕が入って研修のときからお世話になってるじゃないですか。だからって訳じゃないんですけど、すごく僕はミタライさんに恩を感じてるんですよ。で、最近、最近ってほどでもないですね、大分前からなんですけど、僕は、その、うーん、なんて言えばいいんだろう、好意、好意っていうのも違うな、あの、好きです。僕と付き合ってくれませんか」
重い沈黙が流れる。やってしまった。こんな野暮の極みみたいな口説き方があるか。散々前置きしておいて最後を「好きです。付き合ってください」って、少女漫画でももっと詩的な口説き方するぞ、と思い、アルコール中毒でもないのに卒倒寸前、絶え絶えの意識の中、ミタライさんはぎょろぎょろした目をガン開きにしてこちらを見ていた。次にどのような言の葉が継がれるかで俺の運命は決まる。地獄に真っ逆さま、あるいは天上の調べが聞こえるか。
「あのね」
「はい」
「わたし、大学時代から付き合ってた人がいたんだけど、別れちゃって。そのときにすごくつらい思いしたから、もう人を好きになりたくないっていうのは、一つ目。でも、ムラカミ君は仕事以外でご飯に行ったりとか、研修真面目にやってすぐ仕事できるようになったりとか、まあたまにミスはするけど、多分あの店の中でわたしが一番ムラカミ君を見てるつもりはあるっていうのが、二つ目。だから、なんだか分からなくて。ムラカミ君がわたしのことを好きって言うなら、わたしはムラカミ君の気持ちに応えられるよう努力するし、ムラカミ君がどのくらいわたしのことを好きなのか分からないけど、わたしもムラカミ君のこと好きだよ。でも、いつか終わってしまうのは、すごく悲しい。このままの関係なら、ムラカミ君がバイトを辞めても、またきみに会えるから」
多分好意的なことを言われているのだと思うが、端的に言えば俺と別れる前提で話しているらしい。そんなことを言われてたまるかと思った。もう言ってしまったものはしょうがない、俺はなりふり構わずミタライさんに返す刀で言った。
「正直に言います。僕はミタライさんが他の男と話す度に嫉妬で気が狂います。社員のだれそれと付き合ってるみたいな噂を聞いたときは家の本棚を破壊しました。僕だって決して女の人に慣れていないわけではないんです。それなのにミタライさんにだけこうなんです。本当に頭がおかしくなりそうです。いや、冷静になりますね。自分勝手なのは分かっています。それでも、どうしても、どうしても、ミタライさんじゃないとダメなんです」
どうやら俺は好きな女の前では女のようになるらしい。情けない。言葉をするすると紡ぐたびにどんどん自己肯定感が下がっていく。惨めな気持ちになっていく。終わった。もう日付を回るか回らないかだろう。
「ムラカミ君、あのさ」
「はい」
俺はなぜか泣き濡れていた。
「わたしとセックスしたいと思う?」
え?どういうことだ?と理解が追いつく前に俺は、
「したいです」
と言った。時刻は終電をとうに過ぎていた。
その後のことは、もうここに書く必然性があまりない。俺は人生で初めて緊張して勃起しなかった。ミタライさんは、俺の腕の中で、「物事を複雑に考える面倒な女だとこれから思うかもしれないけど、これからよろしくね」と呟いて、眠った。俺はミタライさんの寝息を感じてから、ベッドを抜け出して煙草を吸い、バッグからノートを取り出してこれを書いている。恋に落ちるとき、愛を肯定するとき、人は言語の外に生きる。言葉にできない「取り返しのつかないこと」、つまり「大失敗」、全ての「大失敗」が、言祝がれるように。
ああ、生きていて本当に良かった!
終
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