群れないこと

石牟礼さんは、水俣病という「近代の闇」に立ち向かう際に、「一人で闘うつもりでした。今も闘っています」と述べています。若松さんは、この言葉について、番組テキストの中でこう解説しています。
「力と量によってのみ価値をはかろうとする『近代産業』の暗部に生まれた、命名し難い化け物に立ち向かうためには、人はひとりにならなければならないと石牟礼は感じている。化け物は、群集によってつくられた。群れと闘い得るのは、もう一つの群れではなく、個である、という確信がここにある。人は、群れた途端に見えなくなるものがあります。だが、ひとりでいるときには、はっきりと見える。石牟礼はそのことに気づき、ひとりで闘った。(中略)水俣病の運動で人々は、集うことはあっても群れません。それぞれの志、それぞれの立場を持って集うけれど、けっして群れない」

ネット社会の匿名性の中で、「個」を失い、思考を停止して紋切り型のレッテル貼りだけを行い、他者を切り捨て、憎悪の感情のみをひたすら煽り立てるようなことが横行する現代社会。「苦海浄土」は、私自身も陥りがちなこうした「群れることの罠」を厳しく警告しています。石牟礼さんの厳しい言葉を心に刻み、私も、決して群れることなく、さまざま問題に対して「個」として立ち向かっていきたいと心から思っています。

NHK Eテレで毎週月曜夜に放送中の「100分 de 名著」HPより

熊本・水俣湾で発生した水俣病についての名著。四大公害の一つでありながら名前を聞いたことがあるだけ、そういう方も多いのではないでしょうか。私もそのうちの一人です。

自分ごと

時代的あるいは場所的に当事者ではない場合、自分事のように捉えるのは難しい。当時の状況を直接体験することはタイムマシンがない限り不可能であるため、体験者の話や作品から往時を想像するしかない。世の中のすべてを知ることはできないが知らないことを知らないと認め、知ろうとする姿勢は大事にしていきたい。
LAP(Liberal Arts Program)に参加する以上講義で見聞きしたことについて個人で調べる時間をとってもいいのではないかと個人的に思う。みんな忙しいんだろうけどね。

少し話がそれましたが、個と群れについて。複数人の他者が集まったものがチームだとして、何か問題解決を目標にしているとします。
チームとは結成してから初めて動き出す組織というより、問題に対して大なり小なり課題意識を持った個々人がより問題にアプローチしやすくなるための手段だと思っています。あくまで群れではなく個の集まり同士。
コンビニの軒下や電車の入り口付近で他の人を顧みず堂々といる集団を見ると群れてんなと思います。時たまそういう状況下に自分もいることはありますが、いったん棚に上げて(笑)「仲良し集団≠群れ」で、集まることで異常に自分が強くなった様に振る舞いだすのが群れかなと。ドラゴンボールのギニュー特戦隊はスカウターで自分や他者の強さを数値で把握してるので個の集まり同士ですね。スカウターが壊れるほどのベジータっていうとんでもない強者により壊滅しますが、、フリーザに信頼されていた理由はそこにあるのでは!(群れっていうと漢字の通り、羊の群れを連想し牧羊犬に追われ固まっていくイメージが強いためあまり使いたくないです)

答えのない問いに対して

もう一つ引用。
スパイダーマン、超人ハルク、X-メンなどのアメリカンヒーローを生み出してきた漫画原作者のスタン・リー氏は次のように述べている。

「私にとって、他人とは知的好奇心を刺激し、たのしませてくれるものなんだ。だから多くの人と関わることは、私にとってとても大切なこと。でもその刺激は、そのままでは形にならずに流れていくだけ。その刺激が何かを生み出すためには、ひとりにならなければならないんだ」
(引用元:プレジデント・オンライン|SNS好きな人が実社会で活躍できない理由)

仲間内で新たなアイデアや視点が生まれることはもちろんありますが、その次ステージの話に発展しなかったり実行につながらなかったりした経験はないでしょうか。元々実行を目指していないことも多々ありますが。

人とのかかわりあいの中で生きているので、まったく群れないor完全に自律することは困難です。心身万全の状態にあるなら、個として何かを考え向き合い一歩踏み出す、そういうスタンスこそ正解のない問いに立ち向かうとき必要ではないでしょうか。