『 遠い太鼓』 村上春樹
『 遠い太鼓』
村上春樹 1993 講談社文庫
旅は旅とともにあって然るべき。
いまは全貌の見えないわたしの旅が秩序づく。もっとも方法論的な秩序はいらない。その旅が後々の自分にどんな意味をもたらすか、その点においてである。
一つだけはっきり言えることは、『遠い太鼓』を読みながら青春18きっぷで旅をすると、人生遠回りしてなんぼと心が軽くなるということだ。
しかもそのとき一緒に旅をした子は、某大学の100キロハイクに参加したい、短歌を詠んでいて、自分と周りの人の作品を集めて短歌集を作りたい、ときたもんだ。
この日帰り旅をしてから、私の残り3か月弱の学生生活の信条は回り道をすることに決めた。余暇はできる限り回り道して生きていく。なかなか人に宣言しても理解されるかわからないが、まあそういうこと。
さて本書に共感を覚える記述はあふれていたが、文章のそこかしこに散りばめられていて概念的で、いちいち書き連ねるのも野暮な気がする。だけどたしかに心に蓄積されている。そういう手触りのたしかな思考の栄養を供給できるところ、村上春樹を春樹たらしめていると思う。
私は思うんだけれども、村上春樹の偉大なところは人が生きるうちに何となく実感する真理を、誰にでも分かりやすい言葉でほいっと差し出せるところじゃないだろうか。彼はそんなつもりはなくとも日常に見え隠れする真理を咀嚼して、頭の中で言葉に直し、私たちに「つまりこういう事なんだよ」とお裾分けしてくれる。コンビニで買った肉まんを半分に割って、「ほら食べなよ」、ぐらいの手軽さで。
しかもそれがその辺にある身近な比喩に例えられている。なかにはちょっと思いつかないような比喩があったり、比喩はありきたりでも言い回しに工夫があって、なるほどそういうニュアンスねと頭にすっと入ってきたりする。
そしてそういうものって、少し文章に馴染みのある人ならわかると思うけれど天性の感覚だ。自分を取り巻く何かに対して、常に内側からぽんぽん言葉が飛び出してくる。
重要なのは、感覚であって才能じゃないところだ。だから本当は偉大と評するのはおかしなことかもしれないけれど、とにもかくにも文章に倒せばそういうことだ。
彼は、遠い太鼓が聞こえると言った。その音が旅に誘うのだと。
私にも聞こえる。きっと何度でも彷徨う心を抱く。遠く太鼓が空気を震わせる。そういうものだ。
人生に訪れるそんな瞬間に、私という存在の、世界の、煌めきを感じる。
願わくばいつでもどこでも、その音に耳を澄ませる感覚を信じていたい。