意気込みをだらだらと。

 ※自分の自己愛が強い部分、自意識をこじらせている部分があることも分かっているけど書きたくてそのまま書いてたら相当な駄文になってしまいました。でもやっぱり残したくて残します。

 24歳になったので24歳としての意気込みを書いてみようと思う。少し前の記事でも書いたが、弱いままでもいいじゃんとか生きてるだけで十分じゃんとかそういうマインドに飽きてきた。それは決してそういうマインドを否定するつもりではないんだけど、やっぱり強くなりたいしもっと世界を信じたいという思いが膨らんできたのだ。

 小さいころの夢は北朝鮮の子どもが満足にご飯を食べられるようにしてあげることだった。きっかけは小学生の時に体調不良で休んだ日に見たテレビで北朝鮮の飢餓が取り上げられていたことだった。自分の体調不良の比にならない苦しみを私より幼い子が受け取らなきゃいけない世界に衝撃を受けた。でもその夢はあまりにも難しくて叶えられていない。それに近い夢を叶えたかったが結局私はそんなに頭が良くもなければ体力も気力も努力も足りなくて実現できなかった。

 私は10代まではバカみたいにがむしゃらに生きてた。なぜなら努力すればなんでも叶うと本気で信じていたからだ。だから4時間睡眠でも生きられる体になりたいと思って無理やり短時間睡眠でこなすスケジュールを組んだり、人を傷つけたくない思いが強まるがゆえに少しでも誰かの傷になりそうだと感じる言動は封印したりして機械的なコミュニケーションを心がけていた。でもそういう生活を送っていると大きな反動が返ってきた。そのたびにその反動を私の甘さの証拠でありその反動さえも打ち消せるようになるはずと信じてさらに努力しようとしていた。しかし20代に入る頃になるとさすがに自分が人間であることと世界のある程度の堅さに諦めがついた。私は全知全能になれなくて世界も完璧になりえないのだ。じゃあすべて意味がないのでは?と今度は虚無になった。どうせ死ぬしどうせ地球はなくなる。大学に行っても辞めても、就職してもしなくても、友達がいてもいなくてもそれは等しく同じことであり意味はないじゃんと。まぁここまでの人生において思考のバランスがとことん悪すぎたんだなぁとやっと気づいた(遅すぎ)。

 スーパーマンにも仏にも神にもなれないしがない人間である私。地球温暖化は続き、戦争も終わらず、貧富の差が無くならない世界。それは事実だ。でも大雑把な事実だ。私は生きていて世界も終わらない。それなのに自暴自棄な態度をとるのはどうなの?私は満足する?というか幼いころの私を悲しませちゃうじゃないの。やっとここまで思えるようになった。

 昔好きだった人に「世界のいろんな不幸を嘆いてるのはいい人ぶってるって思われるかもしれないけど私はほんとに悲しい」と言ったら「その聖母マリア的な優しさは生まれつき持ってるものなんだろうね、その感情は本物だと思うよ」と返してくれたことがあった。やっぱり私も社会に生きていて生活があるからいい人ぶりたいのは否定できない。だけどその返答が心底嬉しくて私の自信になった。やっぱり純粋に世界に不幸があることが悲しい。自他境界があいまいなだけ?そうかもしれないけど実際に私は世界の不幸が悲しいと認識している。もしかしたらそういう自分に酔ってるだけかもしれないけどそんなの誰にもわからなくてやっぱり悲しいよ。本当のことなんて誰にも分からない。誰が加害者で誰が被害者かとか何が原因かとか運命だとか何も分からない。正しさは無くて自分にとってどう見えるかしかないの。

 私はこれから泥臭く根性があることを武器に生きていきたい。いろんな言葉に惑わされず自分の感覚を信じることを大切にしたい。まだ具体的な言葉にすることは難しくて出来てないけど、もっと自分の中を深ぼって行動していかなきゃと思えるようになった。悲しみを世界から無くすとかそういうんじゃなくて悲しくても大丈夫な世界が欲しい。痛くても大丈夫だし苦しくても大丈夫な世界。酸いも甘いもまるごと満遍なく包み込みたい。地に足をつけなきゃいけないけど理想を手放さないようにしていたい。


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