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「あるに越したことはない」はマチアプだけにしとけ。

「あるに越したことはない」
これは自分がよく使う言葉だ。
ラオスの授業のために持っていく備品はあるに越したことはないし、
自分の彼女は性格がいい、顔がいい、頭がいい人に越したことはない。
デカければデカいに越したことはないし、学歴もあるに越したことはない。

しかし、
「あるに越したことはない」を持ち込みたくない領域がある。
それはスーンでのボランティア活動だ。

今回は、
「あるに越したことはない」
が支援先との依存関係を生み出すことについて述べる。

どうも、しーです!
「急に真面目回来たんだけど」
と思った方、正しい感想です。
本当は
「ツーナイト攻略法」それか
「ピーチミートパイの作り方」
とか書こうと思ってたんだけど、

色々思うことがあったので、
ラストは真面目に書きます。

スーンがスーンじゃなくなる危機感


「歯ブラシ、全部子どもたちにあげちゃっていいんじゃないですか?」

低学年班ミーティングで発せられたこの一言に、私は悲壮な顔を浮かべた。
別に歯ブラシをあげることに対して悲しくなったわけではない。
「何も考えなしで」ものをあげるという考えに至ったことに悲しくなったのだ。
スーンとしてそれはどうなのか。と思ったし、
スーンはもうすぐスーンじゃなくなる。という危機感さえも感じた瞬間だった。

その日食べた夜ご飯は何も味がしなかった。

クラウドファンディングでの鉛筆キャップ


大学2年生の時に、
クラウドファンディングで子どもたちに
「鉛筆キャップ」
をあげるかあげないかでバチバチに4年生の先輩と議論した日を思い出した。

自分は、クラウドファンディングで子どもたちに
「ものをあげること」に対して正直賛成ではなかった。
「ものをあげること」によって
スーン=ものをくれる日本人
とは何がなんでも思われたくはなかったからだ。

しかし、コ◯ナでラオスに渡航できない中で、
ラオスの子どもたちと繋がりを絶やしたくない
という考えには共感していたため、クラウドファンディングに賛同した。

ただ、何回も言うが、
何も考えなしに「ものをあげること」
だけはしたくなかった。それならやらない方がマシだ。
自分は、「もの」を通して「知恵」を子どもたちに与えたかった。
そこで自分が出した1つの答えが、鉛筆キャップだった。

鉛筆キャップが「もの」であることは間違えないが、
鉛筆キャップを使うことによって鉛筆を捨てずに長く使うことができる
という「知恵」を子どもたちに与えたかった。
その想いを全体ミーティングで他のメンバーにぶつけた。

「スーン=ものをくれる日本人」になっていないか?

今回のラオス渡航で、ノンサ小学校で先生交流をさせていただいた際に、
スーンに対して学校の設備を整えてほしいという旨の意見をいただいた。
この意見を受けて、
モヤモヤや虚無感、悲しい感情を抱いたメンバーもいたようだ。

でもこのような状況を生み出しているのは、
私たち自身だったのかもしれない、と一度疑ってみてほしい。
「あるに越したことはない」
という考えから、子どもや学校にものをあげてきていなかったか?

と疑ってみてほしい。

それをせずにただ悲しい気持ちになっているのは、
自傷行為をしているのと同じだ。
もぐらでも地上に帰ってくるぞ。

繰り返しになるが、
決して「ものをあげること」自体を否定しているわけではない。
何も考えなしに「ものをあげる」という行為をしている人がいたら、
それを見つめ直してほしいということを強く伝えたい。

とにかく、考えることをやめないでほしい。
そして、それをミーティングでメンバーにぶつけてほしい。
ほんわかした雰囲気のミーティングもいいけど、たまにはシリアス回も必要だ。
銀魂でも一緒。

「共に考え、共に感じる」
というスーンの理念を忘れないでほしい。

今回は以上です。
老害とか思った方もいたと思うんですけど、目を瞑ってください。
超高齢化社会、みんなで変えていこうぜ。

おわり




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