日本に一時退避しています。
こんにちは、お久しぶりです。ラオスのラオ子です。
JICA海外協力隊としてラオスに発ったのが、2019年1月29日。(太るしかない、と書きましたが、有言実行!しっかり太りました)
1か月間首都で語学訓練を受け、任地に移動したのが2019年3月4日。
そこから、任地で、首都で、ラオス各地で、そして任国外旅行でと、思う存分楽しんだり悩んだりしながら、1年間とすこし過ごしてきました。
ラオスは、比較的政治の安定した穏やかな国。もちろん危険がゼロというわけではありませんが、来年1月の任期満了まで、当たり前みたいにこの場所に居られるんだと思っていました。
だから、今、日本でこうしてnoteを書いているのは、本当に本当に不思議な感覚です。
もうすぐ4月と言っても、ここは滋賀の豪雪地帯のはしっこ。冬の置き土産のような朝夕の寒さには、南国帰りの私にはちょっと堪えます。それに、本来であれば12月ぐらいから薬を飲み始めて症状を抑えているはずの花粉に襲われ、鼻がずっとむずむず。目もしぱしぱ。体中かゆい。我慢、我慢の日々です。
さてさて、ここ最近の話をします。
3月12日から20日まで、3名の帰国隊員の最終報告会や、お見送り、ラオスの企業家向けのワークショップの見学などの予定があり、ずっと首都に居る予定でした。しかし、上京前にはワークショップがコロナの影響で中止との知らせを受け、ラオスも少しずつ敏感になっているんだなあ、とまだそんな軽い気持ちで居ました。
上京中に、各国のJOCV隊員から続々と一時退避の知らせを聞き、「周辺国への飛行機がクローズする前には私たちも退避かなあ・・・」とみんな少しずつ危機感を抱き始めました。
そして、3月16日に一足先に帰る短期ボランティアの帰国隊員をお見送りした翌日の17日に、私たちの一時帰国が確定したとの知らせが届きました。昨日あれだけ空港がごった返していたんだから、そうだよなあ、そろそろだよなあ。
でも、まだ少し時間がある。いったん任地に戻って、家の契約更新をして、配属先に行って、生産者さんはあの人とあの人には会いにいけるな・・・
なんて思いながら、そのまま首都に滞在し、19日に帰国隊員を2人見送りました。お世話になった二人の帰国なんて本当ならめちゃめちゃ悲しいはずなのに、実際それが悲しすぎるのと、自分の一時帰国がいよいよ現実味を帯びてきて頭が真っ白になっているのと、不安と、ここを離れたくないのと、色々混ざりあってずっと感情が滂沱していて、心ここにあらずなお見送りになりました。
そしてその後、首都滞在期間の予定をすべて終えて、わたしと同じく首都にお見送りに来ていた同任地隊員と一緒に乗り合いバンに揺られていたところ、メールやLINEがばんばん入ってきました。
「首都隊員は明日帰国になった」と首都に居る同期隊員からの報告でLINEグループがざわつき出し、そのすぐ後に「全員、翌日退避」に変わったかと思ったら、今度は「首都隊員は今日退避」と、私たちが首都から任地へ向かう2,3時間の間に目まぐるしく状況が変わって、あっという間に自分たちの帰国が早まり、翌日の晩に決まりました。
13時ごろ任地に着いたら、とりあえずそのまま配属先へ。この日大規模停電で午前中何もできなかったらしく、私のセクションには誰も人が居ませんでした。
一番近い生産者さんだけにでも挨拶していこうと思い、そのままバイクを走らせて近くの村へ。
私が「お母さん」と慕う生産者のソンペットさんは、自分の庭で採れた桑の実をたくさん出してくれました。黒いのはよく熟していて甘い。でも、赤くて酸っぱいのもたまに食べると飽きなくていい。桑の実に塩をちょんちょん付けて食べながら、ゆっくり話をしました。当たり前ですが、首都では「日本人」としか見られないので、ちょっと辛い気持ちになったりしたこともありました。だからこそ、「わたし」を「日本人」ではなく、ただの「わたし」として接してくれるお母さんの優しさが、心の底まで染みました。
お母さんは、赤いもち米を3キロ、桑の葉のお茶、桑の実のジュースを私に持たせて、ぎゅーっと抱きしめてくれました。「日本でもちゃんといっぱいご飯食べて、健康に過ごすのよ。落ち着いたら帰ってきてね、気を付けて日本に帰るのよ」と、マッケン(手首にミサンガのような紐を巻くラオス特有のお祈り)をしてくれました。織り手のおばあちゃんや売り子さんも同じようにマッケンしてくれて、どうしていいかわからなかった気持ちがすとんと落ち着いたような気がしました。ここに帰ってきて、またこの人たちと活動したいと思う気持ちを尊重して、実行できるのは、私だけなのです。
その後、大家さんに「日本に発つ前に契約更新したかったけど間に合いそうにない。絶対に家賃は支払うから、契約書は無いけどこのまま荷物を置かせてほしい」とお願いしたところ、快諾してくれました。大家さんは私のことを本名やラオスネームではなく「ルーク」と呼んでくれます。ラオ語で「子ども」という意味。配属先からは少し遠いけど、この家が私の家でよかった、このお母さんが私の大家さんでよかったなあ。大家のお父さんは「荷物がたくさんあるだろう、バス停まで送っていくから明日の朝呼びなさい。」と言ってくれて、バス停で降ろしてもらったときも「帰りも連絡してくるんだよ」と私を送り出してくれました。
そして、私に縫製を教えてくれている大家の親戚の師匠と近所の人たちは、「日本から帰ってくるときは美味しいお菓子頼んだわよ~~~ははは~~~」と送り出してくれました。同任地隊員が頼んでいたスカートとシンを受け取って、師匠のバンビエンなまりの「こーぷちゅーえっえっ(ありがとう、の意味で、標準語はコープチャイライライ)」を言い合ってお別れしました。
ああ、佳い時間を過ごさせてもらったんだなあ。この場所、この家で。茹でたての甘い甘いモチキビ。大家さんのてんこ盛りカオピヤック。生産者さんのマトゥーム茶にカオトム、マルベリーの実、美味しい手作りヂェオ。縫製の師匠と近所の安い駄菓子を食べながら過ごす、なーんでもない、ゆったりした時間。全部が私の愛しい日常で、全部が私の1年間の栄養になっていて、そして、また帰りたいと思える場所になったのは、この人たちのおかげなんだなあ。
この記事を書いていたら、ソンペット母さんから連絡がきました。「ラオ子が日本に帰った日から、雹が降ったり、風が吹いたり、毎日パニュ(嵐)がやってくる。おかげでマンゴーもぜんぶ落ちちゃった」というメッセージと、緑のマンゴーが大量に積まれた写真。こんなに一度に落ちたら、キンソム(おやつ)で食べきる前に、腐っちゃうね。私が居たら食べるの手伝ったのにな。
それにしても、日本に居ても村の人たちと連絡がとれるなんて。良い時代だよなあ。
私が日本に帰った日からタイの空港での検査が強化されて、本当にぎりぎりのきわきわでの脱出になりました。わたしたちのために奔走してくださったJICAのボランティア調整員さん、現地のナショナルスタッフさんたちには感謝しかありません。
ばったばたで準備して首都にとんぼ返りし、日本では季節外れのKEENのサンダルを履いていることに気づいたワッタイ国際空港。まわりを見たら、ルアンナムターの先生(Twitterのクセが強いので是非覗いてみてください)とコミュニティ開発の先輩もサンダルでした。仲間。
今後の話をしておくと、ラオスや、ラオスー日本の移動のあいだにたくさんの人に接触しているため、2週間は自宅待機することになります。現在、2日目。自分の部屋の整理、読書、英語とラオ語とクメール語の勉強、と色々やってはみるものの、集中力が続かずすぐに飽きて時間をもてあますので、更新が滞っていた&書きかけで力尽きていた記事をなんとか更新していきたいと思っています。しばらくお付き合いください。
日本到着後隔離中のみんな、いまだ任国で日本へ帰る方法を探っている皆、気を付けて帰ってきてくださいね。家に帰ってからもまだ公人です!!
ちなみにですが、ヘッダー画像はヘヴィメタおじさんのメロイックサインではなく(そっちも大好物ですが)、インクルーシブな障がい者支援を目指す「みんなのカフェ」さんで教えてもらった「飛行機」のラオ語手話です。
以前ワークショップをやらせてもらってから、カフェのスタッフさんたちに仲良くしてもらっています。日本に帰る前日、ランチを食べに行ったときにお話していて、「飛行機で日本に帰る」を教えてもらいました。次に使うのは2021年1月。覚えていられるかな。
またここで、ふわふわのパンとてんこもりのサラダとシンプルで美味しいクッキーが食べられるのを楽しみにしてます。待ってろラオス。
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