派遣前訓練は、言語の習得のみにあらず。
去年の今頃、私は福島県にある二本松訓練所に居た。2018年度3次隊、派遣前訓練の真っ最中である。112名の隊員と1名のインターン、そして6名のシニア海外協力隊。さっきまで赤の他人だった人たちと突然始まる70日の共同生活は、楽しくもあり、ときどき息苦しくもあり、なんにせよ刺激的な日々の連続だった。
居室棟の各階ごとに組まれる生活班のメンバーとは、朝の点呼で一番に顔を合わせ、夜の点呼でおやすみを言うまで、読んで字のごとく一緒に「生活」した。初めのうちは、派遣前訓練が始まる前の技術補完研修・二輪研修で既に顔見知りになっていた、コミュニティ開発隊員やバイク隊員のメンバーと一緒に居るのが心地よかったが、班員と徐々に打ち解けて、居室棟に帰ると気持ちが落ち着くようになっていった。食堂下のテーブルが置かれたスペースで待ち構えて通り過ぎる人を捕まえ、退職する時にもらった120本のうまい棒を配りまくる、というコミュニティ開発手法をやる余裕もできた。そんな手法は無い。
15人の生活班の中には、シニアボランティア(以下SV)のHさんが居た。父親より少し年上のHさんは、すぐにみんなから「Hじい」という愛称で親しまれるようになった。
班員と初めてゆっくり話したのは、訓練開始直後の生活班の懇親会。ひとりひとり、名前・職種・派遣先・ひとことコメントが書かれた名札を用意してくれた生活班のメンバーに、何でこういうことがサラッとできるんだろうとひとしきり感心した後、私をのぞいて14人の班員皆と話すべくあちこち移動しながら楽しい時間を過ごした。
そしてもちろん、Hじいのところに行った。この飲み会までは、穏やかで物静かな方なんだと思っていたが、お酒が入るとHじいはとてもよくしゃべった。工作機械というちょっと特殊な職種で派遣されるHじいは、テーブルの上にあった竹串や箸を使って、工作機械とは、モノを加工するとはどういうことかを、熱く熱く語ってくれた。
確かに、当たり前のように使っている箸も串も、誰かが作ってくれたものである。それが機械の仕事だとしても、その機械を設計するのは人間。だから人の知識と技術と経験が要るのだと、気づかせてもらった。ちなみに、緊張をごまかすために慣れないアルコールを空腹に叩き込んでいたため、詳細はあまり覚えていない。(じい、ごめん)
私の倍以上生きて、私が生きてきたより長く仕事をしているHじいは、大黒柱みたいに、どっしりしていて、そしておちゃめだ。訓練言語が一人だけで常に先生とマンツーの授業という状況、私だったら早々に一度発狂していそうなものだが、それでも、各居室棟にある談話室と呼ばれるオープンスペースに居るときのHじいは、ずっと穏やかで、皆とじゃれ合って、でも実は心配してくれていて、居室棟を「ただいま」と言いたくなる場所にしてくれた。脇が弱点の隊員が1列に並んで、後ろから順番に脇下に手をつっこんで全員腰砕けになる、「脇の下センシティ部」という謎の部活(?)もできた。
そんな中やってきたHじいの誕生日。スライドを作って、ケーキを予約して、調達できる材料を使ってコルクボードを飾り付け、皆で祝った。喜んでもらえて嬉しい反面、悲しくもあった。じいの誕生日がきたということは、じいが一足先に卒業していく日がそこまで来ているということだからだ。
私たちは70日間の訓練を受けて修了となるが、SVの方は、1カ月で訓練所を出て、残りは自己学習で赴任までの時間を過ごす。みんなでHじいに見つからない部屋に集まって準備したことも、久しぶりにケーキを食べられたこともあんなに嬉しかったのに、私は寂しくてたまらなかった。
11月1日、そろそろ訓練所に入って1か月が経とうとしていた頃、談話室で隊員Aと2人勉強していたら、職員さんがやってきた。厳しい規律の中集団生活を行うのが、ここでの訓練の目的のひとつだ。私か隊員Aか、どちらか何か「やらかした」のかと思ってドキドキしたが、その話の内容は違っていた。
SVの方の修了式で、送辞を読んでほしいというものだった。
極度のあがり症の私、人前で何かするのは大変なプレッシャーで、修了式が終わるまできっと勉強どころではなくなるだろう。でも、せっかく選んでもらえたんだから、やってみようと引き受けることにした。
一応、当日までは内密にとの事だったため、私はノートパソコンを持って人のいない空き部屋へ向かった。
Wordを開いて何を打とうか考えていたら、訓練所に入ってからの1カ月のことがどばっと溢れて涙が止まらなくなった。ご飯の時間に近くの席になったら、気さくに話してくださったSVさんたちが居なくなってしまうことも寂しかったし、あと1か月で自分たちもここを去るんだなあとはじめて実感して、机の上に水溜まりができるぐらい泣いた。
その精神状態で作った文はめちゃくちゃで、なかなかキマらなかった。何度も音読して読みやすいリズムに直し、その後録音して実際に自分で聞いて伝わりにくいところを直して、それでも自分で気づけないところをチェックしてもらうために、最終的に日本語教師の隊員に見てもらって目から鱗の指導を受け、3分ちょっとの原稿がやっとできあがった。ここに集う人たちは誰もが何かのプロフェッショナルだ。こうやって頼れる人が居ることがどれだけありがたい事か、あの山の中の空間だからこそ実感することは何度もあった。
夜の時間、講堂にはあまり人が来ないことを私は知っていた。講堂にはグランドピアノが置かれていて、たまに、いやほぼ毎日、気分転換にピアノを弾いたり、歌ったりしに行っていたからだ。弾き終わったあと後ろを振り返ったら隊員が座って聴いてくれていたこともあった。少し恥ずかしかったが、最初はずっと一人で弾いていたから、そうやって聴きにきてくれる人ができたことも嬉しかった。
その講堂に、修了式前夜までの4日間ほど、毎晩通うことにした。本番は絶対噛まない、泣かない。泣かずに読み切る。そのために、暗記できるぐらい読んだ。ノンマイクで、「未成年の主張」のように、何度も何度も読んだ。
その後、生活班に戻ってHじいを見たら泣きそうになったので、落ち着くまで部屋にこもった。
SVさんの修了式前夜。最後の練習に向かうと、ステージのセッティングが既に終わっていた。ステージの後ろには、SVさんがいらっしゃるそれぞれの国の旗が立てられていた。ついに明日なんだなあと、実感した。
そうして迎えた本番当日。午前中の授業は全く頭に入らなかった。心ここにあらずな私に、先生は「ぼーぺんにゃん(大丈夫)」と言ってくれた。クラスの皆もごめんね。
ついに、私が送辞を読むときがきた。ゆっくり登壇して会場を見渡したら、最前列に6名のSVさんが座っていて、私に温かい目線を向けてくださっていた。「ああ、大丈夫だ。」と安心した。一呼吸置いて、SVの皆さん一人一人を見てから、送辞を読んだ。途中、会場から鼻をすする音が聴こえて、私のかわりに泣いてくれてありがとう、と思いながら、読んだ。
緊張で頭が真っ白になったうえに泣かないように「無」になっていた私は、送辞を読み終わった瞬間に緊張の糸がぷつんと切れてしまい、自分の隊次と名前を言うのを忘れてドヤ顔で降壇した。やっぱり詰めが甘い。私はとことん、詰めが甘い人間である。
その後のSVさんからの答辞はボロ泣きで、いままで卒業式でなんども別れを経験してきたはずなのに、そんなもの比べ物にならないぐらい泣いた。
修了式のあとは壮行会。ビュッフェスタイルの、いつもより豪華なご飯をこれでもかと堪能する予定だったが、全然喉を通らなかったし、その後のSVさんから一言ずつ挨拶があったときなんか、しゃがんでいるのも無理になって土下座状態で地面につっぷして泣いた。(あんな泣き方する人初めて見た、とあとで職員さんに言われた。私もあんな泣き方したのは初めてですよ・・・。)
バスの時間、私たちの授業の時間も迫っていたためゆっくり別れを惜しむことはできなかったが、最後は班の皆で写真を撮ってお別れした。SVさんたちが居なくなってしまったというとてつもない喪失感と、自分の役目がやっと終わったという安心感から、午後の授業は放心状態。午前中と比べ物にならないぐらい何も考えられなくなっていた。ラオ人の先生は、「ぼーぺんにゃん(大丈夫)」と言ってくれた。先生、再びありがとうございます、そしてクラスの皆、再びごめん・・・。
SVさんの修了式でもこんなだったのだから、自分たちの修了式なんてものはもっと酷かった。訓練所を去る10日程前からいよいよ耐えられなくなり、生活班の年下二人が楽しそうに雪だるまを作っているのを見て泣き、みんなでコーヒー飲める時間もあと何回だろうと豆を挽きながら泣き・・・毎晩点呼の時間まで音楽室に引き籠って、泣きたい気持ちを鍵盤にぶつけて音で泣いて、結局最後泣いた。(のちに医療用語で”感情失禁”という言葉があると知り、こういう状態のことではないだろうかと思った)
自分が訓練所を出てから、Hじいとは2回会う機会があった。そしてその時は笑ってお別れすることができた。そういえば住んでいるところも近いし、元気に帰ったらいつでも会える。隊員同士の「また2年後!」は、同窓会みたいな感覚の「数年後に会おう」ではなく、「2年間、無事で居てね」「健康で帰ってこようね」が込められている、と私は思う。Hじいと最後にお別れしたときも、「また2年後!」を言い合った。だから私は絶対に、もう二度と、絶対に、入院なんかせずに健康で帰りたいし、みんなにもそうであってほしい。
送辞で読んだ通り、SVさんたちが去った後、もう個室にじいが居ないのかと思うと、めちゃめちゃ寂しかった。でも、そのおかげで、残りの訓練をそれまでよりも丁寧に過ごせるようになったようにも感じたし、訓練生活に慣れ始めて少しダレていた気持ちが一気に引き締まった。「あと70日もある」が、「もう1か月しかない」に変わった瞬間だった。
1か月一緒に過ごしたSVさんたちがそれほど大きい存在だったんだなあと思っているのは、私だけではないはずだ。それぞれの生活班に、語学クラスに、それぞれのSVさんとの思い出がいっぱいだ。普段は同じ目的のために集団生活をする仲間のような存在でも、積み上げてこられたものは大きく、それをふとした時に感じると「やっぱりSVさん・・・パネぇ・・・」と思ってしまうのだ。
Hじいは、愛情に満ちた、5班のパパだ。(じいなのかパパなのかどっちだよ)照れくさいから、わざわざ本人には言わないけど・・・。
去年と同じ文ですが、自分のためにもう一度贈らせてください。
”国際協力の道を進む大きな決意をされた先輩がたと過ごした日々は、私たちにとって一生の財産となり、これから終了までの1カ月と、その先の長い長い2年間を支えてくれる、かけがえのない宝物となることでしょう。”
いま、本当にその通りになってます。
”どうか、その力強いまなざしと大きな背中で、私たちの前を走り続けてください。"
そして、これからも、どうぞよろしくお願いします!
もうすぐ誕生日やなあと思ったので、訓練のときのこと思い出してあれこれ書いてみました。
もちろん、派遣前訓練は、与えられた課題をこなす事も大切だけど、こういう血の通った思い出が自分を支えてくれるんだなあと、ひしひしと実感しています。あ~もうダメだ~~~何にもできない~~~~ってなったら、班で作ったGooglePhotoアルバムを開いたらなんか頑張れる気がしてくるから、本当に不思議なんだ。みんなありがとうコープチャイ。
そんな心の寄りどころみたいな場所を作ってくれた"Notre pere(私たちのお父さん)"、フライング誕生日おめでとう!
これからもよろしく頼んまっせ。