私のカルチャーショック②勇気をふりしぼらないとお肉を買えなかった頃のこと
昨日の記事で、5年前の私がそれと知らないでもがいていたカルチャーショックについて振り返ってみた。今日はそんな中でも避けられなかった英語環境とその時出会ったエッセイを紹介したい。
家に引きこもりがちな私でもどうしても英語を話さないといけなかった場面、それは近くのスーパーで肉や魚を買うというザ・主婦の日常ミッションだ。当時住んでいた場所の最寄りのスーパーは、パック詰めされた肉や魚も少しあるとはいえ、多くはカウンター越しに店員さんに欲しいものと量を伝えて包んでもらわないと購入できない。
ガラスケースのこちらと向こうは光の屈折で見えないのか、これと指差す常套手段は通じなかった。「〇〇をXパウンドください。」これが通じないことには欲しいものは手に入らない。たったこれだけのフレーズなのだが、聞き取ってもらえなかったり、向こうが聞き返してきたことが聞き取れなかったりミスコミュニケーションはしょっちゅう起きた。
自分の英語が通じないという劣等感と恐怖。のちに授業で出会ったエッセイの中で、筆者のBernadete Piassaがこれと同じ葛藤について書いている。
全文を読む Half a Pound of Ham by Bernadete Piassa
かなりざっくりになってしまうけれど日本語にするとこんな感じだろうか。
(以下、訳は引用者による。)
アメリカ人ではないということ。別に国籍のことを言いたいんじゃない。自分の発する英語が通じないということの恥ずかしさ、苛立ち、そして孤独感。ハムを買うというその簡単な日常のタスクですら、自分のアイデンティティーを脅かす。私が当時感じていたことをこのエッセイは言葉にしてくれていた。
この一節の後も、共感ポイントは続く。自分の訛った英語のせいで一発で周りに「外国人」として認識されることへの苦悩。ジャーナリストであり三児の母であり店のすぐ近くに住む住民である自分ではなく「外国人」として見られることへの疲弊。適切な言葉もジョークもわからずこの場所に所属していないことへの逃れようのない孤独感。これらはすべて当時私が怖がっていたことだった。
「Can I get a pound of chicken thigh?」というフレーズを頭で何度も復唱して心の準備ができないと鶏もも肉が買えなかった自分と重なり、言葉にできない葛藤を代弁してくれているような気さえした。そして英語が通じないことへの不安感を感じているのは私だけじゃないという事実が、臆病な自分を恥じて自分で自分を追い込んでいた私を少しだけラクにしてくれた。
あれから4年ちょっとたった今改めて読んでみても、いいエッセイだなと思う。短い文章の中でアメリカに移民として住む者の心境として言い得ている。
しかし、それだけの歳月が経って、不思議と当時ほど強くは共感していない私もいたりする。それは、私が鶏もも肉を買えるようになったからなのか。yesでありnoだ。
彼女が大嫌いだと書いていた”Excuse me?” 、このフレーズを恐れることがなくなったからなのだろう。こちらの英語が通じなくて聞き返されることに恥ずかしさも自己嫌悪も感じる必要などないとわかったから。単純に周りの騒音で聞き取れないことだってあるし、私の訛りが原因だったとしても言い直せばいいだけ。訛りがある私が悪いわけでも、聞き取れない店員さんが悪いわけでもなく、ただちょっと丁寧にコミュニケーションを取る必要があった、それだけのことだと思えるようになった。
アメリカでの生活に慣れるのも、自分なりに文化や人を理解するのも、そしてそれらを通して自分自身について考えることも、時間のかかることで、今もそのjourneyのただ中だ。それでも、鶏肉を買うのが恐怖のタスクだったカルチャーショック下の私が通っていたdown pointは今ちゃんと学びと糧、そしてちょっとした笑い話にすることができている。