不完全でいいということ──私がnoteをはじめた理由②
たくさんのブログやnote記事が溢れる今、なぜ自分がわざわざ時間を使って「書く」ことをするのか──前回の記事に続いて考えたことを書きます。
私がnoteをはじめた理由①はこちら https://note.com/languageandlife/n/ned05cb405023
前回書いたとおり、発信スキルをあげたいという目標だったり、学んだ知識を私なりに噛み砕いて必要とする人に届けたいという気持ちだったり、と理由は一つではないのですが、もうひとつ、ちょっと大げさで、でも真面目な理由があります。
それは、英語を通した自己成長を私自身が体現したいということ。
アメリカ大学院に通っている、というと「英語ペラペラなんだね!」と思われることもあるのですが、小さい頃から英語を習った訳でもなければ、留学したこともなかった、日本で育ったただの日本人でした。英語はといえば、なんとなく好きな教科だった、海外に憧れがあった、ことくらい。
その「どちらかといえば得意」な感覚も、アメリカに住みはじめて木っ端微塵に。笑 聞き取れないのも怖いし、言ったことが伝わらないのも怖い。
英語がもっとできたら…とは思うものの、何をどうやって勉強したらいいのかわからない、続かない。
そしてその感覚は、まだ克服途中と言ってもいいくらいです。
英語を教えることを目指しているとはいえ、知らない単語もいっぱいあるし、ネイティブの話すスピードが聞き取れないこともある。
それでも、とりあえず「今ある英語力」でいろんな場面に飛び込んだからこそ、できるようになったことがあると思ってます。
特に日本人は、「まだそのレベルに達してないよな…」なレベルで飛び込むくらいで、ちょうどよいのかもしれません。
日本の文化では、人との和を大事にし、人を気遣い、謙虚であることが良しとされる傾向があります。それ自体は素晴らしいことだし、他国にも誇れることです。ただ、こと言語学習に関しては、この傾向がネガティブに働いてしまうことも。なぜなら、自分はまだまだだからと、英語を使うことを遠慮してしまったり、努力して上達しても、もっとできる人もいるしと成果として感じることが難しくなってしまうからです。
しかし、語学に終わりはないと言われるように、ここまでやったら「英語ができる」と言える、ここまでやったら自信を持って話せる、というような基準は存在しません。「まだまだ私なんて...」って言っていると、本当に自分はまだまだできてなくて、先は果てしなくて、伸びているかもよくわからない、このままやっていてできるようになるのかもわからない…と途方のない気持ちになってしまいます。
母国語ではない言語を学ぶにあたっては、失敗を繰り返しながら、小さい成功体験をたくさんして、その成果を自分自身で認めて継続していくことが欠かせません。だから、「コソ勉」もいいけど、わからないことは聞けばいいし、まだまだと思ってもどんどん使った方がいい。そして、人と比べてどうでも、目に見える成果でなかったとしても、頑張ったことは頑張ったって胸をはって言ってもいいんじゃないかなぁ?
だから、英語を学んでる人には、完璧なんて目指さないでほしいんです。
完璧じゃなくていいから、1回でも多く勉強したことを使ってみてほしいし、誰かや何かと交流してほしいし、1日でも多く英語のある人生を送ってみてほしい。
勉強途中でいいじゃん。
成長途中でいいじゃん。
それを体現するために、あえて私自分の無知、失敗、荒削りな部分もひっくるめて、経験したことを書いておくnoteにできたらと思います。
この人アメリカに住んでる割にめっちゃ英語できるって訳でもなさそうだけど、まぁなんか楽しそうに勉強してるな、こんなんでもいいんだなって、英語を頑張ってる方が、安心してまた頑張るひと押しになれたら嬉しいな。
英語にしても、人としても、未熟な部分はたくさんあるけれど、そんなありのままの自分で、その過程を楽しみ、英語を勉強している方たちと一緒にその道のりを歩いていきたいです。
一緒に楽しんで学んでくれる方大募集です!