奨励 「名誉を捨てた神」 (新約聖書ピリピ人への手紙2章6から11節)
※総持寺キリスト教会をご訪問させていただいた際の奨励の原稿です。詳しい背景についてはこちらの記事をお読みください。→ 2021年12月5日(日)総持寺キリスト教会
はじめに
こんにちは。大野祐弥と申します。今日はお時間をとってくださりありがとうございます。
私たち夫婦は現在、北米に留学して、聖書の学びを深めたいと願っています。本日は、そのご報告と、皆さまに応援していただけないかという願いのもとで、お邪魔させていただきました。
これまでいくつかの教会をご訪問させていただきましたが、「奨励」という形で機会を設けてくださるのは総持寺が初めてで、緊張しているところです。
本日の奨励のタイトルは「名誉を捨てた神」といたしました。聖書箇所は(先ほどお読みいただいた)ピリピ人への手紙2章6節から11節です。
この箇所についてお話しする前に、短く、自己紹介をさせていただけたらと思います。
イエスとの出会い
私は、高校3年生の時に初めて教会を訪れました。「自分の生に意味があるのだろうか」と問うようになったのがきっかけです。安心を得たかった私は、聖書のこともほとんど分からないまま、神さまを信じることにしました。
大学に入学後、教会に通って聖書を学ぶようになりました。結婚してMB教団に移る以前、私は箕面市にある、日本同盟基督教団の箕面めぐみ聖書教会という教会に通っていました。
そこで聖書を学ぶなかで、自分の生にはイエスさまが命をかけられたほどの意味があるのだということを教えられ、クリスチャンとして生きていきたいという決断が与えられました。そして大学2回生の春に洗礼を受けました。
その後、大学生活・教会生活を送る中で、イエスさまの福音を伝える者になりたいという思いを与えられ、今に至ります。
聖書翻訳
大学院に在籍中、皆さんもお使いの『聖書 新改訳』の翻訳研究会というものに参加する機会が与えられました。
新改訳は、2017年に新しい翻訳が出版されましたが、次の改訂に向けて、今も1年に2回のペースで研究会が持たれています。
そこで翻訳委員の先生方――牧師や神学者、言語学者の先生方の研究発表を聞く中で、聖書の奥深さを教えられました。
同時に、聖書翻訳にはまだ課題があるということを知り、聖書の学びを深めたいと思うようになりました。
新約聖書の背景の研究
また私は、イエスさまとその弟子たちが生きた社会の「文化的背景」にも関心があります。
イエスさまが、またその使命を受け継いだ弟子たちが福音を告げ知らせたのは、どのような世界だったのか。
新約聖書の世界(1世紀ローマ帝国)には、以外にも、日本と似ているところがいくつかあります。
第一に、多神教的な世界観が根底にあったこと。使徒の働きや手紙にもいくつか言及がありますが、当時のローマ帝国では、アルテミスなど、ギリシャ神話の神々が信仰されていました。日本で八百万の神々が信仰されてきたのと似ています。
第二に、キリスト教徒が少数派であったこと。4世紀になってローマ帝国の国教になるまで、キリスト教徒は社会の中で圧倒的な少数派でした。
そして第三に、〈恥と名誉〉の価値観が人々の生活を支配していたことです。
〈恥と名誉〉と日本での宣教
日本での宣教において、この〈恥と名誉〉の価値観を理解することは非常に重要ではないかと、私は考えています。
なぜなら私たちは、「恥」が支配する集団主義的な社会で生きているからです。
学校・職場・結婚・家庭・ご近所付き合いにおいて、私たちが周りの目を気にせずに生きるのは、難しいように思います。
学校であれば、成績は優秀か、またいわゆる“カッコイイ”仲間たちとつるんでいるか。
職場・ご近所付き合いであれば、名のある企業に勤めているか、どれくらいの収入を得ているか、どのような役職についているか、立派な家に住んでいるか・・・
というようなことが、その人の価値を決める物差しとして用いられることがあります。
多くの人が、私ももちろんそうですが、世間の目を意識しながら、恥をかかずに済むように、人から高い評価を得たい、認められたいと願って、生きているように思います。
しかし現実には、自分の弱さのゆえに、また置かれた状況のゆえに、恥をかくことが多々あります。
聖書における〈恥と名誉〉
聖書の世界にも、自らの失敗のゆえに、また生まれた境遇のゆえに、世間から見下されている人々がいました。
遊女、取税人、異邦人、罪人・・・などの名称で呼ばれていた人々です。
そのような人々のもとに、イエスさまは積極的に足を運び、寄り添われました。
そんなイエスさまのことを「大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間」(ルカ7章34節)と呼ぶ人たちがいたことを、福音書は記録しています。
名誉からは程遠い、侮辱のことばが、イエスさまにも向けられていたのです。
のみならずイエスさまは、恥の極みとも言える十字架刑を受けられました。
十字架刑は、苦痛を与えるだけでなく、受刑者に屈辱的な死を味わわせるための刑罰として、ローマ帝国が好んで用いていたそうです。
服を剥ぎ取り、裸にし、唾をかけ、罵声を浴びせる。文字通り、屈辱的な公開処刑です。
「ここに架かっているのは、帝国への反逆を企て失敗した愚かな男。こいつのように惨めな死を遂げたくなければ、反乱など考えないことだ」
そのようなメッセージを伝える道具としても、十字架刑は用いられていました。
ピリピ書2章6節から11節より――キリスト詩
さて、そんなイエスさまの生涯を要約的にまとめているのが、本日の聖書箇所であるピリピ人への手紙2章6節から11節です。
よく見てみると、6章から11節は、それ以前の5節(厳密には4節)までとは違い、1行ごとに改行されていることに気づきます。
これは、原文のギリシャ語テクストでこの箇所が「詩文」――日本語で言えば七五調や五七調のようなものでしょうか――で書かれていた、もっと言えば、賛美として歌われていた可能性を示すサインです。
「キリスト賛歌」や「キリスト詩」(Christ Hymn)と呼ばれています。
もう一度お読みしたいと思います。せっかくなので今度は別の訳――詩文らしさが滲み出る、文語訳で読んでみたいと思います。6節から11節です。
人間の名誉の回復
後ろめたい過去を持つ、恥を負う私たちのために、イエスさまは、神という名誉に満ちた立場を捨てて、しもべの立場にまで身を低くして、恥に満ちた十字架の死にまで従われた。
ご自身の名誉を捨てても構わないと思うほどに、私たちのことを、価値ある存在と認めてくださった。この事実に、私は心を打たれました。
イエスご自身の名誉と引き換えに、私たちは「神の子ども」という肩書きを与えられました。
僕自身あまりピンと来ていないところもあるのですが、「王族の子ども」みたいなものと考えてよいかと思います。特権的な、名誉ある肩書きです。
神の名誉の回復
さて、奨励のタイトルを「名誉を捨てた神」としましたが、神はご自身の名誉をどうでもいいもの、捨てたとて痛くも痒くもないもの、と考えておられるわけではありません。
ピリピ書のキリスト詩の結末部分はこう結ばれています。「すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」
イエスが名誉を捨てられたことは、巡り巡って、神に栄光が帰せられる――すなわち、神の名誉が回復されることでもある、というのです。
では、その名誉はどのようにして回復されるのでしょうか。
神さまの名誉は、私たちの生き方を通しても回復され得るのではないか。
今回この箇所を読んでいて、そのような気づきを与えられました。
というのもパウロは、キリスト詩を導入する直前に、次ように書いているからです。4節と5節。
先ほどのキリスト詩は、ただイエスさまがなさったことを詩的に表現するだけではありません。
それを口ずさむ者たちがイエスさまの姿を思い起こし、その生き方に倣うようになるために、パウロが引用したもの、ということです。
4節にある「自分のことだけではなく、ほかの人のことも顧みなさい」という生き方を実践されたのが、他ならぬイエスさまご自身でした。
「そのイエスさまの思いをあなたがたの間でも抱くように」と、パウロは励ましているのです。
神は、全く無策に、ご自身の名誉を捨てたわけではありません。
ご自身の名誉を犠牲にして、人間の名誉を回復し、今度はその人間を用いて、ご自身の名誉が回復されることを意図しておられる。私にはそのように思えます。
では、私たちに何ができるのか。
パウロが促している通り、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みるという生き方を通して、ではないでしょうか。
自分の利益に固執せず、他者のことを顧みるクリスチャンを見て、「あの人たちは不可解なことをするものだ」と訝しがられる。
なぜそんなことをするのかと問われれば、「他ならぬイエスさまが、ご自身の利益や名誉に固執せず、私たちのことを顧みてくださったからだ」と答える。
それを聞いた人たちが「あの人たちが信じている神はすごいらしい」と驚き、そのようにして神の名誉も回復される。
もちろん、現実はそんなに甘くないとは思います。イエスさまがそうであったように、誤解にあうことも多々あります。
ですが実際に、災害支援の現場ではそのようなことが起きているーークリスチャンの働きがその地域で認められ、神さまに期待する人たちが起こされている、ということも耳にします。
神さまが見せてくださる奇跡に期待して、自分もまたイエスさまの姿に倣うことができるようにと、祈りつつ歩みたいと思います。
ご支援のお願い
今日、聖書の話に入る前に、日本に生きる人々は〈恥と名誉〉が支配する集団主義的な社会で生きている、という私見を述べました。
そして聖書の世界も、〈恥と名誉〉に満ちていました。
聖書の世界と、日本という宣教地とを、この〈恥と名誉〉という考え方が結びつけてくれるのではないかと考えています。
北米の神学校に、聖書における〈恥と名誉〉というテーマに取り組んでいる研究者がおられることが分かりました。
私はその大学に留学し、このテーマに向き合い、そこで学んだ成果を日本の宣教に生かすことができればと願っています。
おわりになりましたが、もし、私たちの留学を応援したいという思いを持ってくださる方がおられたら、お祈りとご支援をいただけましたら幸いです。
今日は機会を設けてくださり、ありがとうございました。お祈り、よろしくお願い致します。
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