時を待つ
正しく物事を判断したり見通すことができる人とできない人がいて、でも正しいことを伝えたとしても伝わらない、逆に間違っていると勘違いされるようなことがあります。
そんな話を、友人であるお客さまとしました。
自分は昔からそんな経験をしてきたから、彼女の言うことがよく分かります。
多数が正しいと思ったり、情が優先されたり、ただ気付けていなかったりします。
正しいことが罷り通るわけではないと知り、そんなときは黙って放っておき、自分は距離を置くのが一番だと、経験してきてそこにたどり着きます。
だからといって理解が浅いこと、正しく見通せないことが悪い、とは言えないです。
ただ、そうなんだな。違っているんだな。
いろんな人がいて、いろんな立場がある。
そう思ってそっとしておく。
すると、時間が経っていくうちに本当のことに気づきはじめる人が増えていきます。
そのような現象はいろんなところできっと起こっていて、いかに裁くか、いかに裁かずにいられるか、を試されているようなことなのかと思います。
時を待つ。
経験して学んできたことです。
そして自分がどういられてるか、を見つめます。
何か偏っていないか。
裁かずにただ気づくだけでよくて、そこから気づいたことをどうしていきたいのか、に向き合います。
変だと思うことはいっぱいある。
でもそれは行きついた先のどん詰まりに何かが起きて、違っていることに気づいて何かが変わっていく。
自分自身が経験して回り道をしてきたから、そう思えるのかもしれません。
すべてがわたしをつくる材料です。
友人のヒーリングでは、間をあける、余白を作る、間隔を取るというようなメッセージがやってきました。
出来事と自分自身を観察します。