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永田の登り窯草刈り2回目

🍵明治期横浜の天才陶芸家宮川香山のために何かしたくてたまらないnoteにようこそ😆
🍵ついに喉風邪が治りました!まだカラ咳がたまにでるのですが、ほとんど回復といっていいでしょう😆嬉しいので爆笑絵文字😆

今回は9月28日に行われた、永田の登り窯の草刈りカレーお話会イベントに参加してきました。有言実行です💪💪

手持ち鎌やら剪定バサミで、2時間ノンストップでした。皆さますごい体力と精神力🤩
私はすっかりへとへとになりました💦

概要は登り窯の保全をしておられる団体の会報からご覧くださいませ。

(代表の堀木さんから記事の依頼を受け、ワタクシ3ページ目の文章を書きました)

美味しいご飯の後は、私の心待ちにしていたメインイベント、30分強の荒井さんのお話です。荒井さんは、以前お話を伺った、荒井陶器工房の荒井実さまのことです。

次々にアイデアが溢れてくる荒井さんのお話は、エキサイティングでためになる、興味深い内容ばかりです。沖縄の窯のご様子や焼成の実際の手段や、井上良斎の作品の考察や釉薬の組成まで、多岐に亘ります。
以前お話を伺った内容と重複する部分も多少ありますが、文脈上削らずに、読みやすいよう話題を再構成して活字に起こしました。

目次からお好きな部分をお読みになれます。

導入

「登り窯に関わるということは、草刈りは欠かせない仕事。
3連窯、つまり3つの焼成室(ふくろ)がある井上良斎の登り窯においてもそれは必ず行われていただろう。焼成の動線を確保する。足元の雑草を綺麗に取っておくというのは重要な作業だ。
自分の修行した読谷村の窯では、草刈りをしょっちゅうやっていた」

自己紹介

「雨の降っている時、窯の中で棚板の掃除をしている時が、人生で一番幸せな時間だった」

個人的に一番好きなお話です。陶に没頭するお方というのは、日常のなにげない美しさに気づく伸びやかな感性をお持ちなのです。こういうエピソードが、陶芸家らしく情感があって素敵です。

「沖縄に修業する事になったきっかけ。
1992、3年まで、施工測量の仕事をしていた。当時は働くほどにお金がもらえた時代だった。自分の視野を広げる目的で、国内外をあちこち旅行していた。
1994年 23才。沖縄へ。一週間過ごしたら、大好きになって、単身沖縄に移住。
測量の仕事をしていて良かった。なぜなら沖縄の、一般人は入れない山野に入れる。うち捨てられた畑や基地の中、炭焼き窯の跡、戦時後の恐らく文化財レベルの古いやきものを見ることができた。それでやきものに興味が湧いた。たまたま求人広告を見つけて、陶芸の世界に飛び込んだ」

これ前回もお話されていたんですが、今回はもっと具体的にメモが残せたので良かったです。ちなみに、施工測量のお仕事は、それこそ山野に踏み込む、バリバリ力仕事らしくて、体力的にもキツイので転職を考えていたそうです。

「沖縄の募集を見てすぐに弟子入りした。弟子にはすぐに成れるが、適性があるのかしばらく様子をみるようだ。
粘土づくりからやらされ、一カ月経ったころ、師に「やる気はあるのか?」と尋ねられ、あると答えると、「これからは先輩たちより先に来て、掃除やお茶くみの仕事をするように」と言われた。一カ月でやっと、師にとって通行人以上になったのだという。
ただ、自分は修行の成果がなかなか出ず、不合格と言われ、土づくりや脱気する機械に粘土を入れる仕事に降格させられた。
自分は正直意欲が強い方ではなかったが、ろくろが引けるようになって、続けようと決心した。すぐに上手くなる人はすぐやめるというケースもある。自分は大器晩成で良かったのかもしれない」

荒井さんがろくろを引けるようになったきっかけが、降格です。降格で土づくりの仕事になった時土錬機の傍に師匠のろくろがあった。結果師匠の作業を間近で見ることができ、学ぶことができたそうです。

沖縄読谷村の窯

「70年代前半期に、弾薬など戦争ゴミを捨てる侘しい場所だった所に、当時の読谷村の村長だった古堅宗光氏が金城次郎と合意して登り窯を作った。その数年後に当時の新しい村長であった山内徳信と大嶺實清による登り窯構想が起こって、4人の陶工(大嶺實清山田真萬玉元輝政金城明光)による9連窯の築窯が1978年に始まる。初窯は1980年頃だったと思う。これが、読谷山焼の始まり。この流れがあったからこそ、北窯の13連も出来たし横田屋窯も出来た。弟子たちが付近に窯を集結させることで陶の市場が生まれ、観光客を呼び込み、壺屋に次ぐ沖縄のやちむんの新たな産地は誕生した」
「沖縄の読谷村の窯では、化粧土をかけ掻き落としをして透明釉をかけ、一度だけ焼くという生がけという製法を採るのだが、その工程を見てほしい。知って欲しい」
「9連の(ふくろの)窯を、4つの工房が分け合って使っていた。
ひとふくろを3、4人で受け持つ。(2、3人+師匠)。連係プレーで、みんなで頑張って火を見る。
窯にはそれぞれクセがある。5番から上の焼きがいい(火がよく通る)。
なので師匠が「もっと低い温度で溶ける(釉薬をかけた)ものを下に入れなさい」という指導をしていた。
24時間、琉球松の丸太を入れて温めて、下から6時間に1ふくろずつ焼き、火を上につなげていく。丸3日焼いて3日間さまして、4日目に窯出しをする」
「登り窯というのは半倒炎式、つまり上がった炎が倒れながら傾斜に沿って斜めに移動していく。炎が次のふくろへ上がっていく際、その火を絶やさないように下からひっきりなしに小枝をくべていくのである。
火がゆらゆらしている時とは、酸素が少ないということ。酸素が少ないとは、還元がかかり始めているということ。この状態になると師匠に怒られる。還元が掛かると陶肌が灰色になる。目標である真っ白な釉調にならない。酸化焼成のために枝をくべ続けなければいけないので、勤務時間をオーバーしながらみんなで頑張る。
6、7時間、1235℃まで上げてキープ。(ねらし)
その際、読谷村窯では温度計を使わない。
色見穴に楊枝立てを置いて、釉薬の溶け具合で温度を判断する。
釉薬のかたさが工房によって違う。
窯の焼き上がりは土で閉める(穴を塞いで温度を保つ)」

「シーサーはろくろでパーツを作る。一対のセットで作るものなので、大きさを揃えたパーツから作る方が、より正確に均一な一対を作れるからだ」

「師匠は、龍とかシーサーが強かった。師匠が酒甕に龍を巻く意匠はとても美しかった。
師匠は弟子が帰った後にコッソリ作っている。なので、こっそり夜に忍び込んで見に行った。
師匠にはバレなかった。
師は夜型の人だった。朝は寝ているか酒を飲んでいた。
やきものをやっている人というのは、個性的な人が多い。
壺屋の他の窯の弟子たちといずれかの工房に集まって話をしたりするのだが、自分の師に限らず、陶芸家ってのは、自分の作業を弟子に見られたくないものらしい」

陶芸豆知識

「登り窯と機械窯は、明らかに上がってくるものが違う。
機械窯に入れたつまらないものは、つまらないまま。
登りで焼くと、つまらない物も面白くなる。
機械は均一な仕上がりになるが、登りで焼くと例えば2ふくろ使って焼いたとしても、販売できる完成品は半分の1ふくろ分取れるかどうか。
窯ぐそという上から落ちて来たゴミが付いて点に残り、欠落品として廃棄する場合も多分にある。逆に、かき分けという技法で化粧土を半分に分けてかける作品の中に、火の当たりで赤さびのような窯変がでることもあり、このような奇跡的な美品も、天任せで生まれるのである」

「沖縄では、さとうきびの釉薬がある。きび灰は、藁灰に近い。白い乳濁色。
真鍮の粉ともみ殻で作るのは、緑釉。錆たような色が出る。800~900℃で炭化させる。これはトルコ釉に近い組成」

井上良斎の窯

井上良斎の登り窯で再度焼成をするのは可能かと質問する参加者がいましたが、焼成時にモウモウと黒煙が上がる。これが、都市部で登り窯が出来ない理由の一つ。この黒煙問題は大分深刻なようで、荒井さんは難しいだろうと例を挙げて説明していました。

「付近の洗濯物が真っ黒になる。洗濯物を取り込んでくれと周知することはできたとしても、壁を煤で汚してしまうのは避けられない。登り窯というのは頂上の窯の煙突から煙が出るが、風向きによって思わぬ場所まで被害が拡大する可能性もある」

「3代井上良斎の登り窯は、横に小さい窯を併設している。年齢が上がってきて大きな窯を回せなくなると、近くに小さな窯を作るのはよくある話である」

「井上良斎の母屋には当時の作品が残されていて、いくつか譲ってもらったものもあるのだが、井上先生の作品は、彼が民藝の作家ではないということを示していた。
一つ一つの作風がバラバラで、民藝ちっくなものもあれば、そうでないもの、西洋ちっくなものや花鳥風月を象ったもの。
アーティストであれば色々作るが、民藝の現場に行くと中々ない。
こういう井上先生のような人が近くにいると元気が出る」

「陶芸というものが道具を沢山必要とすること、多くの工程(素焼きと本焼の焼成温度の違いや、10~12%縮むことなど)があることなどを、次世代の子どもたちに伝えていきたい。井上先生の窯は綺麗に残っているので、できれば、今後は周りの草刈りだけでなく、登り窯の中も掃除して棚板も置き、実際にどのように作品を配置していたのかも見せる事ができたらいいのだが」

所感

皆で会場の後片付けをした後、荒井さんとお話しました。

・あれから私は、荒井さんにご紹介いただいた陶芸教室にボランティアスタッフとしての採用が決まり、実際にどのような業務内容になるのか、あらかじめ簡単にご説明をいただきました。講師の仕事が実際どのようなものなのかもちょこっと伺いましたが、とても高いコミュニケーション力と、臨機応変な対応力、意外なほどの事務量の多さなど、陶芸教室の実際が知られて良かったです。このお話や、実際に働く事で得る情報が、今後の活動に活きてきます。

・昔は民陶や沖縄の窯元の精神を知ろうと本を読み漁ったけども、今は実際の技術体験の方が大事だと考えている、と荒井さんは仰いました。君も今情報を詰め込んで頭でっかちになっていない?まずは土を実際に触って得られるものを大切にしてみたらいいんじゃない、とアドバイスをくださいました。

・民藝は新しい言葉。沖縄に古くからある窯を当てはめるのは違うかもしれない。
民藝運動の先鋒者柳宗悦の本を2冊読みましたと私がご報告した時に頂いたお言葉です。
荒井さんは常に、沖縄の陶がどのようにあるのか、また分類すべきなのかを深く考えていらっしゃるようでした。

・柳宗悦は老荘思想にも傾注していた?
私は諸子百家の頃の格言辞典を幼少時母から譲られ、老荘思想に傾倒しているのですが、柳宗悦の考え方は、とても私の人生観に合致するので感激したとお話しました。無用の用や清貧の考え方は禅にも通じる所がありますが、荒井さんによると、柳宗悦は真言宗の信徒だったそうです。


荒井先生、お忙しい中原稿をお読み下さりありがとうございました!!


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