奪われるだけが人生だと

 救いも祈りもない。飲み込んだ言葉は吐き出せない。黒い塊になって、ずっとずっと胃の底に沈んでいる。期待されるのは、押し潰されるほどに辛く、何も望まれないのは、諦めのようで虚しい。そういう子どもじみた我儘に辟易している。じっとりと重たい空気に汗が垂れてきて、息を吐きながら拭えば、袖口が黒く汚れた。この行動も、そういう最早期待されていない物事の成れの果てなんだろう。仄かな湿気の香りと雲の様相に、雨が降らないうちにと、スコップにもう一度力を入れる。穴を掘り進める自分を、懐中電灯の光だけがぼんやりと照らしていた。

 ざりざりと軍手の中で手が痛くなって外すと、赤く血が滲んでいた。休憩にしようと穴から這い出し、飲用に持ってきていたミネラルウォーターですすぐと、ぴりっとした痛みが走った。手のひらの皮が、繊維に擦れて剥けているようだった。車に絆創膏があったような気がしたけれど、疲労感で動く気になれず、そのままそこに横たわった。見上げた空では、大きく月が光っていて、気づけばもう雨の匂いはしなかった。右の手のひらを翳して、開いたり閉じたりすれば、傷口がひりひりと痛んだ。「もういいんだ。」耳の奥で声が聴こえる。期待でも諦めでもないのかもしれないその声が、ずっと残っている。身体を起こし、また穴掘りに戻った。満月がじっとこちらを見ていて、穴の奥へ光が差していた。

 父は、新月を繰り返すたび、世界との境界が曖昧になっていく、そういう先祖返りをしていた。父方の祖母の家系に在るそれは、いつどのタイミングで発するか分からず、子供のうちに発することもあれば、一生涯発さないこともあった。未然に防ぐことはできず、唯一言い伝えられていたのは、『大きな満月の夜、一等明かりの強い場所、暗い穴の底に現れる蒼い石』が、消失を止めてくれるということだけだった。しかし、蒼い石を見つけたという話はなく、祖母の家では『先祖返り=月に迎え入れられる尊いこと』とされていて、誰も石を求めようとはしていなかった。発症者はただただ、緩やかに穏やかに、消失へ向かうだけだった。
 俺が二十歳になった年、初めて父に症状が出た。五つ年の離れた妹はひとしきり泣いてから、仕方のないことと理解したようだった。それがまるで美しく尊いように映っていたかどうかは分からない。ただ俺はどうしても納得がいかず、蒼い石を満月の晩のたびに探しに行った。がむしゃらに穴を掘り、そうして四年が経っていた。
 ある新月の日、風を浴びながら、リビングで父が庭を眺めていた。妹が花壇に新しい種を撒いていた。ぼんやり薄くなっていく父が切なく、どうにもできない自分が歯痒かった。ただ、その横顔がなんだか落ち着いていることだけが、救いのように見えた。
「紗夜は、今度は何撒いてるの?」
「忘れたが、黄色い花が咲くらしいぞ。」
そう答えながら、父はカップを掴もうとした。その手のひらがうまく干渉できず、かたんとカップを倒した。麦茶が机からこぼれ落ち、フローリングを濡らしていった。
「だいぶ進んだな。」
ぼんやりと麦茶が垂れてゆくのを見ながら、父はそう呟いた。それに聞こえなかったふりをして、俺は床を拭いた。
「悪いな。」
「別にいいんだよ。」
「ーーなあ、もういいんだ。」
「は? まだテーブルが濡れてるけど…?」
父の言っていることがわからず顔を上げると、父は笑って、かぶりを振った。
「もういいんだ。だからお前はお前の幸せを生きろ。」
穴を掘ることをやめろと、そう言っているのだと理解するのに時間はかからなかった。諦めではない声だった。それは、はなから期待もしていなかった証拠だった。その後、二度の満月を見送って、その次の新月の日、父はついに透明になって消えた。俺にとっての祈りと期待は、父にとってはただの自己満足だった。

 父がいなくなって、それでも俺は穴を掘り続けた。救いにも祈りにもなり得ない、ただの自己満足だと知っても、満月の夜には、穴を掘らずにはいられなかった。いつの間にか手のひらは麻痺していて、月の光も弱まっているようだった。遠くで、バイクの音がする。夜が少しずつ朝に変わってゆくのを感じながら、それでも掘り続けた。やっぱり、蒼い石はどこにもなかった。

 「兄さん、もういいよ、帰ろう。」
空が白み出し、穴の中で茫然としていると、いつの間にか頭上、穴の縁に妹が立っていた。
「もう、朝になるよ。帰ろう?」
穏やかに笑いながら、妹は穴の中に手を差し伸べた。
「今日の朝ご飯はだし巻き卵焼いてあげるから、帰ろうよ。」
「ああ、それはいいな。」
穴から這い出ながらその手を取った。妹は、土汚れの移った自身の手のひらを見て、幸せそうに笑った。
「兄さんは本当に、私とだし巻き卵が大好きだなあ。」
「紗夜、お前車乗れ。俺がお前のバイク乗って帰るから。」
ああ、そうだよ。という言葉を呑んで返せば、過保護だなあと妹が笑った。

 家に戻り、妹の用意した朝食を取った。嬉しそうに笑う妹を見ながら、次の新月の晩には、妹がどれだけ曖昧になってしまうのだろうかと、そればかりが恐ろしかった。
「なあ、お前さあ、母さんに会いたかったりする?」
「兄さんはいっつも唐突だなあ!」
味噌汁を一口すすって、妹は続けた。
「うーーーーーーーん。会いたくないと言ったら嘘になるけど、でも別にどっちでもいいかもしんない。私の中ではずっと、遺伝子半分もらった人?くらいの存在だし、会っても何話したらいいかもわかんないしなあ。向こうが会いたいなら会うけど、わざわざ会いたいですって連絡するほどでもないっていうか…」
「そうか。ならいい。」
「うん。兄さんが一緒なら、それでもういいの。だから、全部、もういいんだよ。」
穏やかに、嬉しそうに笑った。どうして皆、終わってゆく時ほど、そんなにも穏やかに笑うのだろうか。
「お前も、俺に俺の幸せを生きろとか言うのか。」
箸を持った手が震えている。五つも年の離れた妹に縋り、懇願するようだった。
「言わない。」
毅然とした声に顔を上げると、こちらを真っ直ぐ見る瞳とかち合った。
「私は、言わない。言わないよ、兄さん。私は卑怯で我儘だから、そんなこと言ってあげない。だから一生、兄さんは私と生きるんだよ。」
「そうか、」
「うん。そう。だから、兄さんは夜あんまり出歩かないで、残業も程々にして、家で私とご飯を一緒に食べて。」
「ああ。たまにはケーキも食おうな。」
「うん。チーズケーキね。」
たわいもない約束をしながら、それでも俺は、石を探してしまうのだろうと思った。石を見つけられず、妹が先に消えてゆくことは明白なのに。その先にも、別の場所にも、曖昧な幸せなんてものがあるとは到底思えなかった。妹が卑怯だという我儘は、俺にとっては、甘く美しい期待だった。愛おしく優しい俺の妹。どうして愛おしいものほど、先に手のひらから零れ落ちてゆくのだろう。



 「俺は、紗夜が幸せであることだけを願ってるよ。」「兄さん、私は、もう充分に幸せだよ。」

 妹はずっとずっと、やさしかった。

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