「昭和少年事件帳⑬」小学生最後の夏休みを棒に振った事件!
(はじめに)これは、私が青少年期を過ごした昭和時代の話です。
同じ時代を生きた皆さんをはじめ昭和をご存じない世代の皆さんにも楽しんでいただければ幸いです・・では、事件の始まりです。
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時は小学6年の1学期終盤です。
私の中では既に夏休みへのカウントダウンが始まっていたので心ここにあらずといった日々を過ごしていました。
というのも、中学校に上がると部活とかあるらしいし、自由な夏は事実上これが最後かもという思いもあり徹底的に遊ぶ計画を立てていたのです。
ですが、そんな私の思惑を完全に打ち砕く事件が発生します。
それは学期最後の音楽室での話です。
なお、音楽は担任外の専任の先生から教わっていましたけど、あれって全国共通だったんですかねぇ?
うちの学校の音楽の先生は、白髪まじりで気むずかしい定年前の男の先生でした。
吹奏楽コンテスト入賞請負人の異名を持ったカリスマ先生です。
一方、私はと言うと、小学生時代の教科で音楽が一番苦手で嫌いでした。
歌わせれば音痴ですし、楽器に至っては何一つ満足に弾けないのに強要されるって苦痛以外の何物でもなかったのです。
音楽に命をかけたような先生に対し、私がとった手段は「木の葉を隠すなら木の葉の中作戦」です。
自分の気配を消し去ることに徹していました。
なるべく自分より大きなヤツの裏に隠れ、合唱では完全口パク、合奏でも弾いたふりや吹いたふりで集団に溶け込むのです。
いくら耳のいい先生でも、音を出さなければ分からないハズ・・私だけは完璧なミュートです。
こうして、1学期の音楽ももう少しでやり過ごせると思った授業の終わりかけの時間でした。
“みんな当然知っていると思うが、6年生は秋の運動会でリコーダーを演奏しながらの集団演技を披露することになっている。”
そうです、この学校では6年生全員参加のマーチングが運動会の恒例でした。
先導する吹奏楽部に続いて各クラスのリコーダー隊が行進した後、運動場内で円を描いたり交差したりするのです。
なお、満を持して話し始めたハズの先生でしたが、“あ~その前に担任の先生に確認することがあるので暫く待つように”と、音楽室を出ていきました。
この間、近くにいるモノ同士で雑談が始まります。
同級生の中には当然、兄や姉のいる子がいて恒例行事に詳しいヤツがいます。
“夏休みの登校日も練習するらしいぞ”とか、“あの先生の指導、いつもにも増して厳しいらしい”とか、聞きたくもない情報が飛び交っていました。
「げぇっ、夏休みまであの顔見たくねぇ~なぁ~」・・天敵を前にした私の素直な感想ですが、別に登校日の練習を恐れていた訳ではありません。
大体、座った状態でもまともに吹けないリコーダーを歩きながら吹くなんてできるハズもなければ興味もないし、それに私にはリアル吹いたフリという特技(?)がありますからねぇ~(苦笑)
それにこの時代の子供達は意外と真面目ですので、クラスメートの殆どは当日までに吹けるようになるハズです・・
つまり、私一人が吹けなくても何の問題もないだろうと高を括っていたのです。
そこに先生が戻ってきました。
“はいはい、静かにするように”
“それではここで、リコーダー隊を先導するこのクラス代表の指揮者を発表します。名前を呼ばれた者は前に出なさい。”
そして、一人の生徒の名前が告げられ教室内におぉ~っという、どよめきが走りました。
そしてその中に、顔面蒼白で、目が点になり、両膝がガクガク震えた・・私がいます。
自分の名前を呼ばれた時の衝撃は、それまでの人生の中でも最大クラスだったと思います。
そもそも、指揮者ってヤツが何をするのか知りませんが、クラスに一人だけって時点で私の描いていた他人頼みの世界が音を立てて崩れ落ちたのです。
呼ばれたあと前に出て何か指示されたのか?しゃべらされたのか?まったく覚えていませので、それだけ衝撃が大きかったんだと思います。
なお、後で知った話ですが、全校委員の中から総指揮者が選出され、各クラス(4クラス)からは一人ずつ担任の先生の推薦で副指揮者が選ばれる仕組みだったそうです。
そして、改めて呼び出された5人の指揮者に夏休みの練習スケジュールが配られました。
ガーン!想定を大きく上回る過密スケジュールです・・コレって一体何回あるんだ?
吹奏楽部と指揮者だけの練習日がびっしり、それに加えて、登校日の全員参加の合同練習もあります。
ダメだもう逃げられない、覚悟を決めたというより・・人生を諦めたって言った方が正確かも知れません。
夏休みに入った練習日初日に、先っぽにふさが付いて下に大きな丸い玉の付いている1mほどのデカく太い指揮棒が渡されました。
私達副指揮者のモノより、総指揮者が持っていたのは一回り大きかったので、あっちじゃなくてよかった~って思った記憶はありますが、結局やることはどっちも一緒でした。
練習では全員横一列に並ばされたので前にいるヤツの動きを参考にしようと思っていた私のもくろみはまたしても外れたのです。
こうなると自分自身でしっかり覚えるしかありません・・練習スタートです。
先ず指揮棒の玉の上を右手の親指と人差し指で輪を作って握ります、玉の位置を左胸の20cm前辺りに持って行くと右手の肘から先は真横(水平)になります。
この時大事なのは、残りの3本の指(中指、薬指、小指)をピンと伸ばすことです。
次に右肘の位置を変えずに指揮棒の玉を自分の額の前まで引き上げます。
この時にピンと伸ばしていた3本の指をグッと曲げて玉を包み込むのです。
これを行進と合わせて右足を出すときは左胸、左足の時は額への繰り返しなので単純といえば単純なのですが、指揮棒を斜め45度の位置で保持してぶれないようにっていうのが難しい・・
初日はこれを徹底的に練習させられましたし、家に帰ってからも練習するよう指示されました・・こりゃ~先は長いし、思いやられます。
そしていよいよ行進の練習が始まりました。
総指揮者が先導して吹奏楽部が進み、その後ろを副指揮者4人が横一列で続きます。
本番ではこの後に各クラスのリコーダー隊が続くので少しは様になるんでしょうけど、4人だけだとしょぼいチンドンヤといったところです。
でも本当に苦労したのはこの後です。
総指揮者と吹奏楽部を本部テント付近に残して4人が向かう先はだだっ広いグラウンドです。
しかも4人とも目指す方向が違います・・つまり、たった一人、自分の感覚だけで誰も居ない先を目指すのです。
終着点に目印はあるものの、そこには決められた時間に到達する必要があります、早すぎても遅すぎてもダメなのです。
そもそもリズム感がないから音楽が苦手な訳で、この微妙な感覚が簡単に身につくはずがありません。
朝礼台に立ってマイクを握った先生から散々駄目出しされました。
学校中どころか近隣にまで響き渡る音量で、名指しで怒られる・・それも一度や二度じゃありませんので、いい恥さらしです。
面白がって見物に来ていた同級生連中が笑い転げていますが、こっちはそれどころじゃありません、この後も覚えることは山ほどあるのです。
一体何回グラウンドを歩き回り、何回怒られたのか、カウンター計数器でも持ってなきゃ数え切れないレベルです。
結局この練習は、夏休みを完全に潰しただけでなく二学期が始まってからも続きました。
もう、残された時間は限られています・・本番は目前です。
そして、本番当日を迎えました。
と、ご報告したいところですが、実をいうと本番の出来がどうだったのかあまり記憶にありません。
特に緊張したとか、大きな失敗をした覚えもないので、恐らく無難にこなしたんじゃないかと思います。
なお、付け加えますと、本番は自分達の運動会だけでなく、中学校の運動会と町民総出の大運動会でも披露したので3回あるはずなんです。
結果的に複数回経験したことが本番の印象を薄くしたのかも知れませんが、後の2回は練習で散々歩き回った小学校ではなく中学校のグラウンドだったので何か少しぐらい印象に残っていてもよさそうものですが、それも特筆すべき点は思い当たりません。
苦労した練習のことは覚えているのに、肝心の本番の記憶がないのは不思議ですが、裏を返せば、本番中の私は調教済みの犬かロボット状態だったってことでしょうねぇ~(笑)
夏休みを棒に振った事件(or夏休みに(指揮)棒を振った事件)は、本番3回を終えて完結したことに間違いはないのですが・・一つだけ疑問が残ります。
そもそもなぜ私がクラス代表の指揮者に選ばれたのか?ということです。
もし、選考権が音楽の先生にあれば私が選ばれることは絶対になかったと断言できます。
この話の冒頭でも申し上げたとおり、ワタクシ、音楽の時間はカメレオンかコノハムシのように完全に気配を消していたので網に引っ掛かるはずがないんです!
担任の先生に選考が委ねられたこと、これが私の不幸の始まりであり、大事な夏休みを丸々無駄にした元凶であることはハッキリしているのですが、選考理由についての明確な説明はありませんでした。
6年の時の担任は男の先生でしたが、特別親しかったとか懐いていたなんてこともなかったので個人的な理由でないことは明白です。
勿論、直接本人に尋ねることもできたのですが、終わった後で聞いたところで何の意味もないのであえて自分から聞くことはしませんでした。
ところが、どこにもお節介なヤツはいるもので、“先生に聞いてきた!”って、報告に来たヤツがいます。
“音楽の先生から夏休みの宿題としてリコーダーの練習を指示されたとしても絶対練習してこないヤツを指名したってさ”
理不尽な話だ!って怒ったか?・・いいえ
あ~なるほどね・・その場にいた私を含む全員が妙に納得しました・・・