アルティ・クリシュナンさんによるサティヤ・サイババがいかに愛に飢えているかというお話です。長年スワミに帰依している方々にとっては言葉を失うほど衝撃的なスワミの告白があります。
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プラシャンティ・バジャングループの一員であるBro.アスワト・ナラヤンは、バガヴァン・サティヤ・サイババの神聖な肉体の前で、クリシュナ神が帰依者の家に来てくれるように懇願する聖者プランダラダサの有名なカンナダ語のバジャンであるBaro Krishnaiyya(バーロ・クリシュナイヤ)を歌っていたことがありました。 そのとき突然、バガヴァンが彼を見て言いました。
「おい!この歌の中で、あなたは私を家に呼んでいる。それで、もし私があなたの家に来たら、あなたは私に何をくれるの? 」
それは、Baro Krishnaiyya, Krishnaiyya Baro Krishnaiyya, Ninna Bhaktara Manekeegaという曲の最初の出だし(訳すと「クリシュナ来てください!」)のことを指していたのです。つまり『今すぐあなたの信者の家に来てください 』という意味です。 Bro.アスワトは、ちょっと驚きましたが、気を取り直して彼は言いました。
「スワミ、私はあなたに私のバクティ(信愛)を捧げます。」
スワミは優しく微笑んでおっしゃいました。
「いいえ、家で食べるものが何でも、それを私に捧げれば十分です。」
これこそが、私たちの愛すべき、愛すべき主なのです。彼は愛に飢えているのであって、他の何ものでもないのです。
https://m.youtube.com/watch?v=30Zch4EjNYQ
Bro.アスワトがBro.アニルードと共に、生徒たちの発表会で歌った『バーロ・クリシュナイヤ』のバジャン。(2013年6月23日、ホワイトフィールドのブリンダバンアシュラムで行われた音楽プログラム )
幼い頃のクリシュナ神がバターを盗んでいたという話を、私たちはたくさん聞いてきました。クリシュナの家には十分な量のバターがあるのに、なぜそんなことをしたのでしょうか?
1994年のクリシュナ降誕祭の講話で、バガヴァンはこのエピソードの内的な意味を見事に説明されました。 バターは、神への熱烈な愛で柔らかくなる信者のハートを意味しています。
あるときヤショーダがクリシュナに訴えました。
「自分たちの家にはたくさんのバターがあるのに、なぜゴピカーの家に行ってバターを盗むの?」
子供のクリシュナは答えました。
「お母さん、僕はバターを盗んでいるのではなく、ゴピカーたちのハートを盗んでいるのです。」(スワミはこのエピソードに関連する美しい歌を歌いました)
「彼女らの心は純粋で、献身に満ちています。」と、クリシュナは言いました。
「彼女らのバターには、バターミルクを作るときの献身的な気持ちが込められています。彼女らのバングルの腕輪は、クリシュナの名を歌いながら攪拌している間、時を刻んでいるのです。そうして得られたバターには、ヴェーダのエッセンスが含まれているのです。」
ドワパラユガで主がクリシュナ神としてバターを盗んだとしたら、カリユガでは何をしたのでしょうか?シルディ・サイババは、食べ物を求めて路上で物乞いをしていました。 シルディ・サイババは本当に施しを求めていたのでしょうか?
私はいつも心の中で、尋ねました。
「スワミ、あなたは私たち人間のためにどれほど降りてきてくださったのでしょうか?なぜあなたはシルディ・ババとしてアバターで食べ物をねだりに行かなければならなかったのでしょうか? 」
親愛なるサイの姉妹から得た一つの答えは、シルディ・ババは食べ物を施しとして与えた人々の罪を滅ぼすためだけにこのようなことをしたのだ、というものでした。同じような説明がシルディ・サッチャリトラにも書かれています。
そして、私たちの愛するスワミ、サティヤ・サイババは、ご自身の方法でこの歯がゆい質問に答え、私のハートを満足させることにしたのです。 2017年7月26日の夜、私は、なぜシルディ・サイババが食べ物を乞いに行ったのかを説明する小さなビデオクリップに出会いました。実際、ババが懇願していたのは食べ物ではなく、愛だったのです! ババが懇願していたのは食べ物ではなく、愛でした。
私たちは本当に彼を愛しているのでしょうか? あるとき、バガヴァン・サティヤ・サイババが生徒に個人的なことを話していたのですが、その話の中で、バガヴァンはある例え話をされました。
『あなたが結婚式を挙げるとき、料理を出す順番があります。まず、招待客にすべてのごちそうが振る舞われます。そして、親族が食事をします。その後、近親者と夫婦が座って食事をします。食べ物が残っていれば、結婚式場の従業員や手伝いをしている人たちに、親族のために持ち帰る食べ物を配ります。それでもまだ食べ物が残っていれば、近くの物乞いや貧しい人たちを呼んで食べさせます。その後も、食べ物が余ったら投げて、犬やカラスが来て食べます。 私が愛を求めるときの状態は、このカラスや犬の状態と同じです。人々は、自分が見つけたすべての人に愛を捧げ、私に捧げられるのは捨てられたものだけなのです。』
このように丁寧にバガヴァンが説明して、最後におっしゃった一言で、その学生は涙を流しました。数年前、この話を聞いたとき、私も涙を流しました。私たちは、バガヴァンに自分の愛の残骸を捧げるのではなく、完全な愛を捧げなければなりません。
ある時、ある学生がバガヴァン・サティヤ・サイババに祈りました。
「スワミ、どうか私の信仰を堅固なものにしてください。」
なぜこのように祈ったのかと、バガヴァンから尋ねられると、彼はこう答えました。
「スワミ、あなたに対する私の信仰は時々震えて揺らぐのです。私はそれを崩したくありません。」と答えました。
バガヴァンは微笑みながら尋ねました。
「バンガルー(黄金の魂)よ、お前は私を愛しているか?」その生徒は答えました。
「はい、スワミ。私はあなたを愛しています。」
バガヴァンは言いました。
「それで十分です。信仰は必要ありません。もしあなたが私を愛しているなら、あなたは私にふさわしいのです。 」
これが、私たちの主がいかに寛大で慈悲深いかということです。彼は、私たちから「信仰」さえも求めることはありません。主はただ、私たちの愛に飢えておられるのです 。
1998年のクリスマスに行われたバガヴァンの神聖な講話の中で、私たちが心の中で感じている彼への愛でさえ、私たちのものではなく、彼のものであり、だから私たちはそれを彼に返さなければならないと宣言されました。
『昨日披露してくれたメッセンジャーにサリーを配ったら、
「スワミ、ありがとう 。」とお礼を言われました。私は彼女らを戒めました。
「私に感謝してはいけません。私は第三者ではありません。あなたは、毎日食事を出してくれるお母さんに感謝しますか?あなたは恩を受けた外部の人に感謝するかもしれませんが、私は外部の人ではありません。ですから、決してスワミに感謝してはいけません。 スワミを自分のものだと思いなさい。そうして初めて、あなたはスワミに近づく権利があります。私は自分のためにあなたから何かを望むことはありませんし、自分のために何かを言ったりしたりすることもありません。私は、ただ一つ、あなたの愛以外、何も望んでいません。それさえもあなたの財産ではなく、それもまた私の財産です。 愛はいかなる手段によっても得ることができません。それは神からの贈り物です。この愛という贈り物を神に贈りなさい。そうして初めて、あなたは自己満足を得ることができるのです。それがあなたの義務です。」
古代の人々はよく祈りました。
"ああ、主よ。
私の心を捧げます。
それはあなたからの贈り物に他なりません。
私は、あなたが私に与えてくれたものを捧げます。
他に何を捧げることができるでしょうか?
どうか、私の謙虚で祈りに満ちた敬愛を受け取ってください。"
(テルグ語の詩)
このような崇高な気持ちを持つ人が真の帰依者であり、犠牲の人なのです。』
私たちは、主を飢えた状態にし、私たちの愛を乞うようなことはしないようにしましょう。私たちの愛で主の心を満たし、主が常に満たされた状態でいられるようにしましょう。それこそが、主が私たちに求めておられるすべてなのです。
参考 :
https://archive.sssmediacentre.org/journals/vol_15/01SEP17/Hungry-for-Love-Ms-Aarthi-Krishnan.htm
愛と優しさをいっぱいありがとうございます!