スワミが教える3つの悲しみを乗り越える方法
『人間はこの地上にいる間、3つの原因による悲しみに遭遇しなければなりません。聖典はこれらについて言及し、それに対して人間に警告を発しています。それらは、アディヤトミック(Adhyatmic:個人的なもの)、アディバウティック(Adhibhautic:外的な要素)、アディダイヴィック(Adhidaivic:超自然的なもの)と呼ばれています。
ここで、アートマは肉体的な自己を意味するので、最初の悲しみのグループは肉体的、精神的な病気を通して人間を苦しめます。第二の悲しみは、「創造されたもの」を意味するブータに由来し、蛇、野生動物、虫、昆虫などの生物に由来するものです。3つ目の言葉はアディダイヴィックで、ダイヴァは自然界の力や現象を司る神という意味です。つまり、3つ目の悲しみのグループは、洪水、干ばつ、嵐などの災難によって人間を苦しめるのです。
アディヤトミックの悲しみは、無数の微生物やその他の寄生生物の本拠地である人体によって引き起こされるものです。これらの病気を誘発する原因から自由になることは誰にもできません。しかし、人は、すべての存在に対する慈愛の感情と、愛を育み、愛を広げる思考を身につけることで、この悲しみを容易に克服することができます。身体的、精神的な病気は、心の中の毒が原因で起こる身体への反応です。汚染されていない心だけが、継続的な健康を保証することができます。悪徳は病気を生みます。悪い考えや習慣、悪い仲間、悪い食べ物は、病気が繁殖する肥沃な土地です。アローギャ(健康)とアーナンダ(至福)は手を取り合うものです。
美徳こそが神の恩寵をもたらす
高揚感や歓喜があれば、身体は不健康になりません。人が耽溺する悪習慣は、肉体的にも精神的にも、病気の主な原因です。貪欲は心に影響を与え、失望は人を憂鬱にさせます。人間は、美徳を培うことによってのみ、人間としての存在を正当化することができます。そうすれば、彼は神の座にふさわしい候補者となります。道徳の進歩は、人間が神性に向かって進歩していることを告げるものです。美徳はまた、新鮮さ、技術、そして長い年月の若々しさを授けます。大学で過ごす年月は、神性である美徳を培い始めなければならない重要な時期なのです。だから私は、美徳と健康、幸福の関係を強調するのです。 ひとたび悪の世界に足を踏み入れれば、もう逃げ場はありません。美徳があればこそ、神の恩寵がもたらされるのです。神の恩寵ほど貴重なものはないことを忘れてはなりせん。
ティヤガラージャは、山ほどの貴重な宝石の贈り物を退けましたが、それは神の臨在をこの世のあらゆる富よりも高く評価していたからです。健康な心臓は神の神殿です。その健康は、摂取する食物の純度と、自分の思考、言葉、行為の純度に比例します。適度な食事と適度な会話は、自分の努力で勝ち取るべき双子の恩寵です。
アディバウティックの悲しみは、ハエ、アリ、蚊、虫などの下等な生物によって引き起こされます。これらを取り除くのは難しいかもしれませんが、人はヨガ(神との交わり)を通じて精神的なコントロールを実践することができます。ヨガは、心の動揺を防ぐことだと説明されています。心が感覚という媒体を通じて外界と接触するのをやめれば、不安や動揺が人に影響を与えることはありません。褒めたり責めたりすると、誇りを持ったり怒ったりするからです。高慢は嘆かわしいことであり、怒りは悲惨なものです。常に動じない、バランスのとれた心で人生の浮き沈みを見守りなさい。
サマーディは心の特性
人生のはかなさ、富や権力や名声のつまらなさを考えてみまさい。身体は元素の化合物であり、それらはバラバラにならざるを得ません。私は今、ヨガのアーサナ(ポーズ)をいくつか教えるように指示しています。このアーサナは、心身の健康を維持するために役立ちます。そうすることで、平常心を取り戻し、真の至福を得ることができるのです。
アディダイヴィックの悲しみは、自然の災難の結果です。これらの影響を受けないようにするためには、サマーディを実践しなければなりません。ディは「知性」を意味します。サマは「等しい」という意味です。サマーディに到達するためには、気を失ったり、手足を震わせたり、意識を失ったりする必要はありません。劇的な恍惚状態でもありません。それは、あらゆる出来事や人物を執着も嫌悪もなく観察するという心の特徴であり、人が身につけた眺望です。このような人間の意識の段階は、ニルヴィカルパとも呼ばれ、つまりヴィカルパ(反応、応答)がない状態です。ニルヴィカルパをマスターした人は、願い、欲求、欲望から解放されます。ですから、彼は意識的に、魅力に反応したり、反発に反応したりしないよう、心を訓練してきました。心が外的・内的衝動に好意的であろうとなかろうと反応するとき、それはわずかなヴィカラス(歪み)を受けています。したがって、神性への変容を達成することはできません。
目に見えないものは、目に見えるものの基盤
アートマ(神性)は、人間の意識の奥深くにあります。私たちは、家のベランダや四つ角に金や宝石や貴重品を置いてはいません。そこに置いてあるのは、鍋やバスケットだけです。宝石は鉄の金庫に入れて、人目につかないように奥の部屋に置いておきます。身体は落ちたり、腐ったり、燃えやすいものです。年齢が上がれば、年々衰え、どんどん終わりに近づいています。身体という箱の中には、アートマが宝物として収められています。海は貴重な真珠を深い底の近くに保管しています。海は貴重な真珠を海底に、安価な貝殻を海岸にまき散らし、人々がそれを拾えるようにします。ですから、アートマを認識するためには、探究心を内側に向けなければなりません。
シッダールタは、莫大な富を持つ王子でした。バギラータもまた、偉大な支配者でした。しかし、彼らは自分のビジョンを意識の内的レベルに向けました。彼らは富や地位、贅沢を捨て、隠遁生活を送りながら真理の探究に没頭しました。このことで彼らを非難することができるでしょうか?いや、彼らはその一歩によって、自分の人生をより貴重なものにしたのです。
私は、この世に関連するテーマを習得することを戒めているのではありません。それは、あなたがこの世界とそのやり方を理解するのに役立つからです。しかし、化学、物理、植物学、数学といったさまざまな学問は、木の枝、小枝、葉、花、果実にすぎません。あなたは今、花や葉に水をやることに従事していますが、その代わりに、目に見えない根に水をやらなければなりません。目に見えないものが、目に見えるもののベースになっているのです。これらの学問の一つひとつは支流です。それらは最終的に海であるアートマ・ヴィディヤ(個我の魂の科学)に流れ込みます。
リシたちによる祝賀演説の要旨
アートマ・ヴィディヤは、皆さん一人ひとりが勉強しなければなりません。さもなければ、あなた方を苦しめる3つの悲しみから解放されることはありません。『サティヤム ヴァダ、ダルマム チャラ(Satyam Vada、Dharmam Chara:真実を語り、正義を守りなさい)』、『母を敬い、父を敬い、師を敬い、客を敬いなさい』・・・これは、グルの庵の生徒たちに勉強を終えたときにリシが行う謝恩の挨拶の要点でした。しかし、いまや謝恩は、無規律で不遜な態度を示す場になってしまいました。そのような傾向を抑えて、自らを改革しなければなりません。自分のため、社会のためになることを考える年長者の言葉に耳を傾けなさい。シュルティ(聴かれた聖典)をスムルティ(インド古来の聖典)にしなさい。つまり、自分が聞いた良いアドバイスを自分の記憶の中に大切にし、それが自分の人格の一部になるまで実践するようにしなさい。 サティヤ・サイババ』
(出典 : 1980年7月13日、ブリンダーバンのサティヤ サイ カレッジ ホステルでの講話)
参考 :
https://sathyasaiwithstudents.blogspot.com/2019/07/sri-sathya-sai-on-overcoming-three.html?m=1