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呪縛

《カバー写真はAIが生成しました》
【日記#167  2025/02/03(月)☁️】

 若い頃やりたい放題やってきた。そんなツケが今になって回ってきたとは思わないのだが誰もが面白いと思っているものや、普通に受け入れられるものが自分にはそれほど必要のないことなのではないかと思うことがある。それどころか嫌いで受け入れられないものまである。

 例えば漫画。僕は漫画が好きではない。むしろ嫌いと言ったほうがいい。こんな自分でも十代の頃は漫画がとても好きだった。今は漫画などなくても全く不便さを感じない。漫画は自分にとって必要のないものだ。アニメは子供の頃に観たものが限界である。それこそアニメともなると嫌悪感が強すぎて最近よく見かけるフルアニメのCMなどは見ただけでもその商品は絶対利用しないと思い込むくらいだ。

 十代の頃旅先でオケラ(ギャンブルで文無しになった人間)に絡まれたことがある。それ以来、ギャンブルには全く手を出さない。ギャンブルに近い遊びにも嫌悪感を感じる。それどころかギャンブルをする人間とは一切関わりも持ちたくない。Twitterでもギャンブルのネタのツイートは即ブロック。好きな人は溺れるのだろうけれども、溺れる気持ちも知ったことではない。自分とは全く関係がない。

 酒も同じだ。酒で変わり果てた人間など腐るほど見てきた。その度に「自分はこんな人間には絶対ならない。」と誓いを新たにする。だから酒をやめたのは簡単だった。今でも自分には酒は必要がない。必要がないから酒に税金をかけられても痛くも痒くもないし、もっとどんどんかけろと思うこともある。缶ビールひと缶に$5くらい税金をかけたって痛くも痒くもない。

 自分が毛嫌いするものを客観的に見ると、特定の人間には欠かすことのできないものばかりだ。そして自分はそれらをいとも簡単に突き放すことができたと思う。その反面ここからが問題だと思うのだが、自分自身を喜ばすことには全く無頓着だ。

 自分に気遣うことなど全くせず、かなりストイックな生活を好む。テレビが嫌いだから家で一人でいる時はほどんどラジオを聴いている。ただ今現在最も好きなNHKのR1はほとんど国会中継をやっていて聴く楽しみがない。そんな時はR2を聴くほどで、テレビよりもR2を選ぶ。

 しかしR2にもこれだけはどうしてもダメと云うものがある。それがロシア語講座とドイツ語講座だ。特にドイツ語講座は聴けない。自分の中ではドイツ語と日本語のラップはもはや汚い音としか認識できない。そこまでに至るだけの酷い体験あってドイツ嫌いで、それが年々激しくなってゆく。

 楽しく過ごすためならギャンブルや酒だってその手段の一つなのだろうが、それを徹底して自分には近づけなかった。それはそれらが嫌いなものである一方で、自分自身が喜ばせるだけの価値のある人間ではないと思い込んでいる。

 そのため蕁麻疹が出そうなくらいに嫌いな言葉が、

「自分にご褒美」

である。これだけは一生やらない。そしてすぐにそう云うことを言い出す奴とは付き合う価値もないとまで思い込んでいる。流石に極端すぎるがそのくらいしないと気が済まない。

 以上でもわかりきっていることだが、自分は自分自身に過度に呪縛をかけて安心しているところがある。そしてまた他の(ごく普通でまともな)人とは違いそれを嫌わずに心地よささえ感じることがあった。そんな生き方で本当に良かったのかなとふと考えることが多い。しかしだからと言ってこれから自分をもう少し甘やかそうだの楽しませようなどとは毛頭考えられない。

 窮屈の中にだけ己を律する術が見つけられる。もはや自分はそんなレベルなのだと思う。それを自分では勝手に「喜捨」と呼んでいる。

 故に他人や己を客観的にみた視点からは自分自身に過度な呪縛をかけているように見えるのだろう。そしてその状態にも疲れて来ているのが現状だ■



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