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苛つくCM

【日記#82 2024/11/10(日)☁️☂️】

今日は内容から考え、否定表現規制を一切行っていないことを先にお知らせいたします。

 日頃からテレビなど殆ど観ず、妻の出勤中にテレビを観ると言えば撮り溜めた番組を観るくらいなものだ。そんな中妻といる時だけは民放を観るが、そんな時くらいしかCMと言うものも見ない。なのに最近はどうしても堪え難いCMが増えたと思っている。と言うより自分がそれだけ偏屈になってしまったとでも言ったほうがいい。

 初めはヨーグルト飲料のCM、どうしてもダメなタレントがまたうるさくて堪え難い。そのタレントは名前こそ出さないが異常なほどの元気さとポジティブを押し付けて来る元テニスプレーヤーで、そのポジティブの押し付けが元から嫌いだ。アレが出て来るCMは少し苦手。

 出過ぎの女性タレントも嫌い。誰かは控えるがそう言うのが数人いる。けど先述の元テニスプレーヤーほどではないかな。でも相当イラッとは来ている。特にHS、YR、YYの3人かな。

 お笑いタレント嫌いは以前も書いた通りで当然お笑いタレントのノリでCMに出て来るは人は苦手。しかし正直言って自分のお笑いアレルギーも相当なものなのでこんな大御所までと言う人も例外なくダメ。

 言葉の変なCMもダメ、例を挙げると最近増えた物事を順序立てて並列する時に何でも「〜からの」と言う並列法、アレが堪らなく嫌い。以前はそんな表現は皆無だった。まったくもって異様なほどに調子に乗った苛つく言葉で、その言葉でプレゼンできるのと思ってしまう。一回でもダメなのに「〜からの」が連続して出て来るようなCMはもうそれだけでここの商品絶対買わないとまで思うくらいだ。

 もう一つは意味が重複する表現、「工事に着工する」などという言葉はかつては誰かが指摘をしたもの。しかし今では「りょこういくなら〜」と平気で言うね。字にしてみると同じ字が重なっているのは間違った言葉の遣い方だ。

 勝手に新語を作るのもはっきり言って薄寒くなるくらいに大嫌いである。某回転寿司チェーンの「はまい」だ。造語に名詞は結構ある事だがそれ以外の品詞は稀なこと、それは名詞と動詞以外の形容動詞などは神域に近いもので、勝手に作って押し付けるのはそもそも受け手側の抵抗も強いかと思う。

 さらにもう一つ、本来は軽々しく口にすべきではない言葉「神」が実に軽々しく用いられていることはCMに限らずここ10年くらいでかなり目について来た。それに伴い「神マンガ」だの「神ってる」なんて言葉も耳にするようになったが、その使い方は非常に危ないトレンドだと思う。聞いていても違和感ばかり。軽々しく神という言葉を口にしてはいけないと思う。特にマンガに神などあるわけもない。あるとすれば神のような漫画家、具体名を挙げれば手塚治虫さんが「漫画の神様」と呼ばれるだけだと思う。そもそもマンガは「紙」だろう。しかし今は配信が主流で「紙」にもなりきれていない。

 湿布のCMで女性タレントが相方のCGを普通にCGと言っていればいいのに、調子づいて「スィーズィー」と言ってるアレ、アルファベットにすると「CZ」になる事を本人も製作者側も分かっててやってるのかどうか甚だ疑問だ。要するにその程度の英語の知識でカッコつけて言わんでもいいよとツッコミたくなる。

 人の会話を立ち聞きして突然提案をするパターンのCMが最近やたらと多い。これを「盗み聞き」、「立ち聞き」、または「覗き見」CMと呼んでいるが側から見ていて不自然だし、何よりも失礼な行為だと思う。

 これに似ているのがある一人の視点が複数の他の人の行動を観察して「もう〜だ(進んでる)」だの「まだ〜してない(遅れてる)」などと言った主観を述べるもの、こちらは覗き見と変わらない。見る側としては覗き見に付き合わされているだけの不快感を押し付けられている。こう言ったものはどこぞのリクルーティング会社や保険会社、銀行など、もはや黄金パターンと化しているけど品性に欠けている。

 ヒップホップ大嫌いな自分にとってヒップホップ仕立てのCMも苦手、伝えたいことが伝わらないし意味不明になりがち、中には字幕をつける配慮もあるがそんな配慮よりももっと工夫する努力をしてもらいたいなと思う。とは言えラップも一つの文化なのでどうしていけてないのかすこし詳しく書いてみる。

 ラップの口調はクールかもしれないが提案をする時はアグレッシブすぎて押しつけ感が強すぎる。素直に「はいそうですね」と受け取りにくくさせる効果がある。そこを無視してクールならそれでいいという感じの制作者側のエゴがキツく押し付けられる。これは日本語そのものがラップには不向きな言語だからだ。

 日本語はライム(脚韻)を重視する分には比較的ラップには向いている。ところがリズムに乗せる時は独立子音が「ん」だけの日本語は他の言語に比べても圧倒的にラップには不向き。音余り感がどうしても耳につく。それは今も書いた通り、日本語の音は「ん」以外全て母音が入る。ここが英語と比べてもキレと言う面では鈍ってしまう。

 そして日本語はライム(脚韻)よりも韻律を重視する言語。脚韻は揃えやすくラップとしては決まっているように思えるが、それよりも韻律、つまりは七五調などのリズムを重視する。そして脚韻を揃える事で却って諄い印象を受けてしまうところも気をつけたい。

 もう一つは日本語はアクセントではなくイントネーションの言語であり、アクセントの強弱でビートを決めさせるラップ向けではない。この観点で言うと韓国語もまたラップ向けではないが、単独子音(パッチム)には富んでいるだけ日本語よりはまだしっくり来る。

 このイントネーションの代わりにアクセントを用いると音の強弱がそのまま押し引きに変わる。これが先述の「押しつけ感」となる。ある意味ラップではどうしてもクールに決めると押し付け感からアグレッシブに受け取られ提案には向かない手法となってしまう。こればかりは日本語がそうなのであって、ラップそのものが悪いと言うわけではない

 タレントの好き嫌いなどはあくまでも主観の問題なので自分で言っておきながらもスルーしちゃって構わない問題だが、変な言葉、変なパターン、寒くなるくらいにカッコ悪いラップのCMなど、もう少し受ける側の立場にもなってCMは作ってもらいたいと思うのが最近多い。

 制作者側の感性、感覚に自分がついていけなくなったと言えばそこまでなのだろうが、それを無視していったら美しいわが日本語はだんだんと耳障りになっていくばかりだ。そして人の嗜好(思考も)は画一化されていってしまう。そうなるとより一層これはおかしい、これは変だと感じる人の割合は増えていくだろうと思う■

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