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【短編小説】正解

「だからさ?正解ってなんなのよ?誰の正解?私の?理の?」

彼女は相当怒っているように見える。
見えるだけなのか本当に怒っているのかその答えがわからない。
答えを導き出すために表情を声色を態度を見ればいいのか?
そもそも怒るってなんなのか人に腹を立てたことがない俺にわかるわけがない。
それに本当なんてわかり得ないだろ。本当を何で測るんだよ。

少し腹がたったことに気付く。 

元子の赤に染められた髪がなびいてディズニー映画の主人公の絵が脳裏に浮かんだ。なんの映画だ?チラっと目にしたことがあるだけで興味がないのだから答えが出るわけがない。彼女は靴を履き終えないまま玄関から飛び出して行った。

彼女の名前は元子。
元気な子どもと書いて、もとこ。
彼女の母は病気がちだったらしく「せめて娘は元気に育ってほしいと父の願いが込められている」と初めて会った日、元子は話した。

元子はその名の通りいつも元気だった。
屈託のない笑顔、言葉は知っていたが視覚で見たことがなかったからどんなものかいまいち分からなかった。元子に出会い "屈託のない笑顔" がどういうものか認識した。そして、言葉だけでなく現実に存在する事象だと知った。元子というひとりの人間により俺の世界は広がった。元子はきっと、屈託のない笑顔の持ち主だ。彼女の笑顔に何かを感じる人間はおそらく俺だけじゃないだろう。きっとそうに違いない。だけれど、真実はわからない。答え合わせができるはずがない。統計をとって確かめたい俺に、わからないが生まれた。

俺の名前は、おさむ。
理にかなっているものが全て。
道理や理屈や整えられたものを信じる。
俺の中にある筋道が道標。それ以上はない。
同じ道理の仲間と何不自由なく生きてきた。
そんな俺の正解を裸足のまま飛んできて、拭いても拭いても足跡を付けてきたのが元子だ。

彼女の口癖は、「そんなのわかんなーい」だった。
筋道を立てて答えを導くのが常の俺にとって、彼女は俺の正解に邪魔な存在であり、だけれど本当のところ新鮮さを感じている自分がいた。
彼女と出会ったとき、俺は人生の選択の狭間にいた。頭で答えを出す今までの自分。それをこれでもかと覆してくる元子の存在。俺は元子に惹かれていた。
元子と出会ってからも、俺は俺の正解を変える気はなかった。これまでの俺を否定することは耐えられなかった。青春と呼ばれる時間を自らの正解を導く時間へと費やしてきたのだ。容易く変えることは自分や共にした仲間への裏切りだとも思った。
だけれど元子はそんな俺の内側を知る由もなく、俺の心に風穴を開け続けた。固く閉ざした扉の隙間から新しい空気が入り込み、感じたことのない清々しさに元子に出会う前の世界には戻れないと思った。俺は息が吸えるようになっていた。
俺を知る人たちは「お前は変わったな」と言葉を投げた。「変わったな」の言葉に変わったことへの祝福は混じっていなかった。

元子はどんなことも「よくわからない」と言った。
言葉は "よくわからない" だったが、元子のことはよくわかった。フレンチトーストとコーヒーが好き。蕎麦が好きで蕎麦を求めどこへでも出掛けた。布団に入るとき満面の笑みを浮かべ温もりを感じ、朝を迎えることを最高に楽しみにしていた。

元子と暮らす時間の中で強力に固まったアロンアルファが溶け始め、接着部分がポロリと剥がれそうなところまで来ていた。俺は必死だった。アロンアルファが剥がれたら全社員総出で尽くしてきた企業努力が台無しになる。なんとしても阻止、そんなことを思っていた。

元子は何を選択しても変わらなかっただろう。変わらず俺の側にいた。だが今、元子はいない。部屋は空っぽだった。テーブルもソファも棚も照明も俺の正解だらけで揃えたはずなのに、視覚に入っても何も感じなかった。意味を見出すことさえ困難だった。高揚も安らぎも微塵も感じない空間に俺はひとりだった。

あいつのせい。元子のせい。

こんな空虚感を感じるなら元子に出会わなければ良かった。心躍ることなど知らなければ良かった。安らぎも愛されることも知らなければ良かった。俺の信じてきた正解を捻じ曲げられたくなかった。

だけれど、俺は知ってしまった。

元子がいない部屋で音も立てず静かに俺の正解は変わった。

元子を愛することに。






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