
「life cocktail」というBar つづき⑦
あの夏の日々は、まるで白昼夢のようだった。
彼の手が私の手を包んだ瞬間、私はその場に縛りつけられたような気がした。何も考えられなくなり、波の音だけが耳の奥に響いていた。ほんの少し触れただけで、こんな気持ちになるなんて、自分でも信じられない。
彼は悪い人だったのかもしれない。いや、たぶんそうだ。私の心を揺さぶっておきながら、きっとどこかで他の誰かの名前を呼んでいる。けれど、それでもかまわなかった。私は彼の腕の中にいる瞬間だけを生きていた。
真夏の浜辺へと続く道を、私たちは何度も歩いた。海風が肌をなぞるたび、彼は微笑み、私はそれに応えるように笑った。ほんの一瞬でも、永遠のように感じられる瞬間があることを、私は彼を通して知った。
けれど、そんな日々が長く続くわけがないことも、どこかでわかっていた。
彼の視線が少しずつ遠のいていくのを感じたとき、私は目をそらした。知りたくなかったのだ。彼がもう私だけを見ていないことを。でも、それはどうしようもないことだった。人の心は、ほんの少しのきっかけで変わるものなのだから。
彼が去った後、私は渚の砂に指を埋め、小さく囁いた。名前を呼んでみる。でも、風がすべてをさらっていく。
秘密の思い出だけが、私の胸に残った。言葉にはならないけれど、たったひとつ、はっきりしていることがある。
——好きだった。
それからの私は、まるで抜け殻のようだった。
朝になれば窓の外に陽が昇り、夜になれば潮騒が響く。それは何も変わらないはずなのに、彼がいなくなった世界は、どこか違って見えた。いつものカフェでアイスコーヒーを頼んでも、ガラス越しに映る自分の顔はどこか遠い他人のようだった。
彼は今、どこで誰といるのだろう。
そんなことを考えてはいけないと自分に言い聞かせる。それでも、ふとした瞬間に彼のことを思い出す。横顔、指先、名前を呼ぶ低い声。どれも心の奥に焼きついて、消えそうで消えない。
夏が終わるころ、私は再びあの浜辺を訪れた。波はいつもと変わらず寄せては返し、遠くで子どもたちがはしゃぐ声が聞こえる。私はゆっくりと砂浜を歩き、かつて彼と並んで座った場所に腰を下ろした。
あの日、彼が笑いながら私の頬を撫でた場所。
私はそっと砂を掘り返す。そこには、あの時埋めた貝殻がまだ残っていた。二人の秘密を閉じ込めたはずの、小さな貝殻。
——たった一度でいい。
そう思った。もう一度だけ彼に会えたなら、何を言えばいいのだろう。「まだ好き」と告げるべきか、それとも何も言わずに微笑むべきか。
私は貝殻を手のひらにのせ、それを静かに海へと投げた。水面に小さな波紋が広がる。
きっと彼は戻らない。わかっている。けれど、こうして海を見つめていると、今でも彼の気配がすぐそばにあるような気がした。
「言葉じゃ言えないのよ」
かすかに呟いた自分の声は、潮騒に溶けて消えた。
その夜、私はただ静かに酒を飲みたかった。
誰かと話したいわけではなく、でも、一人でいたいとも思わなかった。だから私は、あのバーへ足を運んだ。
マスターはいつものように無言でグラスを磨き、私はマティーニを頼む。カウンターの端の席に腰を下ろし、静かにグラスを傾ける。
ふと視線を向けると、少し離れた席に一人の男がいた。
グラスを片手に、考え事をしている。
短めの髪に、落ち着いた色のジャケット。特に目立つタイプではないが、どこか雰囲気のある男だった。
彼はじっとグラスの中の氷を見つめ、指先で縁をなぞる。ときどき微かに唇を動かし、何かを思い出すように目を細めた。
何を考えているんだろう。
誰かのこと? それとも、仕事の悩み? それとも——。
私はそんな自分に気づいて、思わず小さく笑った。興味を持つつもりはなかったのに、彼の仕草や表情が、不思議と目を引く。
「気になる?」
不意にマスターが囁いた。
「……別に」
私は肩をすくめ、グラスを傾ける。
「でも、少しだけ……」
ほんの少しだけ、彼のことを知りたくなっている自分がいた。
バーの中は静かだった。ジャズが低く流れ、カウンターの奥でマスターがグラスを磨いている。
私はカクテルの縁をなぞりながら、ちらりと彼を見る。
彼は相変わらず考え込むようにグラスを見つめていた。琥珀色の液体が揺れ、カウンターの照明をぼんやりと反射している。ときどき指で縁をなぞり、何かを思い出そうとしているようにも見えた。
その横顔を、私はじっと見つめていたのかもしれない。
彼がふと顔を上げ、私の視線とぶつかった。
私は目をそらさなかった。彼もそうしなかった。
ほんの数秒のことだったと思う。けれど、その間に何かが通り過ぎた。
彼は不思議そうに私を見つめた。まるで、「どうして僕を見ているんだ?」と問いかけるように。
私は何も言わなかった。ただ、心の中でそっとつぶやいた。
——私の隣に座って。
それは言葉にするには曖昧すぎる願いだった。根拠もなく、理由もなく、ただそうなればいいと思っただけのことだった。
けれど、彼はグラスを持ち上げ、ゆっくりと席を立った。そしてまるで、その言葉が聞こえたかのように、私の隣に腰を下ろした。
私は少しだけ息をのんだ。
「何を飲んでるの?」
彼は静かに尋ねた。私はグラスを軽く傾けて見せた。
「マティーニ」
彼は小さく頷き、マスターに目を向ける。
「じゃあ、僕にもそれを」
彼のグラスに、新しい酒が注がれる。カウンターの木目に光が反射し、氷が静かに溶けていく音がした。
私はそれを聞きながら、彼が隣に座ったことを、まるで偶然のように受け入れることにした。