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「life cocktail」というBar つづき⑥


「仕事場の沈黙」


彼は、ただ机の上の書類を見つめていた。明朝のフォーマットで並んだ数字の列、それらは意味を持っているはずなのに、彼には単なる線の集まりにしか見えなかった。向かいのデスクでは、部長が同僚の佐藤に何かを囁いている。笑い声が漏れる。その笑いは、重く、湿っていた。

佐藤は派遣社員だった。三か月ごとの契約更新を待つ立場の人間だった。彼は、静かに業務をこなしていた。クレーム対応、在庫管理、細かい計算ミスの修正――正社員が嫌がる仕事ばかり。だが、彼の働きを認める者は少なかった。むしろ、正社員の間で彼のミスが面白おかしく語られることのほうが多かった。

「いやあ、佐藤くん、次の更新どうなるかな?」
「今月も残業ばっかりだけど、大丈夫?」

冗談めかして、しかしどこか試すように言葉を投げかける正社員たち。佐藤は苦笑いで受け流した。それ以外にどうする術があるだろうか。抗議しても、次の契約更新がなくなるだけだ。彼は知っていた。これまで見てきた。

彼女のことを。

***

田中は、かつてこのオフィスで働いていた。彼女は非正規だった。だが、正社員の誰よりも仕事ができた。彼女は的確に仕事をこなし、クレーム対応も完璧だった。問題が発生すれば、冷静に処理した。

けれど、彼女は「女」だった。

「田中さんって、なんか怖いよね」
「そんなにバリバリ働かなくてもいいんじゃない?」
「可愛げがないと、仕事ってやりづらいよね」

彼女は笑っていた。何も聞こえないふりをして、ただ仕事を続けていた。だが、それで終わるはずがなかった。ある日、彼女が席を外した間に、誰かが彼女のパソコンのパスワードを変えた。誰がやったかは分からない。問い詰めても、「知らない」と肩をすくめるだけだった。

「派遣さんって、こういうとき大変だよね」

そう言ったのは部長だった。笑いながら。

数週間後、田中はオフィスから消えた。誰も話題にしなかった。彼女のデスクは、その日のうちに新しい派遣社員のものになった。

***

佐藤は、それを見ていた。彼女が最後に見せた微笑みが、今も脳裏に焼き付いている。あれは、どういう笑顔だったのだろう。

「次の更新どうなるかな?」

また同じ言葉。佐藤は静かにキーボードを叩いた。彼がこの場所にいるのは、あとどれくらいだろうか。

彼は沈黙した。それが、この職場で生き残る唯一の方法だったから。

佐藤は、静かにキーボードを叩き続けた。画面の向こうに映る数字の列を眺めながら、自分の存在が薄まっていくのを感じていた。オフィスの空気は乾いていて、部屋の隅にある観葉植物すらも息を潜めているようだった。

「おーい、佐藤くん」

唐突に名前を呼ばれる。佐藤は顔を上げた。部長がこちらを見ている。

「ちょっと、これやっといて」

差し出されたのは、正社員がやるべき仕事だった。顧客対応の報告書、売上データの整理、誰かが放置していたミスの修正。これが彼の日常だった。

「これ、Aチームの仕事ですよね?」

口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。部長は一瞬、目を細めたが、すぐに笑った。

「何言ってんの? みんなで助け合いでしょ」

佐藤は何も言わずに書類を受け取った。助け合い。都合のいい言葉だった。

***

昼休み。社員用のラウンジでは、相変わらず雑談が飛び交っている。

「また外国人の実習生、辞めたらしいよ」

「そりゃそうだろ、あいつら日本語まともに喋れないし、仕事も雑だし」

「でも、すぐ新しいのが入るってさ」

笑い声が響いた。佐藤は、コーヒーを片手に窓の外を見ていた。向かいのビルの壁に、大きな広告が貼られている。「世界とつながる、未来を創る」。なんの会社のキャッチコピーだっただろうか。

未来。佐藤にとって、それはどこにあるのか。

ラウンジの隅では、新しく入ったばかりの女性社員が、先輩に囲まれていた。

「結婚してるの?」

「彼氏いるの?」

「派遣なんだから、早くいい人見つけたほうがいいよ」

彼女は曖昧に笑いながら答えていた。その笑顔を見て、佐藤は田中を思い出した。あのときと同じ表情だった。

***

午後の仕事に戻ると、部長がまた書類を持っていた。

「佐藤くん、今日中にこれも頼むよ」

「でも、僕の仕事量、もう──」

「え?」

部長は軽く眉を上げた。その表情には、ほんのわずかだが「驚き」があった。佐藤が抗議することを、彼は想定していなかったのだ。

「…分かりました」

佐藤は受け取った。だが、その瞬間、ふと気づいた。

部長が持っているもう一つの書類。それは、契約更新の通知だった。

「…そういうことか」

佐藤は、ゆっくりと息を吐いた。オフィスの空気は、相変わらず乾いていた。


佐藤は、その契約更新の通知をじっと見つめた。部長の手の中で、書類はまるで罠のように、微かに揺れていた。

「じゃ、よろしく」

部長はそれ以上何も言わずに、書類を佐藤のデスクに置いて立ち去った。その背中は、何も特別なことが起こっていないかのように、のんびりとしたリズムで動いていた。

佐藤はゆっくりとその紙を手に取る。契約期間は「次の三ヶ月」と記されていた。それはつまり、三ヶ月後にはまたこの紙が彼の前に現れることを意味している。更新されるかどうかは、結局、部長の機嫌次第だった。

***

その夜、佐藤は久しぶりにバーに立ち寄った。

カウンターには、マスターが静かにグラスを磨いていた。年季の入った手つきで、無駄な動きが一つもない。佐藤が席につくと、マスターは一瞬だけ彼の顔を見て、静かに「いつもの?」と尋ねた。

「いや、今日は少し強めのやつを」

マスターは何も聞かずに、琥珀色の液体をグラスに注いだ。

「仕事で、何かあったのかい?」

佐藤は苦笑した。ここに来ると、いつも核心を突かれる。

「…まあ、いつもと同じですよ。契約更新の話があって」

「そうか」

マスターはそれ以上何も言わなかった。ただ、グラスの向こうから、じっと佐藤を見つめていた。

「なあ、マスター」

「ん?」

「俺、このまま、ずっとこうやって働き続けるんですかね」

マスターは一瞬だけ考える素振りを見せた。そして、ゆっくりと口を開く。

「それはお前さん次第だろう?」

「…自分次第、か」

佐藤はグラスを傾けた。アルコールが喉を焼いた。まるで、彼の迷いを押し流そうとするかのように。

カウンターの奥では、小さなテレビがニュースを流していた。「派遣社員の雇い止め問題が社会問題に…」そんな字幕が流れる。だが、店の中でそれに注目する者はいなかった。

佐藤は、自分のスマホを取り出した。何気なく開いたメッセージアプリには、かつてこのオフィスで働いていた田中の名前が残っていた。最後のやり取りは、数ヶ月前のままだ。

──「元気?」

何度か打ちかけて、彼はスマホを置いた。

マスターが静かに言った。

「お前さんが、このままでいいと思うなら、そうすればいい。でも、何か変えたいなら、まずは自分の手で変えないとな」

佐藤は、もう一度グラスを傾けた。

外には、冬の冷たい風が吹いていた。オフィスの乾いた空気とは違う、しかしどこか似たような、冷たい風が。

彼はその風を、じっと感じていた。

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