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爆弾事件その後・・・
爆弾事件が終わってから、夢宮三太は何度か八田ふみと会った。とはいえ、それは決して個人的な時間ではなく、常に「事件」という枠組みの中でのことだった。
彼女は時折、夢宮に意見を求めた。爆破事件の後も、彼の推察力は捜査の助けになった。捜査本部で、あるいは警察の喫茶スペースで、2人は資料を広げ、犯人の心理を読み解き、次の一手を考えた。
だが——それだけだった。
夢宮はふと思う。もしあの事件がなかったら、彼とふみの関係はもう少し違ったものになっていたのだろうか、と。
事件の最中、彼女と過ごした時間には、確かに何かがあった。薄く漂う可能性のようなもの。お互いに意識している、と言い切れるほどの確信ではない。だが、何かが芽生えかけていた気はする。
それが、事件の終結とともに霧のように消えてしまった。
ふみは、仕事に生きるタイプの人間だった。夢宮もまた、自分の推理という世界に閉じこもることに慣れていた。だから、お互い踏み込まずにいることが、ごく自然な流れだったのかもしれない。
「まあ、そういうものか」
夢宮はカップのコーヒーを一口飲んだ。少し冷めていた。
事件がなければ、何かが生まれたかもしれない。事件があったからこそ、何も生まれなかった。
そんなものだ。
外では冷たい風が吹いていた。時計の針は、静かに時間を削り続けていた。
八田ふみが刑事になった理由を、夢宮三太は一度も聞いたことがなかった。彼女は自分の過去についてあまり語らない。けれど、彼女の目を見れば、それが単なる仕事ではないことはすぐにわかった。
彼女の父親は、大型トラックに追突され、高速道路のガードレールに叩きつけられるようにして亡くなった。居眠り運転だった、とニュースは報じた。しかし、それがどれだけ無意味な死だったとしても、父親は戻ってこなかった。
母親のみさえは、通り魔に襲われ、命を奪われた。犯人は今も捕まっていない。ただの偶然の犯罪だったのか、それとも何か理由があったのか——答えはない。彼女は母親だけではなく、5人の女性が同じように犠牲になったことを知っていた。そして、その犯人が今もどこかで息をしていることも。
「だから、刑事になったんだろう」
夢宮はふと、独り言のように呟いた。
ふみは、温厚な人間だった。本来なら、人を追い詰める側ではなく、誰かを癒す側にいるべき人間だったかもしれない。
彼女は子どもの頃、物語を書くのが好きだった。小学校のとき、彼女の書いた本はベストセラーになった。空想好きの、優しい子どもだった。
だが、現実は彼女に違う道を選ばせた。
「本当は、刑事になりたかったわけじゃないんじゃないか」
夢宮はコーヒーをひと口飲んだ。ふみの過去を知ってしまったことで、何かが少しだけ変わった気がした。
外では、冷たい風が吹いていた。時計の針は、またひとつ、時間を削り取っていった。
八田ふみは、母親が殺された通り魔事件を密かに調べ続けていた。表向きには、彼女の所属する部署とは関係のない事件だった。だから、公式には捜査に関与することはできなかった。だが、関与できないことと、手を引くことはまったく別の話だった。
彼女のデスクの片隅には、常にその事件のファイルがあった。新しい事件の合間に、彼女はそれを開き、何か新しい手がかりがないかを探していた。何年も前の事件だ。手がかりは少ない。証拠は風化し、関係者の記憶も曖昧になり始めていた。それでも、彼女は諦めなかった。
夢宮三太は、それを知っていた。
彼は、彼女のその執着がどこへ向かうのかを考えた。
彼女は、この事件の先に何を求めているのか?
犯人を捕まえることが、彼女の心を本当に解放するのか?
彼は確信が持てなかった。ただひとつ、彼にできることがあるとすれば——この事件を終わらせることだった。
「俺が解決する」
彼は誰にともなく呟いた。
その先に何があるのかはわからない。彼女がどうなるのかもわからない。ただ、彼女は今、この事件に囚われ続けている。そのしがらみを断ち切ってやることが、彼にできる唯一のことだった。
もしそれが叶ったとき、彼と八田ふみの関係がどうなるのか——それも、わからない。
けれど、今はそれでいいのかもしれなかった。
彼女がこの事件を抱えている限り、彼女は今の彼女でい続ける。そして彼は、それを見守ることしかできなかった。
外では、風が吹いていた。
時計の針は、ゆっくりと、しかし確実に、時間を削り続けていた。
夢宮三太がそのことを申し出ると、八田ふみは少し困惑した表情を浮かべた。
「……」
言葉を探しているようだった。彼女の指が無意識にテーブルの端をなぞる。いつも冷静な彼女が、今は何を言うべきかわからないでいる。
そして、静かに涙が溢れ出した。
「どうしたらいいのかわからなくて……ずっと困ってた」
彼女は小さく息をついた。
「ありがとう。……助けてください」
その声には、いつもの毅然とした響きはなかった。ただ、素直な、ひとりの人間としての弱さが滲んでいた。
夢宮は黙って頷いた。
2人は、事件の地図を広げた。他の5人が被害にあった場所、そして美佐恵が襲われた場所。それらを落とし込むと、一見ランダムに見えた犯行現場に、微かに一定の法則が見え始めた。
「ここに何かがある」
彼は過去の類似事件の資料にも目を通した。
そして、目を閉じる。
静かに、頭の中の情報を整理する。無数の点が繋がり、ゆっくりと輪郭を形作る。
——ひとりの男の姿が浮かび上がった。
彼の名は、まだ世間には知られていない。なぜなら、彼は「未遂」で終わっていたからだ。
一度は捕まったが、初犯だったため刑務所に入ることもなく、社会へと戻っていった。普通の暮らし。普通の人間。だが、彼の中には、まだ何かが燻っているはずだった。
夢宮は静かに目を開けた。
「ふみ、この男を調べてほしい」
彼女は一瞬、息をのんだ。そして、強く頷いた。
「わかった」
彼女はすぐに、この事件を担当している同期の刑事に電話をかけた。
「この男のことを調べてほしい。過去の動き、現在の居場所、すべて」
電話の向こうで、短い返事が返ってくる。
ふみは携帯を握りしめたまま、小さく息をついた。
事件の終わりは、まだ見えない。しかし、確実に何かが動き始めていた。
外では、夜風がビルの隙間を吹き抜けていた。時計の針は、静かに時間を削り続けていた。
ふみが持って行った情報は、捜査本部を動かすのに十分な説得力を持っていた。彼女は正式に捜査に加わることを許可された。
そして、その男らしき人物が、事件現場近くの防犯カメラに映っていることが確認された。
ただ、それだけでは決定的な証拠にはならなかった。
「証拠が必要だ」
夢宮三太は静かに言った。
「犯行現場に残っていたDNAと一致するものがあれば、一気に動ける」
しかし、問題はそこだった。その男のDNAをどうやって手に入れるか。
尾行しかない。
ふみは捜査チームとともに、慎重に彼を追った。
彼がカフェでコーヒーを飲んだ紙コップ。タバコの吸い殻。だが、彼は慎重だった。ゴミはすぐに処分され、直接触れたものはほとんど残されなかった。
「どこか、確実に採取できる場所があるはず」
そう考えていた矢先、ひとつの情報が入った。
——彼の行きつけの美容院。
ふみはその美容院を訪れ、静かに依頼をした。
「彼が来たら、髪を切った時の一部を取っておいてほしい。できるだけ自然に、絶対に気づかれないように」
美容師は困惑した表情を浮かべたが、ふみの目を見て、静かに頷いた。
「……わかりました。でも、誰にも言わないでくださいね」
「もちろん。くれぐれも内密に」
ふみは深く息をついた。
あとは待つだけだった。
美容院のガラス窓越しに、夜の街のネオンが揺れていた。時計の針は、静かに時間を削り続けていた。
ひと月ほどが過ぎた頃、美容院から一本の電話が入った。
「例の方、さっきいらっしゃいましたよ」
美容師はあくまで自然に、しかし少し緊張した声でそう伝えた。
「髪の毛、取ってあります」
ふみは静かに受話器を置いた。そしてすぐに捜査本部長に報告した。
美容院に着くと、いつも通りの静かな店内だった。シザーの音がリズミカルに響き、シャンプーの香りがほのかに漂っている。
美容師は、何もなかったかのような顔で、小さなビニール袋を差し出した。その中には、ごくわずかな、しかし決定的な証拠が収められていた。
「助かりました」
ふみは短く礼を言い、店を出た。
すぐに鑑識へと向かう。
DNA鑑定には時間がかかる。ふみと夢宮は無言のまま、結果を待った。
時計の針がゆっくりと進む。
そして、夜が明ける頃、鑑識からの報告が届いた。
「一致しました」
その言葉を聞いた瞬間、ふみは何かを飲み込むように目を閉じた。
至急 裁判官から捜査令状と逮捕状をもらう手続きをした。
「行きましょう」
ふみは深く息を吸い込み、静かに言った。
捜査令状と逮捕状が手元に届いた。
外はまだ薄暗い。夜と朝の狭間にある、曖昧な時間。
彼女はドアを開け、張り込みの刑事たちと目を合わせた。誰も言葉を発さなかった。ただ、それぞれがわずかに頷き、動き出した。
夜明け前のマンション。薄暗い廊下でふみは逮捕状を手に、長い黒髪をきゅっと後ろで束ねている。同僚の男性刑事と並んで、静かに目標の部屋に近づく。
「3-C号室」
ふみが小声で確認し、男性刑事は軽く頷く。彼女は深呼吸をして、ドアをノックする。
——静寂。
数秒後、中から微かに物音がした。
「どちら様ですか?」
くぐもった声。眠気を帯びた低い響き。
ふみは短く答えた。
「警察です。開けてください」
数秒の静寂。突然ドアが開き、男が驚いた表情を浮かべる。
ふみが、鋭い視線で男を見つめながら、手にした逮捕状を掲げた。彼女の長い髪はポニーテールにまとめられ、黒いスーツの襟元には警察のバッジが光っている。
男はソファの前で固まっていた。白いシャツにスウェットパンツというリラックスした格好だったが、その顔には一気に緊張が走る。
「……何の冗談だ?」
男はわずかに後ずさるが、その瞬間、ふみの隣に立つ同僚の三浦刑事が素早く動いた。彼は長身で、トレンチコートの裾を翻しながら男に近づき、強い口調で言った。
「お前に選択肢はない。抵抗すれば、公務執行妨害の追加だ」
ふみは冷静に男の反応を見極め、ゆっくりと手錠を取り出した。
「ここで騒ぎを起こしたくないなら、素直に手を出しなさい」
男の目が泳ぐ。逃げ場はないと悟ったのか、ゆっくりと両手を差し出した。
カチリ――
金属の冷たい音が、部屋の静寂に響く。ふみは無駄のない動きで手錠を締め、男の肩を軽く押しながら立たせた。
「容疑者確保」
三浦が無線で報告すると、エレベーターの向こうから応援の足音が近づいてくる。
「さて、署まで付き合ってもらうわよ」
ふみは静かにそう言うと、冷静な瞳のまま、男を連れ出した。
室内の捜索は鑑識班に任せ、ふみは静かにその場を離れた。
取り調べ室のガラス越しに、男が椅子に座る姿を見つめる。
取り調べは、ベテランの刑事が担当した。
最初は黙秘していた男も、時間が経つにつれ、少しずつ言葉を紡ぎ始めた。
「DNAが出てるんだ」
刑事の声は静かだった。
「みさえさんの爪から。彼女は、最後の力を振り絞って証拠を残してくれていた」
その瞬間、男の肩がわずかに揺れた。
ふみはガラス越しに、彼の表情をじっと見つめた。
やがて、男はぽつりぽつりと語り出した。
全てを語り終えた時、ふみは目を閉じた。
——終わったんだ。
彼女は、静かに心の中でそう呟いた。
みさえの無念。
他の五人の無念。
そして、これから被害に遭うかもしれなかった誰かの未来。
ふみは小さく息を吐いた。
「ありがとう」
彼女は心の中でそう呟いた。
—――お母さん、ありがとう。
外では朝の光がゆっくりと広がり始めていた。
長い夜が、ようやく終わろうとしていた。
つづく