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シグナル

青のシグナル


雨がフロントガラスを叩きつけるたびに、ワイパーが一定のリズムでそれをかき消していく。道路は黒く光り、ネオンの反射が水たまりの中でゆらめいていた。

彼の車は、夜のハイウェイを滑るように進んでいた。遠ざかる街の灯が、過去の記憶を引きずり出す。置き忘れたはずの思い出が、赤いブレーキランプの光とともに滲んでいく。

助手席で私は、無意識のうちにイヤリングを触っていた。小さな金の輪が冷たく、指先に絡まる。大人らしく振る舞うつもりだったが、心のざわめきは隠せなかった。彼はちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。

「このままでいいの?」
不意に私が言うと、彼は少しだけアクセルを踏み込んだ。

「せめて、雨の音が小さくなるまで」

青信号が二人を導くように点灯する。私はそっと彼の指先に触れた。その温もりが背中を押した。罪悪感が一瞬だけよぎるが、もう戻れない。

夜のハイウェイは無言のまま、ただ続いている。やがて、どちらからともなく唇が重なった。言葉よりも確かなものが、そこにあった。



キスの余韻が残るまま、車は静かに速度を上げていった。外はまだ雨が降り続いている。水たまりを跳ねるタイヤの音が、やけに遠く聞こえた。

彼は片手でハンドルを握りながら、もう片方の手で私の指をそっとなぞった。私はイヤリングをいじる手を止め、彼の手を握り返す。ほんの一瞬でも、現実から逃れたかった。

「このまま、どこか遠くへ行けたらいいのにね」
私の声は、ラジオの微かなノイズにかき消されそうだった。

「行く?」

彼の声は冗談のようで、でもどこか本気に聞こえた。私は笑って誤魔化そうとしたけれど、心の奥が少しだけ痛んだ。どこにも行けないことを、二人とも知っている。

助手席の窓に映る私の顔は、いつもより幼く見えた。イヤリングを外し、手のひらに包む。彼の妻と過ごす時間には、私の存在などなかったことになる。それがわかっているからこそ、こんな小さな仕草に意味を持たせたくなった。

「ねぇ、次いつ会える?」

彼は答えなかった。次の青信号が、私たちを許してくれるとは限らないことを知っていたから。



彼は何も答えないまま、助手席に視線を投げることもなく、高速の出口へとハンドルを切った。車はゆっくりと減速し、雨に濡れた街の光が近づいてくる。

次の約束をしないまま、私はただ窓の外を眺めた。イヤリングを指先で転がしながら、沈黙が落ちていくのを感じる。まるで、この夜がなかったことになるかのように。

「送るよ。どこまで?」

彼の声は優しいけれど、もう深くは踏み込んでこない。

「駅でいい」

それだけ言うと、彼は小さく頷いた。

助手席の窓に映る私は、少しだけ笑っているように見えた。こんな夜が何度続いても、いつか終わることを知っているから。

駅前のロータリーで車が停まる。ドアに手をかける前に、一瞬だけ迷った。けれど、何も言わずに外に出る。

「…気をつけて」

彼の言葉を背中で聞きながら、私は傘を開いた。振り返らずに歩き出す。

イヤリングを外し、ポケットにしまった。彼の指の温もりごと、そっと閉じ込めるように。

次の青信号が、私を別の世界へと送り出していく。

駅のホームで電車を待ちながら、ポケットの中のイヤリングを握りしめる。冷たい金属の感触が、さっきまで彼が触れていた指の温もりをかき消していくようだった。

次の青信号が、私を別の世界へと送り出してしまった。でも、私は本当に戻ってしまったのだろうか。

電車がホームに滑り込む。ドアが開いても、私はすぐに乗り込めなかった。帰る場所があるはずなのに、どこへ向かえばいいのか分からなくなる。

「また、会いたい」

その言葉を口にしたら、すべてが崩れてしまう気がした。彼の中で私は、ただの一夜の幻のままでいたほうがいいのかもしれない。

でも、それならどうしてこんなに心が痛むのだろう。

電車に乗り込んで窓にもたれる。ガラスに映る自分の顔は、どこか遠い場所にいるみたいだった。イヤリングをそっと耳につけ直す。

この恋がどこにも行き着かないことは、分かっている。後戻りできないことも、最初から知っていた。

それでも、次の青信号が灯るたびに、私は彼のことを思い出してしまうのだろう。

「週末、温泉に行こう。」

彼からのメッセージを見た瞬間、心臓が少しだけ跳ねた。

"君が遠くへ行きたいって言ったから。"

その言葉が画面に添えられていた。あの夜、冗談のつもりで言った言葉を、彼は覚えていたのだ。

スマホを握りしめたまま、どう返事をすればいいのか迷う。

行きたい。会いたい。でも、この関係に踏み込めば、もう本当に戻れなくなる。

イヤリングを触る指が、無意識に震えていた。

***

週末、私は彼の車の助手席にいた。

雨は降っていなかった。けれど、夜のハイウェイは相変わらず静かで、少しの罪悪感と、抑えきれない期待が入り混じる。

「2人っきりで過ごしたかったんだ」

彼が笑う。私は何も言わずに、イヤリングを外してポケットにしまった。

今夜だけは、何も考えたくなかったから。

高速を降りると、夜の空気が肌に触れた。少し冷たい風が吹き抜ける。

温泉宿の駐車場に車を停めると、彼は私を見た。

「さあ行こう」

私はゆっくり頷いた。

後戻りできない恋だと分かっている。でも、それでもいい。後悔だけはしたくなかった。

静かな廊下を歩き、部屋の扉が閉まると、外の世界が遠のいていく。浴衣に着替えた私を、彼は黙って見つめた。

「2人はこうなる運命だった」

自分で言い聞かせる。

私は何も言わずに近づいた。彼の手が私の頬に触れた瞬間、すべての迷いが消えていく。

抱きしめられる温もりの中で、私はイヤリングをそっと外し、枕元に置いた。

今夜だけは、何も考えたくなかったから。

の光が薄いカーテンを透かして、静かに部屋に差し込んでいた。

隣で眠る彼の横顔を見つめながら、私はそっと息を吐く。

昨夜、抱かれた瞬間にすべてが許される気がした。でも、それは錯覚だったのかもしれない。

彼の指が私の髪を優しく梳いた感触も、囁かれた言葉も、今はもう遠く感じる。

楽しいはずなのに、心の奥が少し痛んだ。

「…何考えてる?」

彼が目を覚まし、眠そうな声で囁く。

「何も」

私は微笑んで、イヤリングをつけ直す。

後戻りできない。でも、先に進むこともできない。

この恋は、どこにも辿り着けないことを知っているから。

「朝風呂、行く?」

彼の何気ない誘いに、私は小さく頷いた。

楽しい。でも、苦しい。

この温泉の湯気に紛れてしまえば、ほんの少しだけ、迷いを忘れられる気がした。

断ち切った恋



彼女がこの島に来たのは、何かを始めるためではなく、終わらせるためだった。

不倫関係に終止符を打ったのは、ほんの数日前。彼が家庭に戻る決心をしたわけではなく、彼女が「もういい」と言っただけだった。ずるずると続けることもできたし、待ち続けることもできた。でも、それは違うと思った。

「ひとりにならなきゃ」

そう思い立ち、携帯をオフにしてフェリーに乗った。島に着いたとき、不思議と気持ちは軽かった。潮風のせいか、それとももう泣き尽くしたからか。

***

「ここ、空いてますか?」

小さなカフェで、彼はそう言った。深い声。飾り気のないまなざし。彼女は頷き、適当にメニューを眺めるふりをした。でも、彼がすぐに視線を逸らさなかったことに気づいていた。

「旅行ですか?」

「ええ、まあ」

「僕もです」

彼女は静かに笑った。こういう会話は何度もしてきた。出会いなんていつだって唐突で、いつだって期待に満ちている。でも、今の彼女には何の期待もなかった。ただ、知らない人と話すのが心地よかっただけだった。

「何かを探しに?」

彼が言った。彼女は少し考えてから答えた。

「何かを手放しに、かな」

彼は少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。

「僕も似たようなものかもしれません」

彼女は興味が湧いた。でも、それ以上は聞かなかった。

***

翌朝、彼と港でばったり会った。

「おはようございます」

「おはようございます」

それだけで、なぜか笑ってしまった。

そのまま一緒に朝食をとり、島の小道を歩いた。彼は肩肘張らない人だった。静かだけれど、沈黙が心地よい。彼女の話を聞くのが上手だった。彼女がぽつぽつと不倫のことを話し始めたのは、気がつけば夕暮れの浜辺だった。

「私、愛ってなんなのかわからなくなったんです」

波の音が答えるように寄せては返す。彼はしばらく黙っていた。それから、こう言った。

「それなら、もう一度考えてみたらいいんじゃないですか」

「……もう、一度?」

「そう。今度は、ちゃんと自分の隣を歩ける人と」

彼女は彼を見た。

彼も彼女を見ていた。

ふいに、風が吹いた。

まるで、何かが終わることを祝福するような、何かが始まることを予感させるような風だった。

彼女は彼の言葉を反芻した。「ちゃんと自分の隣を歩ける人と」——そんな人が本当にいるのだろうか?

「簡単に言うけど、それって難しいんですよ」

彼女は笑いながら言った。自嘲のつもりだったのに、彼は真剣な目をしていた。

「難しいのは、探し続けるからじゃないですか?」

「探さなかったら、見つからないでしょう?」

「そうかな。本当に必要なものって、案外すぐそばにあるのかもしれない」

彼女は返す言葉を見つけられなかった。ただ、彼の言葉が波の音と混じって、心の奥のどこかに静かに沈んでいくのを感じていた。

***

次の日も、彼と偶然会った。小さな雑貨店で、彼女が手に取ったシンプルなシルバーリングを彼がじっと見ていた。

「それ、いいですね」

「シンプルすぎません?」

「でも、そういうものほど飽きない」

彼はそう言って、隣の棚から同じデザインのリングを取り、試しに薬指にはめた。

「……」

「おそろいにします?」

冗談のつもりで言ったのに、彼は一瞬だけ考え込むような顔をして、

「いいですね」

と言った。

彼女は思わず吹き出した。「冗談ですよ?」

「でも、たぶんこういうのがいいんだと思う」

「何が?」

「ちゃんと隣を歩くって、こういうことなんじゃないかって」

彼はそう言って、レジへ向かった。彼女も、ついていった。

***

夜、彼女はホテルのベランダで小さなリングを眺めた。指にはめるつもりはなかった。ただ、光にかざして、くるくると回してみる。

携帯を開いた。別れた彼からのメッセージは、もうなかった。彼女も、送るつもりはなかった。

ふと、風が吹いた。

それはこの島に来た初日に感じたものと同じ、魔法のような風だった。

彼女はリングをそっと指にはめた。

そして、明日もまた彼に会いたいと思った。

それが、恋の始まりなのかどうかは、まだわからなかった。

でも、彼と一緒にいるとき、自分が嘘をつかなくていいことに気づいた。

それだけで、十分だった。

彼が帰る日、港のベンチに並んで座った。彼は大きなバックパックを足元に置き、潮風に髪を揺らしながら、静かに海を眺めていた。

「もう帰っちゃうんですね」

「うん。でも、東京に戻ったらまた会おう」

彼はそう言って、スマートフォンの画面をこちらに向けた。そこには彼の連絡先が表示されている。

彼女は一瞬だけ迷った。これまで、不倫相手の連絡先を消したことはあっても、新しく誰かの連絡先を登録するのは久しぶりだった。

「……はい」

彼の連絡先を登録すると、すぐに短いメッセージが届いた。

「また東京で。」

フェリーの汽笛が鳴った。

「じゃあ、また」

「また」

彼は振り返らなかった。でも、その背中はなぜかまっすぐで、彼女はそれを見送るだけで、なぜか少しほっとした。

***

彼がいなくなった島は、少し静かに感じた。カフェに行っても、彼が座っていた席がぽっかりと空いているような気がする。

彼のことを考えているのか、それとも彼の隣にいたときの自分を思い出しているのか——自分でもよくわからなかった。

でも、不思議と寂しさはなかった。

彼が「また」と言ったからかもしれない。

***

東京に戻る日、彼女はスマホの画面を見つめた。

「また東京で。」

彼はそう言った。

彼女は、そのメッセージを指でなぞるようにしながら、送信画面を開いた。

そして、迷いながらも、こう打ち込んだ。

「東京に帰ります。」

送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。

数秒後、彼から返信が来た。

「おかえり。時間できたら、ごはんでも行こう。」

彼女はふっと笑った。

もう探さなくてもいいのかもしれない。

「ちゃんと隣を歩ける人と」——その言葉が、今は少しだけ現実味を帯びて聞こえた。

つづく

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