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爆弾事件
携帯を握りしめたまま、八田ふみ刑事は車のハンドルを叩いた。通じない。夢宮三太に連絡が取れない。
フロントガラスの向こうには、冬の東京の空が広がっている。冷たい雲が低く垂れ込め、どこか遠くでサイレンの音が響いていた。時間は刻一刻と過ぎている。犯人の予告時間まで、あと一時間しかない。
「おい、どうする?」助手席にいる後輩の宮田が、焦った声で言った。彼の額には薄く汗が滲んでいる。
「どうするって、私に聞かないで」ふみは短く答え、再び携帯を見た。画面には何の変化もない。コール音すら鳴らない。電源が切れているのか、それとも……。
夢宮三太。都内の大学で心理学を教えている、少し風変わりな男だ。彼の推察力は異常なほど鋭く、過去に何度も事件の核心を言い当ててきた。まるで、犯人の視線の先をそのまま覗き込んでいるかのように。
しかし、今回は違った。彼が示した場所には爆弾はなかった。どこかで読み違えたのか、それとも……犯人が先回りしていたのか。
「もう一度整理しよう」ふみは車のエンジンをかけると、低い声で言った。「夢宮の推理が外れることは、ほとんどない。もし間違っていたとしたら、それはおそらく情報が足りなかったせいだ。俺たちが何かを見落としている可能性が高い」
宮田は唇を噛みしめ、ノートをめくった。事件の概要、これまでの予告、爆弾が仕掛けられた場所、そのすべてが雑然と並べられている。
ふみは窓の外を眺めた。東京の街は何事もなかったように動き続けている。人々は歩き、車は走り、コンビニのドアが開いて閉まる。だが、あと3時間でこの風景が破壊される可能性がある。
「夢宮が消えた理由を考えろ」私は呟いた。「もし、奴が犯人の思考を完全に読み取っていたとしたら?」
宮田が顔を上げる。私は携帯を再び見つめた。
夢宮は、どこで、何をしている?
夢宮三太は、まるでそこに爆弾が仕掛けられていなかったことを知っていたかのように、ゆっくりと黒板のチョークを置いた。
「では、今日の講義はここまでにしましょうか」
彼は微笑み、教室の後方に立つ警察官たちを見つめた。学生たちはざわついていた。警察が授業を中断するなど、普通の大学生活ではありえないことだった。だが、夢宮にとってはそう珍しいことでもなかった。
「先生、何があったんですか?」前列に座っていた女子学生が不安そうに尋ねた。
夢宮はチョークの粉がついた指を軽く払うと、淡々と答えた。「まあ、少し厄介な仕事が入ったみたいですね」
警察官のひとりが苛立ったように言った。「先生、急いでください。時間がありません」
夢宮は軽く肩をすくめると、ジャケットを羽織り、教壇の横に置いてあったスマートフォンを手に取った。画面は黒いままだった。電源が切れている。彼はそれをポケットに滑り込ませ、警察官たちの方へと歩いていった。
外へ出ると、冬の冷たい空気が頬を刺した。どこか遠くでサイレンが鳴り響いている。パトカーの赤い光が、大学の構内に奇妙な影を落としていた。
「状況を聞かせてくれませんか?」夢宮は助手席に乗りながら言った。
運転席にいた刑事は振り返りもせず、低い声で答えた。「爆弾の予告時間まで、あと2時間だ。君の言った場所には何もなかった」
夢宮は目を閉じた。まぶたの裏に、これまでの事件のパターンが次々と浮かんでくる。思考の糸を手繰るように、彼は静かに言った。
「……つまり、何か情報が抜けてた、ということですね」
夢宮三太は、捜査本部の硬い椅子に腰掛け、指を軽く組んだ。蛍光灯の白い光が彼の細い眼鏡のフレームに反射している。
向かいの席に座る刑事、ふみは腕を組み、鋭い視線を送ってきた。彼女は疲れていた。ここ数日の睡眠時間はおそらく三時間にも満たないだろう。それでも彼女の目は、まるで暗闇の中に光る猫のように冴えていた。
夢宮はポケットからスマートフォンを取り出し、電源を入れた。未読の着信とメッセージがいくつも表示される。彼はそれらを一瞥し、画面を伏せた。そして、静かに口を開いた。
「何か、大事な情報が抜けてませんか?」
ふみは眉をひそめた。「どういう意味?」
「大事な情報は、多分、もう伝えているんですよ」
彼は微笑み、指先でテーブルを軽く叩いた。まるでピアノの鍵盤を弾くように。
「つまり、大事じゃない情報のほうが重要だということです」
「大事じゃない情報?」ふみは資料をめくる手を止めた。
「犯人は私の推理を読んでいた。だから、こちらが予測した場所には爆弾を仕掛けなかった。でも、すべての情報を読まれていたわけではない。ほんの些細なこと、誰も気に留めなかったようなこと。その中に、真実への扉が隠されているはずです」
ふみは黙ったまま、資料の束を見下ろした。彼女の指が震えているように見えたのは、疲労のせいか、それとも焦りのせいか。
外ではまだサイレンが鳴っている。時計の針は、残された時間を無情に削り取っていた。
夢宮三太は、静かにコーヒーをすすった。もうぬるくなっている。どこかで誰かが小さくため息をつく音がした。
「爆弾事件とは関係ないと思っていた別の事件が、犯行の1日前に起きている」
彼はそう言って、視線をふみに向けた。彼女は腕を組んだまま、無言でこちらを見つめている。壁の時計の針が、静かに時間を刻んでいた。
「関係ない事件?」ふみが口を開いた。「それは何?」
夢宮は軽く首を傾げ、思考を整理するようにテーブルの縁を指でなぞった。
「渋谷で起きたひったくり事件です」
「ひったくり?」ふみの眉がわずかに動いた。
「ええ、単なる窃盗事件として処理されかけていました。被害者は若い女性。バッグを奪われて転倒し、軽傷。犯人は逃走中。ニュースにもほとんど取り上げられていません」
ふみは目を細めた。「それが、どう爆弾事件と繋がる?」
夢宮はゆっくりと微笑んだ。
「繋がるかどうかは、まだ分かりません。ただ、この事件には妙な点があるんですよ」
彼はポケットからメモを取り出し、指先で軽くはじいた。
「その女性は、バッグを奪われた直後にこう言ったそうです——『何かおかしい。あの男、私のバッグには興味がなかった』」
「……どういう意味?」
「彼女の証言によると、犯人はバッグを奪った後、中身を確認する様子もなく、すぐに道端に投げ捨てたらしいんです。金目の物には手をつけずに」
ふみは息を飲んだ。
「じゃあ、そのひったくりの目的は——」
「何かを奪うことではなく、何かを仕込むことだったのかもしれません」
部屋の中が静まり返った。時計の針の音が、やけに大きく響いている。
外ではまだサイレンが鳴っていた。
夢宮三太は静かに席を立ち、コートの襟を正した。彼の動きは穏やかで、一見すると、この場の緊張感とは無関係なように見えた。しかし、彼の目は違った。何かを見通すように、淡々と、しかし鋭く光っていた。
「引ったくり事件の被害者に共通するのは、その女性が勤めている会社が入っているビルで爆発事件が起きていることです」
ふみは顔を上げた。手元の資料をめくる指が、一瞬止まる。
「つまり?」
夢宮は短く息をつき、テーブルの上に置かれた未開封のペットボトルを指で軽く弾いた。水の中の気泡が揺れた。
「ということは、一番新しくひったくり被害にあった女性の勤めている会社が、次に狙われる可能性が高い」
部屋の空気が変わった。誰かが小さく咳払いをする。八田は眉間に皺を寄せた。
「……確かに、それなら筋が通る」
「地図を調べて対応してくれ」
夢宮はそう言って、コートのポケットに手を突っ込んだ。携帯が震えているのに気づき、画面を確認する。未登録の番号だった。彼は少し考えた後、通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
電話の向こうから、かすれた女の声が聞こえた。
「私の会社……おかしいんです。何か……何か変なんです」
ノイズ混じりの声が、ゆっくりと、しかし確実に、夢宮の脳に入り込んでくる。
外ではまだサイレンが鳴っていた。時計の針が、静かに時間を削っていた。