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愛を知ると

「春の夜の迷子」



春の夜は柔らかく、少し冷たく、どこか許されるような気がする。酔いが回るたびに、私は男の人の腕に引かれて、どこかへ流れていく。気づけば知らない天井、知らない毛布、知らない寝息。

朝が来ると、私は静かに服を拾い集め、足音を殺して部屋を出る。昨日の彼の名前を覚えていることもあるし、覚えていないこともある。でも、それが何になるというのだろう?夜の温もりは朝になると嘘のように冷めて、私はまた一人に戻るだけだ。

それでも、あの瞬間は確かにそこにあった。甘い言葉、指先の優しさ、孤独を忘れさせる体温。それが全部偽物だったとしても、私はその偽物にすがることを選んできた。

けれど今、私は新しい命を抱えている。誰の子かはわからない。でも、それはきっと関係のないことなのだ。春の夜の記憶が交差する中で、たったひとつ確かなことは、私の中に小さな鼓動が生まれたということ。それだけが、いまの私の真実だった。

「静かな春の約束」



春の風がカーテンを揺らす。窓の外では、桜が咲き始めている。私はベッドに座り、そっとお腹に手を当てた。そこにいるのは、たった一人の私の子どもだった。

父親が誰なのか、それはもうどうでもいいことだった。夜の優しさはいつも一時的で、朝が来れば霧のように消えてしまう。けれど、この子だけは違う。確かに私の中にいて、誰のものでもない、私だけの存在だった。

私は今までずっと、誰かに愛されたくて、誰かの温もりを求めて生きてきた。でも、それはまるで砂を握るようなもので、どれだけ手を握りしめても指の間からこぼれ落ちていく。どれだけ男の腕に抱かれても、朝にはまた一人になっていた。

でも、この子は違う。私がどこへ行こうと、何をしようと、この子は私の中で静かに育っていく。誰のものでもなく、誰にも奪われることのない、たった一つの確かなもの。それだけでいい。それだけで、私はもう十分だった。

窓の外の桜が、風に揺られて静かに舞った。私はその花びらを眺めながら、小さく微笑んだ。

「一緒に生きよう」

そう呟くと、お腹の奥で小さな鼓動が響いた気がした。


「母の笑い声」



春の午後、私は母に電話をかけた。陽の光が窓辺に落ちて、部屋の隅を静かに照らしている。

「お母さん、私、妊娠した」

電話の向こうで一瞬の沈黙があった。でも、それはほんの一瞬だけだった。

「困った子ね」

母はそう言って笑った。まるで天気の話でもするような、軽やかで、どこか温かい笑い声だった。

私はスマートフォンを握りしめながら、窓の外を眺める。桜の花が風に揺れている。

「怒らないの?」

「怒ったって、もういるんでしょう?」

母はいつもこうだった。私がどんな失敗をしても、どんな道を選んでも、怒ることはなかった。まるで川の流れを見つめるように、ただ受け入れる。何があっても、時間は進むし、人生は続く。だから、彼女は私を責めない。ただ、「困った子ね」と笑うだけだった。

「どうするの?」

「産むよ」

「そう。それなら、頑張るしかないわね」

それだけの会話だった。でも、それで十分だった。

電話を切ったあと、私はコーヒーを淹れた。カップから立ちのぼる湯気を眺めながら、母の笑い声を思い出す。

私はきっと、この子にも同じように笑ってあげられるだろうか。

「困った子ね」

そう言って、いつかこの子を笑って抱きしめられるだろうか。

カップの縁にそっと唇をつけながら、私は小さく息を吐いた。

「春の引っ越し」



桜の花びらが風に乗ってベランダに舞い込んでくる。私はパソコンの画面を眺めながら、コーヒーを一口飲んだ。冷めかけたコーヒーの味は少し苦い。

引っ越しを決めたのは、突然のことだった。母に電話をした次の日、私はふと気づいた。ひとりでいることに、もう意味がないのかもしれない、と。

フリーランスの仕事は相変わらず続いている。ホームページの制作と管理。クライアントのメールに返信し、コードを書き、画像を調整する。仕事は手のひらの中にあり、インターネットの波に乗ってどこへでも流れていく。

「育てていける?」

母にそう聞かれたとき、私はすぐに答えた。

「うん、大丈夫」

「そう。それなら一緒に暮らせば?」

母は当たり前のことのように言った。私は少し考えた。母のいる家には、古いソファがあって、使い込まれたダイニングテーブルがあって、冬になるとストーブの上にやかんが乗る。私の部屋にはないものばかりだ。

「そうだね」

私はそう答えた。

静かな春の午後、私は荷造りを始める。使い古したマグカップ、本棚に並ぶペーパーバック、ノートパソコン。ひとつずつ箱に詰めながら、私はお腹にそっと手を当てる。

「新しい生活が始まるね」

誰にともなく呟いた。

窓の外では、風が吹いている。桜の花びらが、静かに舞っていた。

「投資という名の静かな時間」

春の風がレースのカーテンを揺らす。私はパソコンの画面を開き、証券会社のサイトを眺めた。株価のチャートがゆっくりと波を描いている。

父が亡くなったのは、私が高校生のときだった。地主の長男として生まれ、土地を持ち、マンションを経営し、駐車場を貸し出していた父。彼は多くを語らない人だったけれど、土地の管理はまるで季節の移り変わりのように自然なことだった。

彼が亡くなったあと、母はすべての土地を相続した。姉と私は現金を受け取った。

「好きに使えばいいわよ」

母はそう言った。でも私はそのお金には手をつけなかった。何か大きなものを買うわけでもなく、旅行に行くわけでもなく、ただ淡々と投資に回した。まるで、何かを待っているように。

姉はオーストラリアに渡り、結婚し、今は向こうで暮らしている。きっと同じ時期に子どもを産むことになるだろう。でも、私たちはお互いの生活について、あまり深く話さない。遠く離れていても、血のつながりは静かに続いている。

私は画面を閉じ、ソファに身を沈めた。お腹にそっと手を当てる。

「この子のために使うべき時が来たら、使おう」

誰に言うでもなく、そう呟く。

窓の外では、新緑が陽に照らされて光っていた。投資したお金のように、静かに、ゆっくりと育っていくものがある。

「双子と母の笑い声」



春の午後、診察室の窓から柔らかな光が差し込んでいた。医者はモニターを指さしながら、静かに言った。

「双子ですね」

私は数秒間、その言葉の意味を考えた。双子。二人。同時に生まれる命。

「へえ」

とだけ答えた。

病院を出ると、春風が頬を撫でた。携帯を取り出し、母に電話をかける。

「お母さん、双子だって」

数秒の沈黙のあと、母はケラケラと笑い出した。

「いっぺんにすむね」

「……驚かないの?」

「だって、もういるんでしょう?」

この人は本当に、何があっても驚かないんじゃないかと、私はいつもながら思った。

「お姉ちゃんと、どっちが先に孫を抱かせてくれるのかなあ」

母はそんなことを言いながら、まだ笑っていた。

私はスマホを握りしめたまま、歩道のベンチに腰を下ろした。桜の花びらが風に乗って舞っている。

双子。私は誰とでも寝ていたわけじゃない。身長が高く、ガタイのいいイケメンとしか寝ていない。でも、二人の命の父親が誰なのか、それを考えても答えは出なかったし、出る必要もなかった。

私はただ、春の空を見上げた。桜の花が揺れていた。

「いっぺんにすむね」

母の笑い声が、まだ耳の奥に残っていた。

「父親探しの春」



夜が深くなるにつれ、コーヒーの味はどんどん苦くなっていく気がした。私はパソコンの前で指を止め、静かに息を吐いた。

私は大きな過ちを犯していた。

双子が生まれてくる。それ自体に不安はない。私は一人で育てるつもりだったし、父親が誰かなんてどうでもいいと思っていた。私にとっては。それは本当に些細な問題だった。

でも、子どもたちにとっては違う。

「どうして僕たちにはお父さんがいないの?」

その問いが、ふと頭の中に浮かんだ。あり得る未来のひとつとして。私はそのとき、なんと答えればいいのだろう。

「いらなかったから」

そんなふうに言ってしまうのは、あまりに簡単すぎる気がした。

可能性のある男は三人。

身長が高く、ガタイのいい男たち。酔った夜に優しくされた男たち。彼らの顔は、今でもはっきり思い出せる。でも、それ以上のことは知らない。彼らがどんなふうに朝を迎え、どんな人生を歩んでいるのか、私は何も知らなかった。

認知してくれとは言わない。一緒に暮らしてくれとも思わない。ただ、誰が父親なのか、それだけは知っておくべきだと思った。

だから私は探すことにした。

キーボードの上に指を置く。静かな夜の空気の中で、私は検索バーに最初の名前を打ち込んだ。

窓の外では、春の風が静かに吹いていた。

「バーの灯り」



春の夜風が肌を撫でる。私は久しぶりに、あのバーの前に立っていた。妊娠がわかってから、すっかりご無沙汰していた場所。扉を押すと、心地よいジャズが流れていた。

「やあ、久しぶり」

カウンターの向こうで、マスターが微笑んだ。彼は還暦を迎えたはずだが、その穏やかな目の奥には、相変わらず商社マン時代の鋭さが残っていた。

私はいつもの席に腰を下ろし、マスターに事情を話した。なるべく簡潔に。

「それで、彼らは今もここに来てる?」

マスターはグラスを拭きながら、しばらく考えるように視線を落とした。そして、ゆっくりと頷いた。

「一人は最近見てないな。でも、あとの二人は今でも時々来るよ」

「そう……」

私はグラスの縁をなぞった。

「なあ」

マスターが言った。

「何を期待してる?」

「何も。ただ、知りたいだけ」

マスターはそれ以上何も言わず、静かに頷いた。私は久しぶりにノンアルコールのカクテルを注文し、グラスを傾ける。

店内の柔らかな灯りが、グラスの中で揺れていた。

「静かな待ち時間」



二度目に訪れたとき、私はすっかり全ての事情を話した。

マスターはカウンターの内側で黙って話を聞いていた。彼はいつもそうだった。余計な言葉を挟まず、相手が話し終えるのをじっくりと待つ。だからこそ、私はこのバーに通っていたのかもしれない。

「なるほど」

彼はそう言って、グラスを一つ取り上げた。少し考えるように氷を転がし、そして私を見た。

「連絡先を教えてくれるか?」

「うん」

私はスマートフォンを取り出し、番号を口にした。

「彼らが来たら、伝えておくよ。ただ、会うかどうかは向こう次第だ」

「それはわかってる。でも、私から連絡するよりはいいと思う」

「そうだな」

マスターは微かに笑った。

店内にはゆったりとしたジャズが流れている。私はグラスの縁を指でなぞりながら、ふと考えた。これからどうなるんだろう、と。

でも、その答えを急ぐつもりはなかった。

私は静かに息を吐き、カクテルの氷が溶けるのを眺めた。待つしかない。今はただ、そういう時間なのだと思った。

「秘密のままの約束」



三度目にバーを訪れたとき、マスターは静かに言った。

「妊娠してることは内緒にしておいた。ただ、会いたいって伝えたよ」

彼はグラスを拭きながら、ちらりと私の方を見た。私は頷いた。

「ありがとう」

「気にするな」

店内には相変わらず柔らかなジャズが流れている。私はグラスの中の氷を指先で転がした。

「誰か、反応あった?」

「一人はすぐに『会いたい』って言ってたよ」

「そう」

「もう一人は少し考えるってさ」

私はカウンターの木目を見つめながら、少しだけ息を吐いた。マスターは私の心境を察したのか、グラスを静かに置いた。

「どうしたい?」

「まだわからない」

「それなら、それでいいさ」

マスターはそう言って、私の前にノンアルコールのカクテルを置いた。グラスの中で氷が静かに揺れていた。

秘密のまま、物事が進んでいく。私はそれを、ただ静かに見守るしかなかった。

「夜の約束」



それからしばらくして、マスターから連絡があった。

「すぐに会いたいって言ってたよ」

短いメッセージがスマートフォンの画面に浮かぶ。私はしばらくそれを眺めていた。まるで、水面に落ちた小石の波紋を見つめるように。

私はゆっくりと返信を打った。

「バーで会おう」

送信ボタンを押すと、部屋の中の空気が少し変わった気がした。

窓の外には春の夜風が吹いていた。カーテンがわずかに揺れる。

私はベッドに腰を下ろし、しばらく考えた。

この再会が、何をもたらすのか。

でも、それはきっと今考えることではない。

私はスマートフォンを伏せて、静かに目を閉じた。

約束の時間まで、まだ少しある。

「期待と沈黙」

彼は嬉しそうにバーに現れた。

少しだけ髪を整え、シャツの袖をまくっている。私と目が合うと、すぐに笑った。その表情から、彼が何を期待しているのかは簡単にわかった。

「久しぶり」

「うん、久しぶり」

私はグラスの中の氷を指で転がしながら答えた。

彼は昔と変わらず、軽い口調で冗談を言いながら私の隣に腰を下ろした。会話の合間に、彼の視線が時折私の体を探るように動く。

「それで、どうしたの?」

「別に。ただ、会いたくなっただけ」

私は微笑んで言った。

彼はグラスを傾けながら、探るように私の顔を見た。その瞳には、夜の続きへの期待が滲んでいた。

私はそれを適当にあしらいながら、ゆっくりとカクテルを飲んだ。妊娠の話をする気にはなれなかった。する必要もなかった。

彼は最後まで何かを期待していたが、私が先に席を立つと、少しだけ戸惑った顔をした。

「また連絡するね」

そう言って、私はバーを出た。

夜の風が頬を撫でる。

私はそのまま、駅まで歩いた。



「静かに溶ける氷」



指定された時間より少し早くバーに着いた。

扉を押すと、彼はすでにカウンターに座っていた。

疲れが先に腰を下ろし、バーボンをロックで飲んでいた。琥珀色の液体がグラスの中で静かに揺れている。

俺の好きなのは IW ハーパー だった。

その一言が、記憶のどこかで静かに響いた。

私は少し息を整え、隣の席に座った。

「久しぶり」

「……ああ」

彼は視線をグラスに落としたまま、ゆっくりと飲んだ。

「怒ってる?」

「怒ってる」

「どうして?」

彼は氷を転がしながら、私を見た。その目の奥に、静かな痛みが滲んでいるのがわかった。

「朝、黙って消えたことを」

私はカウンターの木目を見つめた。

「遊びで誘ったわけじゃなかった」

彼の声は低かった。

「本当に、お前のことが好きだったんだ。あの夜も、その前も……その後も」

私は目を閉じた。

「とても、つらかった」

その言葉は、氷のように冷たく、それでいて深く沁み込んできた。

私はゆっくりと息を吸い込んだ。そして、言った。

「妊娠してる」

静寂が降りた。

彼はグラスを置いた。小さな音が響いた。

「……俺の子か?」

「それは、わからない」

彼はしばらく黙っていた。

私はその沈黙が怖くて、思わず視線を落とした。

「……そうか」

彼はふっと笑った。

驚くほど優しい笑顔だった。

「でも、お前の子なんだな」

「そう」

「じゃあ、それでいい」

私は思わず彼を見た。

「いいの?」

「ああ」

彼は少しだけ肩をすくめた。

「そんな大事なこと、お前一人で抱え込むなよ」

その言葉に、胸の奥がふっと緩んだ気がした。

「……どうしたい?」

「まだ、わからない」

彼は微笑んだ。

「じゃあ、わかるまで一緒に考えよう」

彼のグラスの中の氷が、ゆっくりと溶けていく。

私はその透明な雫を見つめながら、少しだけ息を吐いた。

「静かに染み込むもの」



彼の言葉は、まるで夜の雨のようだった。

静かに、穏やかに、それでいて確実に私の中に染み込んでいく。

私は遊びだった。彼にとっては違った。

それが会話の端々から、徐々にわかってきた。

「そんな大事なこと、お前一人で抱え込むなよ」

彼はそう言った。まるで当たり前のことのように。

私はグラスを指でなぞった。氷が溶けて、薄くなったバーボンがゆっくりと波紋を広げていく。

「……真剣なんだね」

「最初からそうだった」

彼は淡々と言った。

私は黙っていた。

真剣に愛されることが、どういうことなのか。

今までよくわからなかった。

だけど、彼と話していると、それが少しずつ形を持ちはじめた。

「考えてみてもいい?」

「もちろん」

彼は微笑んだ。その笑顔は、どこまでも穏やかだった。

私はふっと息を吐いた。

氷の溶けかけたグラスの向こうで、彼の姿が少し揺れて見えた。

「丸くなる心」

彼といると、世界の輪郭が少しずつ柔らかくなっていくのを感じた。

私はずっと、自分の心が鋭利な刃物のようだと思っていた。

人を深く傷つけることも、自分自身を傷つけることもできる、そんな心。

でも、彼と話していると、その刃がゆっくりと削られ、角が取れていくような気がした。

愛されるということが、こんなにも居心地のいいものだとは思わなかった。

誰かの優しさに身を委ねることが、こんなにも心を穏やかにするものだとは知らなかった。

私はグラスを揺らしながら、静かに彼を見つめた。

「なんか、変な感じ」

「何が?」

「丸くなっていく」

彼は少し笑った。

「悪くないだろ?」

私は考えて、頷いた。

「うん、悪くない」

彼は何も言わず、ただ私の隣に座っていた。

バーの空気がゆっくりと流れていく。

私はもう、どこかへ逃げる必要がないような気がした。

「指輪の重さ」



次に会ったとき、彼は小さな箱を持っていた。

バーの薄暗い灯りの下、それを静かに差し出す。

「開けてみて」

私はゆっくりと蓋を開けた。

中には、シンプルな指輪が入っていた。

「子供、一緒に育てたい」

彼の声は低く、けれど揺るぎなかった。

「君を一生大切にしたい」

誠実な瞳が、まっすぐ私を見つめていた。

私は指輪を見つめ、それから彼を見た。

何かを疑う必要はなかった。

迷いも、不安も、不思議なほどなかった。

「……イエス」

私の声は、驚くほど自然だった。

彼は微笑み、私の左手を取って、そっと指輪をはめた。

指に感じるわずかな重み。

それは、思っていたよりもずっと、心地よかった。

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