奏で文句

たまに聞かれること、そして自分でも考えること。

「この先、どうなっていきたい?どうしていきたい?」という問。

いつも自分に問いかけたりもする。

言葉にするのは、とても難しい感覚で
どうやって言葉にすればいいのかわからないのではいるんだけど。

なぜか言葉にしたがる感覚がある。なんだろうか。

どうなっていきたい、きっとあんまり。ないのかもしれないね。

やってみたいこと、単純な好奇心はある。
けど、「これ。絶対!」という熱量のものはないというか、
きっともう、満足しきってしまっているんだろうね。

もう、生きてることに満足しきってしまっている。
だから、正直それ以上望むのが、正直ないのかもしれない。

今やっている活動も「目標」が存在して、それに向かっているのでもなく、
ただただ単純に、「それが好きだから」「それをやっていて心地がいいから」
「それをやっていて心が喜ぶから」それだけでやっている。
だから、どうしてもそれ以上の先の意識も、問いも。繋がりにくい感覚がある。

やっていることの意味に、将来こうなりたいという願いも欲もない。
ただただ、触れていたい、それを身近でやり続けれる人生であること、そもそも出会えていること、やる環境があること、その業界での出会いがあること。
とにかく「触れられている」ことがいちばんわたしには大事なことで。
それが今日も、「触れられて」いれば、それ以上の先のことは何も望んでないんだろうな。うん、なんかそんな感覚があるんだよ。

しばらく、歌を歌えてないことがとても苦しい。
しばらく、絵を描けてないことがとても苦しい。

そのものに触れたくて、触れたくて。
でも今の環境には、それがないので、できない状態にある。
あと数週間で終わりそうな気配はある。
やっと戻れそう。


できることが、触れられていることが、そのこと自体が
こんなに自分の内側の中にあるもとがつながる大事なもので。
だから、今はただただ触れられることへのありがたさを感じているし、
とっても自分が求めていると思うね。

なんか、きっとこの状態であれば、
数ヶ月の前の自分よりも、いい歌が歌える気がするし、いい歌詞もどんどん出てきそう。

作曲の天才と一緒にいると、やっぱり「作曲したいんだよね」って思うね。
わたし、きっと作曲したいんだって気づき始めてる。
まだ実際に行動に移るまでには距離があるけど、
もっと今踏まなければならない打点があるから、その打点の踏み数がまだ足りてないから、はじまりはそこからね。
やっぱり歌うだけではなくて、音楽を作りたがっている自分がいるよね。
そこに最近気づき始めている。そのモチベーションがある。
それは、きっと死んだときのためっていうモチベーション。

音楽って、歌詞を乗っければ言語にはなるんだけど
実は非言語要素の塊だから。
たとえこの先離れていって、言語が通じなくなったとしても
音楽という非言語で伝え合う、まるでちょっと物質化したテレパシーのような。
言語とテレパシーの中間の和音が、わたしにとっての音楽となりそうで。
それはやっぱり自分の内側にある感性で奏でたいと望んでいるよね、魂が。

自分がもうすぐ死ぬと考えたとき、
曲を作らず悔いなくいけるか?と思ったとき、
やっぱり、やりたかったなって思うよね、かなりのエネルギー値が触発するよね、そこにはさ。

だから、今年中にできるのか、来年になるのかわからないけど
来るべきタイミングでやっていいよ、と自分に許可だけはしておこうと思うんだよね。

今日はそんな感じ。
そんなものが出てきたね。



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