情報の限界性と空間の希望
偶然にも出会ったと思ってる人。
でもそれも偶然ではなく
その路線の回路が見えていないだけで
ちゃんとそこには重要な意味を持つ糸車で
紡がれ結ばれてる。
ただ、ぜんぶを捉えきれてはいないだけ。
そんな奇跡ともいえる星の出会いも
すべてが心地いいものとは限らない。
だからスッと抜け出して
またひとりで別の所へ移動して
ひとりの空気を吸いにきている。
そうではないと
呼吸がやっぱり深く吸えない。
どんなときでも
呼吸の深さはだいぶ変わらず生きれるようにはなった。
ただ情報の無が恋しくなるのは変わらず
そうすると人間から離れて
エネルギーの受けない場所
だれもいないところで
静かに佇みたくなる。
そうやってさ、
うまく調整してる。
また自分が折れてしまわないように。
こうやって静かになると
またいろんな言葉が出てくる。
だから、こうやって書いてる。
なんか書きたくなってしまったのは
情報の結果論について。
うまく言葉にできるかわからない。
でもさ
言葉にしたがってる自分がいる。
情報の限界性は
いつだって結果論を書きたがる。
そこには時間幅が関係してるように感じる。
情報とはなにかしらの媒体に
転写するので、それが文字なりで起こされる。
そしてその情報空間内は停止する。
そう止まってしまうんだ。
吐き出す瞬間は生きものであっても
媒体の中へ挿入されると
それは化石となって動かないものとなって。
文字と称した情報になる。
ここが今発見したこと。
ああ、なんてつまらない物質になっちゃったの、ってね。
だからどうしてもね
止まってしまうものだから
その時間空間幅の表現が難しい。
だから、どうしたって
結果から。出来上がりから。
、、書かれるものになる。
案外ね、情報という分野は
その結果ではなく、その過程とプロセスに重要な要素が含まれているのに。
わたしはそう思うよ。
でもでも。
結果ばかり主張されやすい、残念ながらにね。
そしてここでおもしろい歪みを発見した。
何かを知りたくて。
何かを得たくて。
何かになりたくて。
情報を得に来ている。
そしてその情報から結果だけを抜け出した人間はどうなるんだ?って。
それは、それはね。
たぶん。
いつまでもその結果へはいけない道が、出来上がり、違う方向へいく。
ううん、いけるかもしれないの。
でも、大回りになるの。
気づくまでの大回り。
でも必要ってこと。
その人にとって、その「大回り」という過程と現象が。
おもしろいよね。
それを見出して学びにきているのに。
情報の限界性はそこにある。
そう、ここまで。
打点を踏んでいく過程が抜けていること。
そしての時間幅も
個人の人生のバイオリズムがあるから
情報の中への挿入は難しい。
それが2元の世界の情報で。
それがいつしか
情報立体となれば、
また情報の形も変わり、鮮度も変わり。
そして大事なプロセス、過程というものも
その中に挿入できる、、、はず。
今日は、そんなことを考えてる。
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