死とか愛とか赦しとか。
急に午前中の予定がなくなり、クリスマスイブだけど(?)おでんを仕込んでいた時に『赦しとは、終わらせること』という言葉が湧いた。
そうか、と思った。
相手と自分の違いを認めて、その相手も自分も認め受け入れることを赦しだと思っていたけれど、終わらせることが赦しなのか、と、なぜかしっくりきた。
よく考えてみたらそうなんだけれど。
子どもの喧嘩を見てみても、
お互いが違う主張を持ち意見も行動も食い違い、各々がまかり通らなくて相手を責めるけれど、ごめんねってお互いが言い合ってまた仲良く遊び始める。
このプロセスが赦しだなって思っていたけど微妙に違うのかも。
赦しって、また仲良く遊び始める前の段階の、喧嘩をひとつの経験として終わらせることで完結しているのか。
先日12月22日にカンタ!ティモールという映画を見たのだけれど、
(記事はこちら)
すごくそれにも通じるなと。
ひどい凄惨な侵略を受けた東ティモールの人たちは、拉致され殺された未だに見つかっていない身内がたくさんいるような現状にも関わらず「悲しみは残るけれど、もう恨んでいない。独立したのだから。」と、侵略の歴史を今ではないものとして終わらせている、という印象を私は受けた。
日本人は東ティモールの独立に反対の立場にあり、それが侵略を助長する結果になるのだけれど、それでも日本人を見てその過去を語りつつ、『もう独立したからね』と。
加害者の立場であろうが被害者の立場であろうが、その過去を水に(見ずに)流すとか、なかったことにしろとかではなく、ちゃんと過ちだったと見て、でも終わったことだと手放し終わらせる。
その先にまた手を取り合おうが取り合わなかろうが、それはまた別の話。
その先に手を取り合う、愛するところまでを赦しだとすると、それを実践するのはなかなか難しいと思う。
ってか、愛するって、そもそも『人に優しくすること』ではないと思ってる。
というより、「愛」は動詞ではなく、形容詞だとさえ思っている。
「愛する、愛さない」という動詞ではなく、「愛である」という状態というか。
この世に存在できるのは、愛だから。
在れるということは愛の存在だから。
それを人がそれぞれの解釈で意味を付けているだけ。
例えば今の世界は「死」を忌み嫌うもの、避けるべきものというのが多いと思うけれど、もし「死」の概念が「喜ばしいもの、素晴らしいもの、率先して受け入れたいもの」という世界だったら「死なせてくれてありがとう」と、今とは逆のことを多くの人が思うだろうな、と。
今の世界でも死をどう捉えるかは人によって様々で、私の死産のブログに対して「お子さんの死はあなたやお子さんの過去の罪によって起こされたもの、それを肯定するとは何事か」的なありがたいお言葉も頂戴したのだが、それはあなたの意見よねって思うわけ。
私からすると、死産だって愛ですよ。
死産という尊い経験をさせてくれた3男には本当に感謝してる。
いじめもそうだし、性犯罪もそう。
両方とも私はいわゆる被害者の立場を経験しているんだけれど、そんな経験ができたことは私の人生において経験値大幅アップできた財産だと思っている。
私の場合、そう考えたほうが自分の心が軽くなるからそういう考え方を採用しているだけであって、それをしろ、とも思わないけど。
けど、いつまでも被害者とか加害者の立場で居続けるって、しんどいだろうなって思った。
だから、赦しとは終わらせることか、、、
よく考えたらそうだ、私の中ではとても腑に落ちた。
前に進みたいなら終わらせないと。次へ進めない。
同じステージを味わいきるのもあり。
どちらにせよ、生きてるんだ、私たち。
憎しみも苦しさも復讐も報復も悲しみも、愛だから在るんだ。
“今”持っている。それを赦そう。赦したら終わるから。
そうしたら、“今”が終わって“次の瞬間”がくる。
その次の瞬間にはまた違う選択をしてもいい。
いつだって苦しみや悲しみは終われるんだ、自分で終わらせられる。
終わったら、また次を選ぼう。何を選びたいのか、自分で決められる。
赦しってそういうものなのか。
そうか、赦しって終わらせることなのか。
…と、おでんを仕込みながら考えていたクリスマスイブでした。
次はクッキー焼かな。はよ、おでんの仕込み終わらせよ。
✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨
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