冤罪はなぜ生まれ続けるのか - 司法の限界と妥協点について
冤罪の原因と聞くと、多くの方は「悪い警官による自白強要や証拠ねつ造」や「ずさんな裁判官の失態」とかをイメージされるかもしれません。
たしかにそういう事例もありますが、この記事ではもう少し根本的な、「裁判ではどの程度の基準で有罪になるのか」をテーマに、冤罪の起きる理由について掘り下げていきたいと思います。
常識的な証明でOK
まず裁判で有罪にするために確実な証明は必要ありません。
確実な真実など人間には分からないため、そこまで高いハードルを置くと、まともに治安維持ができなくなるからです。なので近代司法では「常識の範囲で考えれば犯人に違いない」と思えるぐらいの証明ができていれば、有罪にしていいことになっています。
この基準は「合理的な疑いを超える立証」などと呼ばれています。
言い換えると、裁判では「常識外のことは起きない」という前提で、世界を単純化して事実を認定していきます。
もちろん現実には様々な不確実性や不合理が存在し、常識外のことはしばしば起きるわけで、「正確な事実」と「裁判で認定される事実」にはズレが生じます。
ではその常識的な証明とはどの程度のものなのか、過去の事件をいくつか参照してみましょう。
煙石博さん事件
「銀行に置き忘れた封筒からお金がなくなった」という女性客の訴えにより、防犯カメラに映っていた、封筒の近くにいた男性が起訴されました。女性の供述が事実だとすると、この男性しか犯人が考えられない状況だったのです。
しかしお金を盗った様子は映っておらず、封筒から男性の指紋も検出されませんでした。とはいえカメラに死角があったことなどから、確実に盗ってないとも証明できない状況でした。
その結果、一審と二審で有罪になっています。
もちろん女性が勘違いしてて、最初から封筒にお金が入っていなかった可能性も考えられます。しかし女性の供述に一貫性があったことや、お金の有無で封筒の重さや厚みが変わることから、裁判では「勘違いしていたとは合理的には考え難い」として、封筒にはお金が入っていたと認定されたのです。
最終的にこの事件では、弁護士がカメラの死角時間をもとに、この男性に犯行は極めて困難であるという反証実験を行ったことで、最高裁でかろうじて無罪が確定しました。
大阪コンビニ窃盗事件
コンビニで窃盗が起き、犯人が逃げるときに触れていた自動ドアから、近所に住む男性の指紋が検出されました。
さらにこの男性の体格が、防犯カメラに映っていた犯人と似ていたことや、コンビニ店員が「目元が似てる気がする」と言ったことから、検察は彼を有罪にできると判断して起訴しました。
しかし男性のスマホから、事件の時間帯に自宅にいたアリバイを示す写真が見つかりました。さらに男性の母親が防犯カメラを調べたところ、事件の5日前に、男性がそのコンビニの自動ドアに触れていた映像が見つかったのです。
それらが反証となり、裁判では無罪が確定しました。(後日、別人が犯行を認めました)
パソコン遠隔操作事件
ネット上で殺人予告をしたとして、発信元に住んでいた男性が起訴されました。当初、警察の解析でPCからマルウェア等は見つからず、第三者の関与は考え難いと判断されたのです。
しかし後日、別の事件で新種のマルウェアが発見され、それをもとに解析し直した結果、この男性のPCも同じ遠隔操作プログラムに感染しており、無実だったことが発覚しました。
さて、日本では起訴された事件の99.9パーセントは有罪になります。
つまり起訴した時点で、検察には「この証拠で確実に有罪にできる」という極めて強い確信があります。そうでなければ起訴しません。
何が言いたいかというと、裁判で有罪にするには、一般的に上記ケース程度の証拠があれば足りるということです。
上記のどの事件も確実な証拠などありませんが、それでも被告人側に強力な反証ができなければ、ほぼ確実に有罪が確定していたでしょう。
例えば被告人が何の根拠も示さず、「警察に見つけられないマルウェアでPCを遠隔操作されたのかも」と主張したとしましょう。世間は「そんな下手な言い訳が通用するか!」と非難するでしょうし、裁判所は「合理的には考え難い」として有罪判決を下すでしょう。
むしろそれで無罪にしていたら、同様の事件で誰も有罪にできなくなります。そのため裁判では、そういった例外的な事情まではなかなか考慮されないのです。
裁判所は社会の天秤である
冤罪が発覚すると「ずさんな裁判官が見誤った!」などと世間から非難されることがありますが、必ずしもそうとは言えないのです。
もともと裁判は、物事を常識ベースで単純化して事実を推認する手続きです。つまり全ては仮説に過ぎず、裁判官は有罪判決を下す際に、必ずしも被告人を犯人だと確信しているわけではありません。
あくまで手元にある情報から「合理的な疑いを超える立証(≒常識ベースの立証)」が成されたと判断しているだけで、それで冤罪だったとしても裁判官には知ったことではないわけです。それは裁判官の失態というよりは、司法制度そのものに内包されたリスクだからです。
この「合理的な疑いを超える立証」という基準は、人権と治安を天秤にかけた、この社会の究極的な妥協点です。この基準を超えると無実でも有罪になります。
つまり「常識」というあやふやな基準で、私たちの自由、財産、時には命さえも、社会によってあっさり奪われるリスクがあるということです。
そのリスクは見えにくいように伏せられており、あまり意識する人はいないかもしれませんが、私たちの社会の根っこの部分は、現代でもなおそういった荒っぽい仕組みで支えられています。
この不都合な現実を認識することが、冤罪問題を議論する際の重要な出発点になります。
司法の性能限界
イギリスの郵便局スキャンダルをご存じでしょうか?
郵便局のシステムエラーが原因で、1999~2015年までの間に、横領などの罪で大量の冤罪が生まれていたことが発覚したのです。
そのエラーは稀に発生するもので、当初は郵便局も「システムに欠陥は見つからなかった」という調査結果を報告していました。
「見つからなかった」とはいえ、「確実にない」と証明されたわけではないのですが、そんな高度な証明は不可能なので、裁判所としては一定のところで妥協するしかありません。
その結果、多くの冤罪被害者が生まれ、中には多額の弁済を迫られて路上生活に追い込まれる人や、犯罪者として世間から迫害されて自殺する人まで出てしまいました。
この郵便局スキャンダルは、「同一の原因」「大規模」「長期間」という特徴により、普段は見えない「司法の性能限界」が可視化されてしまった事例といえます。
長年にわたってこれほど多くの冤罪が生まれた以上、「ずさんな裁判官が真実を見抜けなかった」という裁判官個人の問題に矮小化できるものではなく、もともと近代司法システムには、世間が期待するほど冤罪を防ぐ機能はない、と考えるのが自然ではないでしょうか。
つまり司法制度が人々から信頼されているのは、冤罪を出さない確実な審理が行われているからではなく、単に冤罪が「見える化」されないからに過ぎないのではないか、ということです。
同一の原因であっても、これほど大量の犠牲者を出すまで冤罪だと分からないわけですから、1つ1つ背景や状況が異なる通常の冤罪が発覚することなど、まずないであろうことは容易に想像できます。
むしろ冤罪が1つでも見つかったなら、その裏には膨大な暗数があると考えるべきでしょう。
特に近年では、デジタル化やネットの発達によって社会が高度複雑化したことで、「人間の常識」と「正しい事実」との乖離はますます大きくなっているように思います。
郵便局スキャンダルやパソコン遠隔操作事件などに限らず、同じような冤罪は見えないところでも度々起きていると考えて間違いないでしょう。
刑事司法制度の目的
今まで話してきた通り、世の中は不確実性で溢れており、人間に確実な真実などそうそう分かるものではありません。では表向きは「真相解明」を標榜している刑事司法は、実際には何を目的としているのでしょうか?
身も蓋もないことを言ってしまうと、刑事司法制度の実質的な目的は、被疑者を有罪に演出することです。つまり、捜査機関が疑わしい人物を見つけて、有罪のストーリーを作り、その上に都合のいい証拠や証言を乗せていき、一定の納得感が演出できたら有罪にするという儀式です。
よく言われる、捜査機関による自白強要や作文調書、証拠隠し、証言の誘導なども、有罪を演出するための手段であり、よほどあからさまでもない限り裁判所もあえて黙認しています。マスコミの犯人視報道なども有罪演出に一役買っています。
結局のところ、冤罪ありきで裁かないと治安維持なんて出来ないという残酷な現実があり、それをいかに大衆に納得感を与え、有罪判決への不信感を抑えながら行うかが、刑事司法制度の本旨になるわけです。
それは神明裁判の時代から変わっていません。大衆を納得させる方法が「神意」から「常識」に切り替わっただけで、(大きな進歩とはいえ)どちらも恣意的に演出可能な基準には違いがありません。
色々な建前はあれど、私たちは未だに「儀式の時代」から抜け出せていないことは謙虚に認識しておかなければならないでしょう。
まとめ
刑事司法は世間が考える以上にフィクション性が強いものです。
テレビドラマのように、状況証拠から論理的に犯人を確定できるほど現実は単純ではありません。現実は様々な不確実性や不合理で溢れており、確実な真実などそうそう分かるものではないのです。
そのため事実認定を行うには、どこかで妥協が必要になります。それを、できる限り国民の信頼(冤罪など起きてないという印象)を保ちながら行っていくことが、刑事司法制度の目的と言っていいでしょう。
建前としては「冤罪はあってはならない」と言われていますが、実際のところは社会秩序を維持するためのコストとして容認されています。それは現代の生贄制度のようなものと言えるかもしれません。
ときに役人らは日常の流れ作業の一環として、あなたや家族の人生を地獄に変えようとしてきます。治安維持とは、そういった理不尽さと不可分な代物でもあるのです。
今後おそらく日本の治安は悪化していくので、政府も国民の期待に応えて治安維持には強気になっていくでしょう。社会全体に余裕がなくなり、メディアの晒し報道や、SNSやリアルでの私刑も今以上に活発化していくでしょう。
特にSNSの大衆の暴力性は無視できない問題になってきています。「悪い奴を晒して生活を脅かしてやれ」という風潮はますます過熱していくでしょうし、そういう世の中であることを前提に生きていくしかありません。
何にしろ、間違いなく人権の価値は今以上に軽くなっていくので、経済力やプライバシー、移動の自由の確保を中心に、あらゆる暴力に備えることを真剣に考えるべき時代に差し掛かっていると感じます。
世間や役人は、あなたの人権を大事に扱ってはくれません。あなたを守れるのは最終的にはあなただけです。