「演歌は暗い歌ばかり」は本当か? 洋楽DIVAと演歌歌手の相似性についての考察
私のタイムラインだけだろうか。
毎年、紅白歌合戦の石川さゆりの出演時間が"異様に"盛り上がる。
その盛り上がりは「歌うまい!」「かっこいい!」のレベルを超えていて、彼女こそが教祖だと言わんばかり、もはや崇拝の様相だ。
どうしてここまで人を惹きつけるのだろうか。
思うに、石川さゆりの歌唱は"抑圧からの解放"なのだ。
私たちはこれまでに嫉妬の感情だとか、恋を失った時に本気で叫んだことがあっただろうか。
本当は傷ついているのにみっともないから、大人の振る舞いじゃないからと、なんでもない・傷ついていないフリをしてしまう。
そうして蓄積されていったものを解いてくれるのが石川さゆりなのだ。
さゆりは絶対に手を抜かない、毎回本気で天城を越えに行く。
現実世界で口に出したらヒかれるであろう心中願望だってサラッと歌う。
「今日は天城を超えられません…」なんて日はこれまで一度もない、彼女なら確実に超えてくれる安心感がある。
ネットミームの"ギャル"の用法に近いと思うが、人の目や世間体を気にせず本能のままに生きる人を見るのは、演じているとしても気持ちがいい。
大晦日だからその年に失くした恋や仕事を手放すにもぴったりの時間だ。
紅白は複数人で見る人も多いから顔や口には出さないけれど、心では日本国民それぞれが石川さゆりの歌唱に合わせて泣き叫び、感情を剥き出しにし、キリスト教の懺悔室のように心の棚卸しを行っているタイミングなのだ…と思っている。
石川さゆりに限らず、演歌・歌謡曲の女性歌手には存在がエンパワメントといったパワフルな人たちが多い。
今回は洋楽DIVAとの相似性を考えていく。
舞台装置と衣装も自分自身
歌謡番組は歌手の衣装が特徴的だ。
「魅せられて」のジュディ・オング、「ボヘミアン」の葛城ユキ、
私を見なさい!とばかりの衣装にエネルギーをもらえる。
親戚と一緒に演歌番組を見る時、女性歌手だけに「この歳でこんな服を着るなんてみっともない」と揶揄する者が必ずいた。
価値観は人それぞれだが、誰もが年老いていくはずなのに未来の在り方を制限するような言葉には窮屈さを覚える。
しかし、それに似た言葉を何度もかけられてきただろう歌手がお茶の間の空気とは裏腹に堂々とパフォーマンスする姿に私はテレビ越しから何度も励まされてきたのだ。
このp!nkのつぶやきに似たものを感じる
空気は読むものじゃなくて、作るものなのだとばかりに客席を魅了している姿。
小林幸子の紅白の衣装は紅白の風物詩だ。新潟地震の時は抑えた衣装を着ていたけれど、服じゃなくて誰かを思うマインドがゴージャスだからなおさら輝いて見えた。
その布はただの衣装ではなく、表現手段。
この姿に私はDIVA性ーー直訳の歌姫という意味に留まらず、強い精神性やエンパワメントを届ける存在としての女王の風格を感じている。
失恋ソング=惨め、ではないという仮説
ここで歌手ではなく演歌で描かれる人物像にスポットを当ててみよう。
演歌は「男尊女卑」「時代錯誤」「耐える女」と言われることが多いが本当にそうなのだろうか。
代表的な演歌のヒロインといえば「北の宿から」の主人公だろう。
健気にセーターを編んでいる女性、
静かに戻らないだろう彼のことを思いながら恋しさを歌っている悲恋の歌だ。
しかし、私はこれが悲恋だとは思わない。
もしも男性に言われるがままセーターを編んでいるのだとしたら労働力の搾取なのだろうが、頼まれたわけではなく自分の未練を認識しながらセーターを編んでいる。
いわば失恋後のコーピングとして一時的に行っている可能性が高い。
こうして手を動かしたり、旅に出たりとたびたび彼のことを思い出しながらも違う作業で心をセルフケアする女性は数ヶ月後にきれいさっぱり吹っ切れている可能性が高いというのが持論である。
彼を忘れるために日本中を旅している水森かおりもそうだ。
「あなたを忘れるための旅」「明日は忘れられますか」、どの曲も忘れる努力をしているのが既に強い。
ここで引きずるタイプの人間は多分追いLINEなり、呼ばれたら家に行くなりでダラダラと関係性を切らずにいるはずだ。
次のステップのためにいじらしく暮らす姿だけを見れば耐える女かもしれないが、私から見れば未来の明るさすら感じるし、セルフケアが出来る自立した女性像なのである。
演歌はメンタルヘルス概念がない時代の寄り添い
少々強い言葉になるが、演歌には「死にたい」といった歌詞が出てくることが多い。
パッと思いついただけでも、ちあきなおみの「私は死にたい」、山内惠介「海峡雨情」、丘みどり「椿姫咲いた」など。
2019年発売、ビリー・アイリッシュの「everything i wanted」の希死念慮を暗喩する歌詞がセンセーショナルな曲だと話題になったことを考えれば、病み路線ではだいぶ先を行っている。
ここで提起したいのは「どちらが先だ、優れている」ではなく、その病み歌詞にどんな作用があったか、である。
おそらくメンタルケアが今ほど進んでいない時代に、演歌は人々の心のケアを担っていたのが歌だったのではないか、と思う。
何か落ち込む出来事があった時、誰かに相談して余計に落ち込んだ経験はないだろうか。
その原因は自分の感情をジャッジされることがほとんどだと思う。
など。
”悲嘆のプロセス”や"障害受容"などのワードで検索すると理解がしやすいのだが、私たちは困難に直面した際に即座に受け入れることが難しい。
大なり小なりの怒りや逃避、事実否定を経てからそこでやっと受容できる心の体制が整う。
その受容体制が整っていないタイミングで第三者からのアドバイスが入るのは問題を長引かせかねない。
そんな中で否定もせずに寄り添ってくれるのは、おそらく演歌の生活や感情に密着した歌詞だったのではないだろうか。
極端な例だったが「死にたい」まで追い詰められていなくてもいい。
長山洋子の「捨てられて」の歌い出しは
から始まる。
「あんなやつ、やめておけ」と釘を刺されているだろう風景が浮かび上がってくる。
でも、このヒロインの滑稽さがメンタルヘルスには効く。
多分この主人公はこれから相手を庇ったり、ひどいと思ったりの行ったり来たりを繰り返しながら受容プロセスに入っていくはずだ。
居酒屋で一晩話に付き合えとせがむのは勘弁してほしいところだが、同じ状況に陥った人が何名この歌に救われただろう、とよく考える。
先述した「天城越え」も人を殺していいかという問いかけは倫理的に言えばNGなのだ。でもそこを否定せずに歌う。
受容のプロセス的に言えば、ダメと言われれば言われるほど感情を拗らせて、抑うつになったり実際の行動に移してしまったりするのかもしれない。
実際、殺して良いですかという問いかけに対して「いいよ」と返ってくる確率ってどれほどだろう、と考えるけれど0%だと分かりきっていても「殺す」ではなく「殺して良いですか」と胸中で呟く主人公に、頭ではわかってはいるけれど心がついていかない状態を思い浮かべてしまう。
演歌は決して明るい歌詞ばかりではないが、人が持つ心の出せない部分を代弁しているとすればそれは「人の暗さを肯定する懐の広い歌詞」という解釈も出来る。
私たちは明るい素敵な部分だけで生きていない、暗い部分も綺麗じゃない部分も含めて自分だから、そこを丸ごと肯定されるならば新しい形のエンパワメントではないだろうか。
女性主人公の歌ばかりを紹介したが、男性の歌にもこの傾向がある。
フランク永井と松尾和子の「東京ナイトクラブ」、五木ひろしの「夜明けのブルース」。
どちらも男性が好意を明言せずに相手の言葉を引き出して恋仲になる、それも都合の良い関係…という歌詞で個人的には毎回心で大ブーイングをしてしまうのだが、これも「過度に責任感を背負わされる男性」から歌の中だけでも逃げられるとしたら、救いになったのではないかと考える。
時には背負わなければいけない責任もあるが、当時は今よりも「男らしさ」という言葉に求められるものが大きく、カウンセリングなどの安全基地や解決するための言葉もなかったように思える。
好き嫌いは置いておいて、於かれた状況から逃げ出したくなる時、せめて歌の世界でくらいはロマンがあっても良いかもしれない。
演歌の歌詞はマドンナ並みに奔放
DIVAと聞いて特筆したいのは島津亜矢の「夜桜挽花」の歌詞。
この曲は性についてかなりオープンに描いている。
ここに私はマドンナの「Girl Gone Wild」に近い解放性を感じるのだ。
(ここで「夜桜挽花」のYouTubeでも貼りたかったがテレビの違法転載ばかりなので泣く泣く掲載は控える)
2002年のリリースであるが、当時はかなりの衝撃だった。
おそらく今リリースしても同じように驚くだろう。
個人的に理解や共感はしづらい世界観ではあるが、一辺倒な主人公ではなく多様な人物像を描きだした点、先進性とロック調の編曲、もっともっと評価されてほしい一曲である。
以上
こと女性演歌に特筆すると情念などの湿度が高めの感情を扱う機会が多い。
その難しい世界観をイタコのようにリスナーに届けるのは揺るぎない芯があってこそ成り立つ職業なのだと感じる。
演歌の由来は諸説あり「政治演説の歌が演説歌→演歌となった説」が根強いが、近年の風潮は「演じる歌」で演歌なのだとも思う。
大袈裟すぎるほどの感情や世界観はドラマティックに歌い上げてくれる方が気持ちが良い。
流行りは「頑張らない・引き算したおしゃれや振る舞い」なのかもしれないが、私は演歌のやりすぎくらいの表現方法もエンターテイメントを感じて大好きだ。そこにダサさよりも美学を感じるのである。
洋楽ポップスターに目を向けてみれば、LADY GAGAのパフォーマンスは奇抜で有名だ。でもその奇抜さはただ奇を衒ったものではなく信念や社会を変えていく思いが籠っている。これこそ"演説歌"だと思うし"演じる歌で演歌"に通じるのではと思う。
私たちの気持ちを代弁したり、あるいは俯瞰させることで自分や世界を見つめ直す機会をくれる存在。
これこそが女性演歌歌手と洋楽ポップスターの共通項であり、Queenとして崇拝される所以だと感じている。