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絶望を恐れない。

何かを得るには、何かを捨てなくてはいけない。
ぽっかり失った場所に新しいものがやってくる。
なんてよく言うし、聞くけれど。

それは単にどんなものでも捨てればいいと言うわけではない。
それは、いつだって“今、その時の私が一番捨てたくないもの”だったりするのだ。

捨てて惜しくないものを捨てるのに勇気はいらない。
捨てなくちゃいけないとわかっているのに捨てられないもの。
それを捨てる勇気、失った後の絶望。

そのすべてを味わいきった先に
本当に自分が望んでいた理想郷が待っている。

|絶望は大きな幸福の前兆

35年間生きていると、紆余曲折いろいろある。
けれど、おおかたは幸せな日々を歩いていてね。
そう多く何かに困ることはなかった。

そんな私でも人生に三度ほど奈落の底に落ちたように
深く辛い思いをしたことがある。

一度目は、高校生での進路で悩んだ時。
二度目は、25歳でフリーランスという働き方で生きると決めた時。
三度目は、半年前の失恋。

それぞれは今思い返してもしんどかったなぁと思うことばかりだけど、決まってその絶望の後には私が描いていた理想の未来に沿って生きているのだ。

つまり深く深く辛い経験をするということは
本当の望む幸せの前兆である。

|絶望しなければ得ることのなかった出会い


「もういいよ」
そう、一言を残して彼は去った。
彼が去った直後の一週間は口にしたご飯の味も覚えていなかった。

何かを考えようにもやる気が起きない。
このままではいけないのに、何もしたくない。
寝ている間だけは忘れられるから、とにかく寝る。

死んでるのと同じだった。
しばらくして何かしなくてはと思った。

そうして始めたのが、前から興味のあったダンス。
学生時代にやっていたのだけどブランクがありすぎて
再挑戦するのにも勇気がいった。

鏡の前で踊る私はリズムが取れなくて、いたくダサい。
けれど上手に踊れるようと一心不乱に踊るその時間だけは
彼のことを忘れられて楽しかった。

週1の練習から、週3になり。
体を動かすことに慣れると次第に前はできなかった動きができるようになる。
そしてダンスをきっかけに前向きで楽しい気持ちにさせてくれる友達もできた。

徐々に成長していくダンス。友達との時間。
やっと笑えるようになってきた。
まだ、忘れられないけれど。

絶望して最初に出会ったのは
この踊る楽しさと、新しい友達だった。

|絶望して出会えた、私の魅力

一曲踊り切ることに慣れてきた頃。
ダンスで表現力なるものを身につけはじめていった。

顔の角度、指先の位置、踊り切った後の余韻。
そして表情。息を吸うと共に目を伏せて、吐くと同時に一点を見つめる。

無心で一点に集中するときの表情は
自分で自分の顔が見えていなくても
美しいのだろうなという根拠のない自信が満ち溢れていた。

実際、踊った様子を見返すとやはり普段生活している時の
何倍も自分を美しいと思えたのだ。

当然だが、そういう実感が湧くたびに
自分が自分を好きになる。

と、いうよりは自分が自分を取り戻す感覚に近い。
ようやく「私」を生きているんだという。

すると周りの称賛も批判もどうでも良くなって。
私が私と繋がるようなこの時間そのものが愛しくなっていった。

気づけば男女ともに友達の数も去年の何倍にも増え
美しく、優しい、自慢の友達ばかりが集まって
仕事も順調にいき、私に優しい世界が構築されていった。

|絶望して出会えた、新しい恋


そして、2ヶ月前。
絶望してから半年が過ぎた頃。
新しい恋に出会えた。

心が美しく、優しい男性。
踊っている私の姿を魅惑的と誉めてくれた。

私が好きだというものを同じ目線でいいねと言ってくれる。
彼の口から出てくる何気ない言葉はいつだって前向きで優しい。
それがすごく心地が良くて、一緒にいて幸せを感じられる。

彼は豊かな愛情表現を持っていて、友達思い。
ごめんねとありがとうを自然と口にできる。
何より、どんなに忙しくても忙殺された様子がない。
というより精神が大変な時はお互いに適切な距離を作っている。

言うなれば自分で自分の機嫌を取ることのできる人だ。
私はそれが心地が良い。

繋がらない時間も苦痛に感じない。
それこそ初めは不安だったけれど
彼の人柄の良さを深く理解してからは
何も恐れることはなく自然な流れで繋がれる日を
心待ちにして私も私のことを頑張っている。

彼と出会って気づいた。
この恋は、昔に描いていた理想の恋愛そのものだった。
何一つ欠けていないほどに理想通りだった。

|18歳の夜、こうありたいと願ったこと

ふと、思い出した。
18歳の頃、とある本を読んで
自分で自分の望みを明文化する大切さを学んだことを。

その時、私はどんな恋愛を経験したいのかよく考えたのだ。
当時、家路の途中で色々思いを巡らしながら夜空を見上げて願った。

どちらが上か下かなんていう優劣もなく。
愛し愛されるパートナーシップがとれる恋愛が理想だ。
女だから、男だからとか関係なく、お互いがお互いを支え合えるような。

それを願ってから17年後の今。
私はようやくその願いを叶えるためにこの17年を生きてきたんだと思った。
この17年、その願いを叶えるために色々な経験をして心の鍛錬していたのかもしれない。

=対等な関係で愛し愛されるパートナーシップ=

言葉にする以上に具現化するのが大変なことだった。
これを現実にするには、私の精神的自立と物理的自立が必要不可欠であり
私の幼い頃に培ってきた心のトラウマを解消し、本当の意味で自分を愛することができて初めて出会える。

そのためにはたくさん人に期待をし、人に裏切られる経験が必要で。
裏切られたと思うエゴを乗り越え、その上で自分と人に優しく、どんな時も揺れ動く心の波を上手に乗りこなす必要があった。今までそんなこと到底できもしなかったし、気づかなかった。

|絶望はチャンス

当たり前のように言われていることだけど
この言葉が本当の意味で理解できるのは
本当に絶望をして、本当に乗り越えられた後に実感できる。

絶望はチャンスだ。
絶望は私が意図した理想の未来を歩むための切符だ。
その切符がなければ描いた未来には辿り着けない。

しかも幸か不幸か
その心からの願ったことは取りやめることなどできない。
絶望したくないから、この願いはやっぱり取り消します!なんてことができない。
なぜなら私たちの魂は、それを経験することを決めて生まれてきたから。

つまり私たちは時折、絶望することを避けては通れないのだ。絶対に。
だが、それはお先真っ暗であることを体験させたいがために神がよこした経験ではない。その絶望をどう乗り越えるかを学んだ先で望んでいた未来を得るんだ。

私たちは何にしても幸せになるために生きている。
絶望、苦悩、挫折はその通過点でしかないのだ。

それさえ忘れなければ絶望はしても
早い段階で希望を見出せるようになるのではないだろうか。

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