見晴らしが良いロードウェイ
五月病なんて言いながらも、五月から気温も穏やかな晴れ間が見える日はまさにドライブ日和。五月晴れという言葉もありますし、梅雨までのちょっとの間穏やかな晴天を楽しみたい今日この頃です。
おはラッキー!
五月でいつきって読むんかい!
どうも僕です!
五等分の花嫁の五女の五月ちゃんはこれで”いつき”ちゃんと呼びます。まぁ、五という漢字を使って残りの”き”を表現するとキラキラネームっぽくなりますからね。さつきですがいつきでも良いでしょう、別に僕は推しではないので…。
さて、令和で時代も明けたのにニュースは暗いものばかりですねぇ。琵琶湖のほとりで悲しい事故もありました。あんなに見通しの良い道路で前見てないなんてことありますかねぇ。多少のカーブはしてましたけど、車が来るくらいは余裕でわかりますしどう考えてもわき見運転とかナビでテレビでも見てたとかそんな類でしょう。
別に、これは高齢者運転とかではなく単に不注意以外の何物でもない事故なわけですし、そもそもブレーキ踏めよって話なんだけど。車の運転を日常的にしてるわけだし、僕自身も気を付けないといけない事案ですね、子供もいるわけですし。
外歩いてても、住宅街とはいえ車は走ってくるし、自転車なんかもいる。子供がはしゃいで危ない場面は山ほど遭遇します。
乗る側の視点で言えば、飛び出してくるなよ危ないなぁ。って思う。
歩行者側の視点で言えば、なんでこんなとこ走ってんだよ危ないなぁ。って思う。
なかなかこれが相容れることはないのかもしれないなぁって感じます。車が危ないこともあるし、歩行者自転車の信号無視なんかも往々にしてあるから、車だけが一方的に悪いなんて事案もないとは思うわけですが。どちらも気を付けないといけないなぁってことしか言えませんね。
それより怖いのはむしろ、こういった勝手な持論をさぞかし正論のように振舞って、いやぶん回してマウント取ろうとする輩が多すぎるってことかなと。個人的解釈で意見を持つのは大事だけど、それを正論のように掲げて民衆を引き連れボコボコに叩き上げる様は小学生のいじめより陰湿でたちも悪い。いじめはしちゃいけません、って大人が子供に胸張って教えられるか?っていう状態ですよね、世間は。
僕自身がこう三十代、あるいは社会進出した時に思ったのは、いじめは往々にしてあるし、子供のころ憧れたいわゆる”大人”という人種は、思った以上にたいしたことのない人種だったということでした。子供ながらに、大人というものは見習わないといけないものだと思ってましたし、そういう大人になっていかないといけないなとも思っていました。しかし、実際にそれを体現している大人は1%もいるかどうかわかりません。社会情勢のせいかもしれませんし、幸福度の問題かもしれません。
最近の子供は、そのことに気付き始めています。だから、なんとなく子供が大人に対して敬いがないんだと思います。敬うところがないのに、わざわざする必要はないよね、というのは道理ですね。
人をいじめないとか、嫌なことをしないとか、考えれば至極当たり前なことばかりなんですけどね。じゃあ当たり前って何?普通って何?って個性至高主義マンたちがくだらない論点ずらしで煽ってくる。常識とか定説とか、倫理観自体の失念が加速しているようです。
本当にこの世の中は、人と人とが足を引っ張りあってその位置だけを争っているようにしか見えません。人を下げて自分があたかも上にいるように、それだけのことにこだわる人しかいません。自分が上に上がる、という視点を持ってる人はいません。悲しい限りです。
そうやって、悲観しすぎても世の中生きていくの辛すぎるので。僕はしないようにしよう、とか、自分はそうならないようにしよう、という生き方をするだけで精一杯です。自分なりの正論を持つ、正義を持つのは正しいとは思いますが、振りかざしたらそれは悪にもなりうるので、正論は持つだけで効果があるものだと再認識したいと思います。
定期的にこの話題はブログで書いてます。前の時も同じことをたぶん書いてると思います。自分への戒めというか、言うことで気を引き締める意味でも書く必要があるかと感じています。正直者が馬鹿を見る、それでも仕方ありません。それでも、自分が大事にすべきものは持ってないと、人ならざる者に落ちてしまう。あくまでも、人として生きるために、大事なものはちゃんと心がけたいと思います。
つまりは、北海道にあるオロロンラインでドライブしたいって言いたいだけだったのにこんな話になったとさ。あの事故現場、事故ったからあれだけど琵琶湖のほとりでロケーションとしては最高だなって思ったのが本日のダイジェストでした。
Bye-byeヾ(°∀°)ノシ