「願いを叶える」のその先
こちらも自分用の備忘録。
考察日記です・・・。
「目標ないな~」「強い願いとか湧かなくなったなぁ」
「委ねてみよう」という意識の変容が昨年の終わりぐらいに
起きてしまって以降、やっぱりそれには慣れない訳で。
え~、私一体これからどうすれば良い?
という、うっすらとした不安はあった。
「何かが足りない!」「私は○○がダメ!」
「このままではダメになるに違いない」ということからくる
不安ではない。
もっとうっすらとした
「多分、全ては何とかなる。どうしたって必要なことが
起こっていくだけ。でも、つまんなくないのか?
何か穏やか過ぎる。気持ちが薄~くなりましたけど、OK?
何か今までと違うよ?」っていう不安というか、慣れなさ?
未体験ゾーンに入ったばかりなのだから、
え?え?これからどうしていったら良い?
と思うのはある意味自然だと思う。
ゲームルールがガチャンと切り替わったら、
慣れるまでは戸惑うし、どうやってゲームをプレイしたら良いか、
探しますよね?
だって、人間ゲームは続いているのだから・・・・。
自分の中に意識の変容が起きたんだな、ということは
分かったので自分と同じような感じの人で先を歩いている人
から何か学べないかな?と思っていたら、
幾つか情報に行き当たり、
一つのキーは「体感」であるみたいだった。
なので、日々の中でまず「思考」することを止め
「体感」に集中することにした。
そして、昨日はこんな動画を↓
なんか分かったかもしれない!!
(何がや?・・・・)
すごく閃いたのは、黒斎さんが最後にリトリートの案内
の中で言っていた
「何もしない」をしたいのだけれど、
普通はエゴに邪魔されて「何もしない」ができないのよね~。
という言葉。
そっか。だからか。
先日、ベーシックインカムの話で
最初の駐在でNYに行った時、
「何もすることのない自分」になってしまった時に、
自分の価値を感じられなさ過ぎてメンタルが落ちていった。
という話を書いたのだけれど、
恐らくだけれど、あの頃の私って根底に
「何も役に立たない自分、何もしていない自分=ダメ」とか
「何か結果なり、他人への利益なりを出せていたなら
私はここにいていい」「向上、改善していかないと人としてダメ」
みたいな考えがベースだったのだと思う。
新卒で大企業に就職して、社内でも1番忙しいくらいの部署に
いたから、毎日帰りが終電だった。
お盆に入って取引先が休みとなった時期に、日頃やっている事の
手順をノートにまとめようと昨日の記憶を振り返ったら、
「朝、電車に乗った記憶」と「帰りに電車に乗った記憶」
しか出て来なかった。
嘘でしょ?と思って次の日も自分の記憶を辿ったのに
同じように電車の乗り降りの記憶しか出て来なくて笑った。
ダメだこりゃ。忙し過ぎて記憶が飛んじゃってるじゃん!
それは25年くらい前の話だし、正に「社畜」という言葉に
ふさわしい生活を送っていてからの、結婚と同時に海外転勤して、
突然の「どうぞ、好きなことをして良いよ」
「やらなきゃいけないことないよ」
の生活だったのでエゴ的に無理というか、耐えられない感が
あって英語を猛烈に勉強する生活になったんだと思う・・・。
(その時の経験は、もちろんその後役だったけれど・・・。)
「何もしないで、自由にする」って思っているよりも難しいのだ。
それだと「自己の存在価値」を大抵の人は支えられなくなる。
ルクセンブルグにいた6年ほど前は・・・。
まず、私には子供が2人いたし、3人目をあちらで出産した。
また、向こうでやることとして「フランス語を学ぶ」
ということをやろうと思って準備をしていった。
だから、「何もしなくてはいけないことのない自由な時間」
というのとは違った。
それでも「何もすることのない、刺激の少ない時間」というのは
ルクセンブルグでは体験できたし、NYにいた頃よりも
「それに耐えうる自分」になっていた気がする。
ルクセンブルグに着いた時にビックリしたのは人が少なくて、
車で道を走っても中心部でないと人が歩いていないし、
お店は少ないし、国内にデパートもないし・・・。
後、言語の関係で日本人駐在員はテレビを使わないので、
テレビを見ることがなく、何と言うかNYの頃のように街を歩いて
新しいお店を探すという楽しみもなければ、
ショッピングをするという楽しみもなかった。
特に週末はお店が閉まっているので家族で家で過ごすしかなく・・・。
後々に日本人の駐在員の友達から聞いたのだけれど、
日本人駐在員のいくらかの人達はそんな週末に耐え切れず、
集まっては飲み会をする事で週末を埋めていたらしい・・・。
週末の度に隣国に買い物に出かけていた人もいた・・・。
普通に日本的な生活にどっぷりの人は
週末だけだったとしても「外部から刺激を与えられない生活」
に耐えられなかったのだと思う。
ただ、うちは割と日本にいる時から、或いは夫婦の好みとして
家族で週末をのんびり過ごすのが好きで。
家の周りを散歩したり、庭でバーベキューをしたり、
テラスで夫婦でワインを飲みながらお話ししたり・・・。
庭の芝刈りしたり?
そんなので充分だった。
メディアというのか、外から来る刺激が少ない生活の中で、
自然の多い環境の中に家があったので、
目の前に広がる空地の向こうに虹が出ている様や、
雨の日に稲光が空から走る様を眺めたり、
末っ子を保育園に迎えに行った後に寄る公園で
春先に開き始めた花を見つけたり、
木の上に止まっている鳥たちがあっちとこっちで
お話ししている声を聞くことだけで自分の五感というのか
必要とする刺激が満たされる感じがして、
それはまるで「魂の休息の時間のようだ」と思った。
(そんな中で不思議体験もしたし、
MOTOKOさんからも「あの頃のあなたで生きていくんです」
みたいなことを言われていたっけ・・・。そう言えば。)
割と「何もしない時間をもち、その中にいて繊細な
刺激に満足できる自分」に少なくともNYにいた頃より
近づいていたのだと思う。
そうなれるためには、
「何もしていなくても自分の価値はなくならない」とか
「自分に休むことを許す事」だとかいうことが
ある程度心の中に浸透していないとかもな?
何て今振り返って思う。
だから、日本に帰国し電車に乗って家に帰る時
「日本は街中がなんて刺激だらけなんだろう・・・」
と驚いた。
この動画を見て、
「私達は刺激まみれ」「刺激中毒」みたいな話をされた時、
それが分かる気がした。
ルクセンブルグの人達やその生活はもっとシンプルだったけど、
日本よりずっと幸せそうだったから。
あの時、自分は日本人としてそれが悔しいと思った事を
ブログの記事にしたなぁ・・・なんて思い出した。
「刺激まみれでないといられない内面」であるから
外側が「刺激だらけ」になってしまうのだと思う。
それは「自分のスケジュールを埋めずにはいられない人」や
「家の中に物があふれている人」には
内面的にそうならざるを得ない理由があるように。
もしかすると、「強い刺激がないと満たされない」
という心持ちから「体感を広げていけばこの世界は
充分刺激に満ちている」と感じる人が増えたなら、
社会も変っていけるのかもしれないけれど・・・。
話は何だか最初に書いたことから彷徨ってしまっている・・・。
「身体」を意識するようにすると、自分は一人で生きているのではなく
「身体さん」と共に生きていると感じられるようになってきて
「身体さん」の声を聞いたり、
「身体」が感じている事を聞くようになった。
朝に夕に「身体」が動いてくれることに感謝するようになった。
それはとても「ありがたいこと」
朝が来て、身体が動いて、今日の一日という体験を得られることがもう
ありがたいこと=有り難いこと に思える。
すると、目の前に起こる全ての事は「ありがたいこと」だなって。
前は感謝できることは探さなければ見つからなかったけれど、
目の前の全ての事が有り難いことならば、探しに行く必要がない。
ただただ目の前に起こることをせっかく頂いた体験と思って
大事に味わうことを手繰りながら過ごしてみようと思う。