この世に生まれてきた訳
春の初めににここへやってきた。
桜も散りかけで、暖かくなるのが例年より早い春でした…気づけばクリスマス。
さて、夜早く眠っても何故だか夜中に目が覚めて、その後は中々眠れず、ついあれこれ考えて頭と目が冴える(笑)
ということで、今日はちょっとこれまでの自分を振り返ってみようと思う。
私は以前にもこちらに少し書いたが、足に障害がある。
それでも、両親の尽力で養護学校ではなく地元の幼稚園へ幼馴染みたちと通い、そのまま高校まで波がありつつも楽しい学生生活を送った。
周りには障害がある人はおらず私だけだったが、学校に通うのがイヤになるほどのイジメもなく生涯の友達も出来た(なんと、幼稚園から高校まで同じだった友達が3人もいて、今も仲良し!)。
自由な学生時代を伸び伸び過ごし(母のおかげ🙏)、そのまま就職。
時はバブル真っ只中。最初にお勤めした職場を4年半で辞めて、今に至るまで5回転職。
全て事務職、簿記やパソコンの資格はあるものの特筆するほどでもない、要するにその時その時を流れて生きてきた(笑)
3つ目の職場では、素敵な上司とも出会い、その方とはいまだにお付き合いさせてもらってて当時のままの部下のように思ってくれてる(感謝🙏)。
その当時、1番弾けてて(笑)、海外デビューもスキューバのデビューも!
一人暮らしもスタートして、ようやく母も自由を得たことでしょう。心配はかけてただろうけど…。
そんな自由を謳歌していた30代。
それは突然やってきた。
35歳の春に胸にしこりがあることがわかった。
悩んだ結果、友人の勧めもあり、乳腺専門外来を受診することに…その時点では、乳腺炎かしら?と簡単に思っていて、一人で受診、結果も一人で聞きに行くという、何の覚悟もなく安易な気持ちで病院へ行ったら…結果は乳がん。ステージが何かを伝えられたのかすら思い出せないくらい衝撃。
そんな事とは思ってなかったので孤独に結果を聞く羽目になり泣きながら帰宅。家には帰らずそのまま親友の家に行った。とても一人の家には帰られなくて。今思うとあの頃の私はホントに打たれ弱い性分でしたねぇ。
そこから、あれよあれよという間に入院、手術の日取りが決まり流れるように日が過ぎていった。
1番厄介だったのは両親に伝える時。
私より号泣してますがな…
泣きたいのは私だけど?と思いながら、大丈夫、大丈夫!ちゃんとした先生に診てもらってるから!!!と両親に言いながら、自分にも発破をかけてた。
あの夏から秋にかけては本当に身体も精神的にも辛かった。
あの夏も確か病院で誕生日を迎えたような…。
ちゃんと覚えてないな〜。
退院後の秋から抗がん剤がスタート。
確か3週間置きに6クール。在宅での治療。
初回の副作用は吐き気とかあるものの、まだ軽かった。この先に地獄のような苦しみが待ってるとはこの時には思っていなかった。
きっかり3週間毎に抗がん剤の点滴。
点滴を受ける部屋はとてもゴージャスでリクライニングシートに小さい液晶テレビもあって、リラックスして受けられるようになっていた。
だけど、回を重ねる毎に副作用が早く現れて、しかも長引いた。
最後6クール目には病院の門をくぐるだけで吐き気がして元の体調に戻るまでに2週間以上かかった。その間全く食べられず水を飲んでも吐いてた。
あまりにも辛くて母はきっと困ったことだろう。病院へ電話して対処方法を聞いたりしてたっけ。
けれど、病院ヘ又行くのはとても嫌だった。行くだけで勝手に身体が反応して吐き気を催すから。血液検査の時は仕方なく行くしかなかったけれど…。
そして、当然副作用は吐き気だけじゃなくて、髪もこれでもか!というほうど抜けた。
いや、髪だけじゃない。全身抜けた(笑)
今だから笑える。
美容師の友達に頼んでウィッグを用意してもらって、似合うようにカットしてもらった。
あのウィッグは中々の出来だったねといまだに語り草だ。
そのウイッグに辿り着くまでに面白いエピソードがあるが、それはここでは割愛。
その時お世話になってた主治医の先生はとても繊細な性格で最後まで(10年も通ったのに!)こちらの目を見て話してくれないままだった。
その先生は勿論普段から冗談をいうタイプではないのだけど、私の髪が抜けてある日突然ウイッグ姿で受診したら「いずれ髪は必ず生えてきますから!私は生えませんが!」と。
そう、先生は禿げておられたのだけど、まさかの励ましたかた?看護師さんもクスクス笑われる程。私もビックリ(笑)
いい先生に出会えたなと、その時本当に感じたことが昨日のよう。
その先生は後からわかったのだけど、その道ではとても著名な先生で、私は何とも運良く出会えて最初の診察から10年本当にずーっと追いかけさせてもらって、先生が勤務先を変化されたら着いていった。
10年目の夏、先生が相変わらず目は合わせないまま(笑)、おめでとう卒業です!と言ってくれた。後は市民検診でいいよと。
嬉しいような、寂しく不安なような、複雑な気持ちだった。本当にもういいの?っていうのが正直な気持ちかな。
その、闘病の最後の方で、私は最後(と思う)転職をした。
勤務先の方にも正直に今闘病中で時々診察があり休むこと、ホルモン治療中でもありそのせいで診察じゃなくても休むかもしれないことなどを伝えたが採用になった。
それが今の会社だ。
まさか、又ガンでこんなに長く休むことになるとは当時の私は思っていなかった…。
当時の上司(既に定年)は乳がんの治療が終わったことを伝えたら我が事のように喜んでくれたっけ。とっても優しいお姉さんのような上司だった。
それから15年。この職場でも色々あった。
何度も辞めようと思うほど悩んだ時期もあった。
だけど、何故かこれまでように簡単に辞めなかった…いや、辞められなかった。
歳のせいもある…だが、一緒に悩んでくれる仲間が出来てたし、親身に話を聞いてくれる先輩もいた。そんな人たちに支えられて、後少し頑張ろうと思い直して続けて来た。
そして、去年の春。私の所属する係がこれまでの最高のチームになった。
何でも情報は共有する。困ったことがあれば係で解決出来るように話し合う場が出来た。
とても風通しが良くなり、私のあの息苦しい悩みも嘘のようになくなった。
そんな去年の秋…数年前に脳動脈瘤で倒れた母が長年の闘病生活の末旅立った。
母有っての私の人生だった…と、思っている。
そのことについては、過去にも書いていたと思うので詳細は割愛するが、本当に急なことでとても寂しくて中々立ち直れなかった。
そんな私の気持ちを支えてくれたのは、職場の仲間と、友人だ。
友人と一口言っても色々。
リア友はもちろん、この頃はスタエフにどっぷりハマっていて、そこで親しくなった方達にも随分励ましてもらった。
本当に本当に感謝している。
そして、やっと年末頃には私の気持ちも再び前を向けるようになっていた。
私は、落ち込んだ気持ちや後ろ向きなことを書いたり言ったりするのが苦手で、あまり書いてなかったけれど、母が亡くなってからかなり情緒不安定だった。
でも、少しずつ少しずつ日常を取り戻していった。
そして、年が明けてからは、スタエフの友達と会う機会が増えていったりして、春前には完全に自分を取り戻してた。
それなのに、今年の春、私は再び病と闘う羽目になり、この人生で最長の入院生活を送ることになった。
それから、ここnoteで日々つぶやくようになった。
こうして、じっくり振り返ると、相対的にはとても楽しい充実した人生だった。
障害がありながらも、そして、病気ばっかりしてるけれど、人さまより楽しんできた自負がある(笑)
最高の人生だ!!!
でも、まだ終わらせない!!!
まだ会いたい人が山のようにいる(笑)
残りの人生の総仕上げの時期にきているのかもしれない。
モットーの『生きてるだけで丸儲け』を実践して、笑って死にたい(笑)
はー楽しい人生をありがとうと言いながら。